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美食のススメ

らのまが 2016年 5・6月号 掲載作品

 ぐうう。

 腹の虫が悲鳴を上げ、すぐ近くを歩いていた老夫婦がぎょっとした顔でこちらを見る。無理もないことだ。穏やかな昼下がりに、裏通りですきっぱらを抱え、ふらふらとさまよっているサラリーマン風の男などそういないだろう。

 空腹は最高のスパイスだと先人は言った。俺もその事は正しいと思う。だからこそ今こうして限界まで腹をすかしているのだ。

 しかし、この行為には一つ問題がある。血糖値が下がり、脳が正常に働かなくなるのだ。ある意味人間、ひいては生き物であるうえでは避けられない事態だ。

 まあご飯を美味しくいただくためとはいえ、昼飯時をとっくに過ぎてもなお空腹を我慢し続ける俺も俺だが。

 ぐうう。

 再び腹の虫が悲鳴を上げる。

 半ば思考停止状態で商店街の裏通りをふらふらと歩いていると、どこからともなく芳しい醤油と味噌の香りが漂ってきた。俺はその香りに誘われるように『食堂 だるま』という寂れた看板を掲げる店の暖簾をくぐる。昼食には少し遅い時間だからか、店内には数名の老人客がのんびりとお茶を飲んでいるくらいだ。店に入ると同時に活発そうなポニーテールの少女が笑顔で迎えてくれた。

「いらっしゃいませー。お客さん何名様ですかー?」

「……一人です」

「ハーイこちらの席にどーぞ!」

 少女は俺を席に案内すると同時にメニューを卓に置き、すぐにおしぼりと水を持ってきてくれた。

 改めて店内を見渡すと、そう広くはない薄汚れた店内が目に入った。大きくて光を取り込みやすい窓、壁にかけられた数々の有名人のサインと、どこかの国の風景の写真、そして店内に立ち込める様々な食材の匂い、実も蓋もない言い方だがごく普通の食堂だ。

 まあ店内の様子にいちいち評価をつけても仕方ない。とりあえずメニューをめくってみる。案の定カツ丼定食やらしょうが焼き定食やらが並ぶような、近所のサラリーマンや学生を相手にしていそうな安っぽいメニューだ。その中でもカロリーの高そうなカツ丼定食を頼むことにする。

「ご注文はお決まりですか?」

 俺の考えを読み取ったかのようなタイミングで、ポニーテールの少女がオーダーを取りに来た。

「じゃあ、カツ丼定食で」

「はい、カツ丼定食ですね! ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

「ああ」

「少々お待ち下さいね!」

 少女が店の奥に足早に駆けていき、厨房の方にオーダーを伝えた。しばらくはこの空腹を目の前におかれた水と、店内に漂う香りで紛らわす他にない。

 ……危うくまた腹が鳴るところだった。水を流し込んで腹の虫を溺れさせる。

「お待たせしました! カツ丼定食でーす!」

 十分もせずに料理が運ばれてきた。実に良い香りだ。とんかつにかかっているだし汁の餡が、えもいわれぬ芳香を放つ。味噌汁が入った椀の蓋を取ると、合わせ味噌の柔らかな香りがふわりと広がる。

 ぐおう。

 ようやくありつけた昼飯を前にして、腹の虫も辛抱できないようだ。とりあえずこの空腹を一刻も早く解消しなければ、俺は確実にブッ倒れる。両掌を合わせて一瞬黙祷した。割り箸を割って早速とんかつに箸をつけた瞬間、世界は一変した。

 何だ……何だこのサクサク感はっ!?

 揚げたて特有のカツの衣を噛む度に、サクサクとした心地良い歯ごたえが伝わってくる。そして噛んだ瞬間に溢れてくる肉汁とだし汁餡の絶妙な旨味が舌の上でまろやかに舞い、カツにかけられた半熟たまごがとろりとした優しい後味を残していく。肉の下に敷かれた白飯はカツの下に垂れてしまっただし汁を吸って、旨味を余すことなくキープしている。

 付け合せの味噌汁も、合わせ味噌を使っているため、くどすぎず、なおかつだし汁の味を崩さずに絶妙なバランスを保っている。脂っこいカツを食べた後にはたまらない。

 最後に漬物のお新香をかじれば口の中に残る油のくどさがすっかり消え、さっぱりとした後味のみが残る。

 これは……神の領域だ!

 腹が満たされた至福の瞬間、俺の意識は急激に遠のいた。

「ちょっ……お客さん!? お客さーん!?」

 慌てふためくポニーテールの少女の声が反響する内に気絶した。


※※※


 どこからともなく香ばしいお茶の香りがする。おそらくほうじ茶だろう。その匂いとともに徐々に俺の意識は覚醒へと向かっていく。


 そうだ、俺は、カツ丼を、食べていたんだ。


 目を開けると見慣れぬ天井と少し汚れた蛍光灯が目に入った。どうやら俺は長いソファーの上に寝かされているらしい。

 視線をさまよわせると、ソファーの背もたれと反対側に長身の男が俺に背を向けて立っていた。どうやら香ばしいほうじ茶の匂いはそこからするらしい。俺が僅かに身じろぎすると、長身の男はこちらに気づいて振りかえった。

 歳は二十代中ごろだろうか。無節操に伸びている無精髭を剃って、ぼさぼさの髪をちゃんと整えれば結構なイケメンになりそうだ。

「気がついたか。まあ飲めよ」

 長身の男はぶっきらぼうにそういうと淹れたてのほうじ茶を俺に渡した。俺は半身を起こして、言われたとおりほうじ茶を一口飲む。少しずつ意識がハッキリしてきた。

「オレの名は伊豆いず 醤弥しょうや。食堂だるまの店長をしている。数十分前にウチのバイトが血相変えて飛んできて、あんたが倒れたって言ってきた。そこで俺が運んで介抱してやったってとこだ」

「はあ」

「はあってなんだよ。……もうすこし礼とか言えねえのかよお前は」

「お、おう。ありがとう」

「よし。それにしても何で急に倒れたんだ? オレの飯がそんなにまずかったか?」

 さすがにこの状況で『空腹は最高のスパイスである』という先人の言葉を実践していたなどとは言えない。

「そんな事はない、すごくうまかった」

「まあ、気に入ってもらったようでなによりだ」

 以外に素っ気ない返事だ。もう少し喜ぶと思っていたのだが。そんなことを考えていると、部屋にポニーテールの少女が入ってきた。確か俺のオーダーを取りに来た少女だ。

「ただいま戻りました店長~。って目が覚めたんですね、その人! 急に倒れるからどうしたのかと思いましたよ~!」

「おう、おかえり。材料の補充、ちゃんとやったか?」

「もちろんですよ。店長。……あ、私は大井おおい紗良さらといいます。この食堂でバイトやってます!」

 紗良は急に俺のほうを向いて自己紹介をした。少しどもりながらなんとか返事をしたが、紗良は大きな黒い目を俺に向けたままでいる。よく見ると結構可愛らしい顔をしている。

「な、なんだい?」

「いや、自己紹介してくれないのかなーって思って」

 確かに相手にばかり名乗らせて自分が名乗らないのは何だか不公平だ。こちらからも名乗るとしよう。

「俺は……シロー。グルメのシローだ」

「「はぁ?」」

 二人同時に妙な返事をしてきた。まぁ無理もない。ここで俺が名乗れるのはあくまでペンネームのみだ。

「俺はとある雑誌でちょっとしたコラムや、いろんな店舗のレビューを書いているんだ。ぜひこの店のことを書かせてもらいたい」

「……唐突だな」

「ここの飯が気に入ったんだ。俺はいろいろなところで料理店のレビューなんかも書いてるから、腕は信用してくれ」

「何なんだ一体……」

「あんたが嫌だというのなら手を引くが、俺個人としてはかなりお気に入りだからな、是非書かせてもらいたい」

「勝手にしろと言いたいところだが……おそらく仮にレビューを書いても一般受けはしないだろう」

 どうやら流れが普通と異なるようだ。大体の店ならここですぐに飛びつくはずだ。

「何故だ?」

「この店には宣伝に使えるような実績がない」

「がーん!」

 なぜ俺よりも紗良が衝撃を受けているのかは分からないが、どうやらそれを口実にしたいようだ。

「それなら何か料理大会なり、料理バラエティーに出演するなりして実績を作らないか?」

 俺はもっともな提案をする。一応この業界には多くのコネを持っているため、そういった催しには事欠かない。

「面倒だ。故に、断る」

「有名にはなりたくないか?」

「なりたくない」

「より多くの人に自分の料理を認めてもらいたくないか?」

「俺は今のままで充分満足だ」

「売り上げの増収が見込まれるぞ」

「現状維持でも問題はない」

「そこをなんとか」

「ならん」

 まるで押し問答だ。埒が明かない。もしかしたら俺の行為はありがたくても、素直に受けるのが恥ずかしいのかもしれない。

 説得の言葉が尽きようとしていたとき、不意にドアが開かれてひっつめ髪の女性が入ってきた。

「醤弥! 料理大会に出なさい! 私と戦うために!」

 闖入者は見事な命令口調なおかつ倒置法を用いてそう言い、手に持っていたチラシを突きつけた。チラシには『喰谷家主催! 料理大会開催! 参加者募集中!』と書いてあった。しかし醤弥は素っ気ない返事を返す。

「嫌だ。めんどい」

 しかし闖入者の女性は不敵な笑みを浮かべる。

「ふっ……その解答をこの米丸よねまる酔子よいこが予想していなかったことがあるでしょうか? いや、予想していましたとも」

 酔子はなぜか自信満々な反語形でそう言い放ち、チラシの下のほうを指差した。そこには『優勝者には石釜スチームオーブンを贈呈!』と書いてあった。その一文を見た瞬間、醤弥の様子が一変した。

「石釜……スチーム……オー……ブン!?」

 明らかに動揺している。切れ長の眼を限界まで見開き、チラシを食い入るように睨んでいる。

「ふふふ……あなたがこの手の高級調理器具に飢えている事は先刻承知。どう? これを見てもまだ同じことが言えるの?」

「……くっ。してやられた!」

「おほほほほ! 参加、待っているわよ」

 酔子は満足げにそう言って俺のほうには目もくれずに立ち去った。

「……嵐のような人だったな」

 俺が誰ともなしに呟くと、紗良が食いついてきた。

「そうなんですよ! あの人いつも店長に対抗心燃やしていて暑苦しい上に騒がしい人なんですよ。何でも店長と同じ学校だったとか……」

「紗良! いつまでも喋ってないで仕事しろ仕事! 食材仕入れて来たならさっさと下ごしらえをはじめろ!」

 醤弥の一喝で紗良は慌てて店の方に戻った。これから夕食時となるのでその下ごしらえに行ったのだろう。

「大会、出るのか?」

 俺はおそるおそる聞いてみた。

「むぅ……石釜スチームオーブンがかかっているとなれば仕方ない。なにせ石釜スチームオーブンだからな」

「お、おう」

 醤弥は俺が事態を軽んじていると思ったのか、厳しい顔でまくしたてた。

「だって石釜スチームオーブンなんだぜ⁉ 石釜スチームオーブン! これまでの常識を覆す庫内の湾曲した天井! これにより庫内から放出される高温の熱風が、石窯ドーム構造により対流を起こし! 底面やサイドから食材を包み込むのだ! これにより、うまみや水分をわずかたりとも逃すことなく! 焼きムラを抑え! ふっくらとした焼き上がりを残す! 強火で焼き上げなければならないグリル調理の時も! 天井につけられたヒーターが湾曲していることにより! たとえ大きな食材を焼いたとしても焼きムラがほとんどない! レンジ加熱時もドーム形状が効果を発し! 全体にムラなく温められるようになっているのだ!」

 何を言っているのかさっぱりわからないが、どうやら石釜スチームオーブンの素晴らしさを語っているようだ。顔がいちいち怖いのだが。

「それだけじゃない! 金網を用いれば焼き魚や肉まんなどの焦げ付きやすい料理も自由自在! 鉄板を使えばハンバーグ、ステーキのような焼き色を重視した肉料理が見栄えよく、なおかつ大切なうまみを一滴残らず凝縮できる! 料理の幅が広がるってどころじゃねえ! うちのメニューを全改訂してもいいレベルなんだぞ!」

「わかった。わかった。石釜スチームオーブンの素晴らしさは分かったから落ち着け」

 少しだけ冷静になったのか、醤弥は喋るのを一時中断した。息を整えている間に俺は先手を打つ。

「まあ、参加する気になってくれたようで俺としてはうれしい限りだ」

「っ!」

 醤弥ははめられたことに気づき、頭を抱えた。

「くそっ……また成り行きでこんなことになるとは……」

「またってことは、前にもこんなことがあったのか?」

「ああ。実は――」

 醤弥ははっと我に返り、咳払いをして喋るのを中断した。

「今はそんなことどうでも良い。しかし料理大会となると大きな問題があるな」

「問題?」


※※※


「勝てないんですかぁ? 店長なのに?」

 紗良がすっとんきょうな声をあげた。

「そりゃそうだ。こっちはあくまで下町商店街の食堂。相手は一流レストランのメインシェフだ。それに奴の腕は確かだ。学生時代も俺と同格ぐらいだったしな。それに、俺らよりいい材料や設備を大量に持っているんだから圧倒的に有利だ」

 醤弥は不機嫌そうな顔で返した。

「勝算は、あるのか?」

 心配になったので聞いてみた。どうにもこのままでは勝てそうな気がしない。

「なかったらわざわざこんなとこまで来てねぇよ」

 俺たちはとある漁村にある卸売市場に車で来ていた。しかも料理大会当日の早朝にだ。

「今回の料理対決は、調理器具以外は全て参加者で用意ってことになってるからな。そのための材料調達だ」

「だからってこんな冬の早朝にド田舎の朝市ですかぁ? 寒いよー早く帰りたいよー」

 紗良は分厚いセーターの上に白い毛皮のコートを羽織りながらもぶるぶると震えている。まだ日も出ていない早朝なのだ。気温は確実に氷点下となっているだろう。

「うるせえな……そんなに寒いんなら車ン中で待ってろ」

「言われなくてもそうしますよーだ」

 紗良は早速大型のワゴン車の助手席に戻って不貞寝を始めてしまった。この寒さではさすがに無理もないだろう。

「さてと……荷物運びくらいは手伝ってもらうぞ、シロー」

「俺は荷運び要員かよ」

 この扱いにはさすがの俺も不満たらたらだ。というかペンネームの『シロー』をこうも堂々と呼ばれるのは逆に恥ずかしい。響きだけ見れば実際にありそうな名前ではあるのだが。

「俺が勝つためなんだ。我慢して協力しろ。お前にも益があるはずだが?」

「よーし頑張っちゃうぞー、何でも運んじゃうぞー」

「その意気だ。……ん、会場が開いたな。しばらくそこで待ってろ」

 醤弥は卸売りの会場に入っていった。どうやらこれからせりが始まるようだ。

 ひとまず俺は醤弥に指定された場所で待機するほかない。せりにどれだけの時間を要するのかわからないが、この寒空の下で何もせずにぼんやりと過ごしているだけというのは、いささか己の存在意義を問い直したくなる状況のような――

「おい! そこの兄ちゃん醤弥んとこの手伝いだろ!」

 ぼんやりしていると、唐突に筋骨隆々な老人に話しかけられた。

「え、あ、はい」

「こいつ持ってきな!」

 あたふたしていると、老人は彼が引いてきたと思しきリアカーの上から巨大な発泡スチロールの箱を持ち上げ、俺のそばにドシリと置いた。否、その箱は一つではない。みるみるうちにリアカーに乗っていた発泡スチロールの箱のうち半数が、俺の目の前に積み上げられた。

「おーし。これで全部じゃ。まいどありー!」

 老人は陽気に笑いながらリアカーを引いて、どこかに立ち去った。

 まさか、これを運べと?

「ハハッ。冗談きついなぁ……」

 ズン。

 背後に気配を感じて恐る恐る振り返ると、先ほどとは違う老人(こちらも筋骨隆々)が発泡スチロールの箱を積み上げていた。

 俺がひきつった笑みを浮かべると、老人はにかっと笑い発泡スチロールの箱を手で示した。

「持ってきな!」

 目の前に発泡スチロールの箱が山積みになった。早速心が折れそうになった。



 ……ああ、俺は車と卸売り会場の間を何往復しただろう。

 手がかじかみ、箱を取り落しそうになる。

 あわてて持ち直すと今度は自分自身のバランスが崩れそうになる。

 膝が笑い、次に一歩踏み出せば崩れ落ちてしまうかもしれない。

 だが、これで最後だ。

 あの笑顔の老人たちが残していった発泡スチロールの箱は……これで……。

 俺は最後の箱をワゴンカーに積み込み終わるとばたりと倒れた。



「……おい。なにこんなとこで寝てんだ。シロー。置いてくぞ」

 何者かが倒れ伏す俺の頭に容赦なく足を載せてぐりぐりとしてくる。

「……せめて、労いの言葉くらいは欲しくなるぜ……」

「どうでもいいから早く起きろ。お前はあらゆるところで気絶するのが趣味なのか?」

 醤弥は俺の頭から足を除けて運転席に乗り込んだ。まったく、この仕打ちはいかがなものなのか。

 ワゴンカーに乗り込もうとして、重大なことに気づいた。

「おい、俺の席は……」

 助手席はすでに紗良が不貞寝しているため埋まっており、運転席には醤弥がいる。後部座席は大量の発泡スチロール箱に埋め尽くされている。つまり、これは……。

「おめーの席、ねえから!」


※※※


 一応あの後、俺は車に乗り込むことはできた。ただし、発泡スチロールの箱の間に押し込まれるような形で、だが。

 漁村の朝市から車で約三時間、ようやく大会の会場――つまるところ、喰谷家に到着した。

大がかりな催し物を主催するだけあって、屋敷はとんでもなく広い。敷地内に車で乗り入れてから駐車場に着くまで、車で十分もかかるというのはなかなか驚くべき距離である。

 屋敷の入り口では使用人たちがいて、大会参加者であることの確認を取ってきた。醤弥が手際よく受付を済ませると、早速厨房への出入り許可が出た。

「よし、厨房に材料を運び込むぞ。今度こそ手伝えよ、紗良」

「ふぁぁ……おふぁようございます」

 あくびとともに紗良は助手席から降りてきて、危なっかしい足取りのまま調味料の入った箱を屋敷の中に運んでいった。残りのほとんどの材料は醤弥が運んでしまい、俺は野菜を入れた箱を持って二人の背中を追う。

 屋敷の中も見た目と違わず広く、ところどころで使用人に案内されなければ、厨房にはたどり着けなかっただろう。厨房もその屋敷に見合った広さであり、まるで学校の家庭科室のようだった。

 材料を運び込むと、醤弥は早速器具の確認を始めた。ガスコンロ、水道などの機器チェック、お玉、しゃもじ、包丁などの調理道具の点検、その様子からは普段の無愛想な様子とは一転して、どこか楽しそうな雰囲気が窺えた。

「紗良、シロー、調理は俺一人でやるから後は任せろ。絶対優勝してみせる」

 一通りチェックを終えた頃にはすっかり真剣な表情にかわっており、研ぎ澄まされた包丁のような鋭い空気を纏っていた。

 その後、以前宣戦布告してきた酔子と他二組の料理人がそれぞれ調理台につき、俺たち付添い人は料理場の下手の方にあった席に移動した。そして全員揃ったのを見計らって使用人がアナウンスを始めた。

「本日は大会にご参加いただきありがとうございます。司会進行は喰谷家使用人の井田が務めさせて貰います」

 さすがは使用人、しっかりしている。

「本日集まっていただいた方々を簡単にご紹介いたします。まずはエントリーナンバー一番、料亭『うおいち』より魚住 一郎さん!」

 眼鏡をかけてでっぷりと太った料理人が軽く一礼した。もしや腹がつかえて深くお辞儀ができないのかもしれない。

「続きましてエントリーナンバー二番、中華料理『炸鶏ザーチー』より劉黒ラウヘイさん!」

 切れ長の眼の料理人が軽く礼をした。容貌と名前から察するに中国の人なのだろう

「続きましてエントリーナンバー三番、レストラン『ブランディ』より米丸 酔子さん!」

 紹介に応じて酔子が料理台の前で優雅にお辞儀をした。その時こっちをみてにやりと笑ったのはいただけないが。

「続きましてエントリーナンバー四番、食堂『だるま』より伊豆醤弥さん!」

 それまで材料をチェックしていた醤弥は一度手を止めて軽く一礼した。

「さて、それでは最後に審査員にして今回の主催者を紹介いたします。我らがご主人様にして偉大なる料理評論家、喰谷貪くいたにどん様!」

 異常に面倒な前振りの後に、厨房の上手からがっちりとした体格の壮年の男が入ってきた。口に蓄えた白いひげと鋭い眼光は、漢の存在感を一層引き立てていた。

「面子も揃いましたので、ルールを確認します。各チーム一食分の料理をつくってもらい、それを審査員に試食してもらうことで優劣を競ってもらいます。制限時間は一時間です」

 例のチラシに書いてあった通りのことを説明された。参加者達も納得しているのだろう、特に反応はない。

「それでは、調理、始め!」

 使用人の井田の一喝と同時に四人の料理人たちは動き始めた。

 四人のうち三人はまず始めに米を洗い始めた。当然ながら最も時間がかかり、なおかつ間にこれといった作業が必要ない炊飯は、米を献立の中に入れるなら最初に行う。唯一米を洗わなかったのは酔子だった。酔子が最初にしたのは、パスタソース作りである。

つまり主食は米ではなくパスタであることがわかる。

 それ以外の三人は三分もせずに米を洗い終わり、早速圧力鍋に米を入れて加熱を始めた。そこからは全員が異なる動きを始めた。魚住はまな板いっぱいに横たわるマグロをさばき始め、劉は鳥を丁寧に骨と肉に切り分け、酔子は丁寧に牛肉を切り分けていき、醤弥は大根を薄切りにした。

 一時間が過ぎる頃には、四人の料理人の前に料理が並んでいた。

「皆様作り終えたようですので、調理はここまでとします。それでは一番の方から順に料理の説明をよろしくおねがいします」

「はい。うおいちの料理長魚住です。今回の献立はマグロのステーキと枝豆おこわです」

「魚住さまありがとうございます。それでは二番の劉さまどうぞ」

「……」

 待っていても一向に喋らない。もしや日本語が解らないのかもしれない。すると俺たち付添い人のいる席で男が立ち上がった。

「スイマセン、ウチの店長は日本語が喋れないので料理紹介はパスでお願いします」

 まさかのまさか、予想が当たってしまった。ちなみに見える限り炒飯と唐揚げが献立のようだ。

「かしこまりました。それでは飛んで三番の米丸さまどうぞ」

「はい、今回のメニューはほうれん草とマッシュルームのクリームソースパスタ、そして牛フィレ肉赤ワインソースがけでございます」

「ありがとうございます。それでは最後に四番の伊豆さまどうぞ」

「ぶりの照り焼きと味噌汁、白飯。以上」

 ……ちょっとまて、何だこの格差は。絶対勝ってみせると言った醤弥の言葉はなんだったのか。

「それでは早速試食といきます。喰谷様以外の方もどうぞご賞味下さい」

 どうやら作られた料理の全てを審査員が食べてしまうわけではないようだ。まあかなりの量があるのだから当たり前といえばその通りなのだが。早速俺も試食に行こう。

 まずは『うおいち』のマグロステーキと枝豆おこわ。……なるほどこれは素晴らしい。もともとかなりいい素材を使っているらしく、どちらの料理もシンプルな味付けが素材そのものの味を充分に引き出している。マグロは中まで火を通していないので外側のカリッとした食感と内側の柔らかい食感の対比が絶妙で、あふれ出るジューシーな肉汁が食欲を加速させる。枝豆おこわはシンプルな味付けとあっさりとした後味で、こってりしたマグロステーキの箸休めにはもってこいだ。

 次は『炸鶏』の炒飯と唐揚げだ。炒飯を一口食べてわかったが、これはそんじょそこらの中華料理店とは全く違う。おそらく炒めるときのゴマ油の量を最低限にしているのだろう、脂っこさがほとんどない。それでいてパラパラ感がしっかり出ているのだから驚くべきものである。箸でつかんだときはまとまって取れるというのに口の中に入れた瞬間パラリと解ける。当然ながら焦げ付きなど微塵も入っておらず、見た目も味も申し分ない。唐揚げも、揚げ物とは思えないほどに脂っこさが少ない。なおかつ外側の皮はパリッと香ばしく、中の鶏肉は一噛みごとにジューシーな肉汁があふれ出てくる。これほどまでに計算しつくされた材料の使い方は、長年の経験によるものだろう。

 次に酔子の作った、ほうれん草とマッシュルームのクリームソースパスタと牛フィレ肉赤ワインソースがけだ。名前だけでも長すぎて困る。パスタの方は見た目こそ普通だが、実際に食べてみるとその違いは歴然だ。そんじょそこらのレストランで出している量産品とは、一線を画していることが容易にわかる。まずクリームソースが、最高に良い舌触りだ。さながら絹のハンカチを撫でるかのような滑らかさである。そこに柔らかな、ほうれん草とマッシュルームが加わっており、歯ざわりも最高。そしてほんのりとオリーブの香りのするパスタが加わっており、鼻腔をくすぐる独特の香りを楽しませてくれる。文句なしの一品である。そして牛フィレ肉の赤ワインソースがけだ。さすが最高級部位フィレ肉と言ったところか、柔らかくて食べやすく肉のうまみが凝縮されている。そしてなにより肉にかかっている赤ワインソースだ。適度な酸味とかすかな塩味が肉の旨さを一層引き立てている。

 最後に醤弥の作ったぶりの照り焼きと味噌汁と白飯だが……明らかに見た目だけで言えば中学生でも作れそうな家庭料理だ。とりあえず白飯を食べてみる。何の事はないただの白飯だ。割と良い米を使っている事は分かるが、それ以外に特筆するべき点も特にない。次に味噌汁だが、驚くべきことに見た目よりもはるかに旨い。わずかな酸味のある赤味噌と、旨みを凝縮しただし汁の調和が見事だ。実の豆腐と大根もよく汁を吸っており、柔らかく歯ざわりが心地いい。そして最後にぶりの照り焼きだ。

 ……こっ、これは!

 旨い。旨すぎる。見た目の素朴さとは裏腹に大胆な味付けが施されている。調味料の組成はわからないが、醤油とみりん、砂糖、だし汁を使っていることだけはわかる。しかしそれらの調味料だけでここまでの一品が作れるものなのだろうか。塩味と柔らかな甘み、そしてだし汁のコクが効いており脂の乗ったぶりとよくあう。醤油の芳醇な香り、砂糖の微かな甘み、だし汁の控えめかつ大胆な味わい、みりんによる照りづけ。さながら交響楽団の如く調味料が見事なハーモニーを奏でる。これがただのぶりの照り焼きといえるだろうか。否、断じて否!

「それでは結果発表です」

 井田の一声でようやく正気に戻ることができた。貪が上座で立ち上がっているので、どうやら主催者じきじきの結果発表らしい。

「今回、四人の料理人殿に料理を振舞っていただいたこと、真に光栄である。いずれも甲乙つけがたい良い料理であった」

 非常に落ち着いた声でゆっくりと語り始めた。その目からは最初に見たときの鋭さは失せており、ただ穏やかな静謐をたたえていた。

「その上で優勝者を決めるのであれば……四番の伊豆殿が相応しい」

 ……なんということだろうか……!

「納得できません!」

 ひどく興奮した様子で酔子が声を荒げた。無理もない。他の二人の料理人も同じように不満気な雰囲気を出している。だが俺だけは妥当な結果であると、心の中で納得していた。

「その言葉ももっともだ」

 貪は物怖じすることなく頷いた。何か理由があるようだ。

「魚住殿、劉殿、米丸殿、あなた方の料理、いずれもとても美味なるものであった。しかし、伊豆殿の料理にはあなた方にはないものがある」

 ここで貪は一呼吸置いて、それから言葉を続けた。

「それは、私個人の好みに他ならない。伊豆殿、この料理の材料は私の故郷で仕入れたものであろう?」

「よく分かったな。さすがだ」

 醤弥が満足そうに答えた。わざわざあんなド田舎の朝市に出かけた理由がようやくはっきりした。これが醤弥の言っていた勝算ってやつか。

「儂とて、だてに料理評論家をやっているわけではないさ。それに君自身の個性も料理から窺えたからな」

「ぶりの照り焼きだろう。悪いがあのタレの製法は秘伝だから教えたりはできないぜ。また食いたくなったらウチの暖簾をくぐりに来いよ」

「先に言われてしまったか……。まあいい。約束どおり石釜スチームオーブンは伊豆殿のものだ」

 醤弥はにやりと不敵に笑うと、万雷の拍手の中、調理場を後にした。

 本当に勝ってしまった……。伊豆醤弥、何者なのだろう……。

 歩み去る彼の背中をただ俺は見つめることしかできなかった。


※※※


 数日後、食堂『だるま』にて。俺は紗良と酔子と醤弥のいる席に座っていた。時間はちょうど午後四時頃で、客足も途絶えている。

「で、何の用だシロー、そして酔子」

「今回の料理対決を雑誌の特集にしたんで、ぜひ見てもらいたくってな」

 そう言って俺は書いた記事の載っているページを開いた。

「……『高級食材に打ち勝つ家庭料理の実態』だぁ? なんだこれは。ってか勝手に記事を書くんじゃねーよ! このヤロー」

「納得できません! 何でこの記事には私のことが書いていないのです!? もっと! もっと私の出番をっ!」

「そりゃー当然主役は醤弥だからな。っていうかもう出版しちゃったぜ。しかも増刷も決定している」

「「はぁ!?」」

 醤弥と酔子が同時にすっとんきょうな声を上げる。

 我ながら会心の出来の記事だ。実際この記事は読者アンケートで一位を冠している。

「まぁまぁ店長、この記事のおかげでウチの売り上げも二割増なんですから良いじゃないですかぁ。それにしてもシローさんがかの有名な『ウォールペーパー』の記者だったなんてねぇ。業界一の売れ行きでしょ、あの雑誌」

「ま、俺もいい手柄ができてボーナス増加間違いなしだしお互い様さ。ところで酔子さんは何でここにいるんだい? 俺はこの記事のこと知らせにこの食堂に来たんだけど」

「そうでしたわ……伊豆 醤弥、リベンジよ! この料理大会に出なさい!」

 そう言って酔子は『新浦農協主催! 料理大会!』と書かれたチラシを持ってきていた。

「またか……今度こそ付き合わ……なに!? 優勝賞品はブランド米『かたひかり』一年分だと!?」

 何だか以前も見たことのあるパターンだ。もしかしていつもこんな感じなのだろうか。

「またですか店長~いつもおんなじ手に引っかかってー」

「むぅ……ブランド米……」

「おほほほほ、楽しみにしているわよ! 伊豆 醤弥!」

 やれやれ……どうやらこの食堂はこの手の話題が尽きないようだな。どれ、もう少し見させてもらおうかな。

 俺はそう思いながら、次の記事のタイトルを考えるのであった。



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