邪の道は
らのまが 2015年 11・12月号 掲載作品
※R17注意
1
殺風景な景色というものを想像してもらいたい。ねえ、そこには何がある?
僕がこれを言葉として誰かに伝えたなら、そいつは荒れ果てた大地や、剥き出しになった岩肌を思い浮かべることだろう。
それは決して間違いではない。だけど、それだけが正解ではないというのもまた、僕にとっての正解となんだ。僕にとっての殺風景な景色とは、完成された美しい情景の中に、ただ一点の汚濁があることだ。例えば、美麗な花園の中心に鉄くずの塔が建っていたらどうだろう。緑豊かな春の山に一本だけ紅葉している樹木があったらどうだろう。何より、あるべきはずのものがない世界を、想像できるだろうか? 余分なものが付随してばかりの世界は、とても醜い世界に見える。だけど、逆はどうだろう。
想像してほしい。僕の言う殺風景な景色とは、欠けてしまった自然そのものなんだから。
僕は、腕のない状態で生まれてきた。片腕が、などという断りを入れないことから察してもらえるとありがたいのだけど、僕には両腕が欠けていた。最初からなかったはずのものに対して欠損という表現を使うのはおかしいかもしれないけれど、あえて、そういう風にすることにしている。それだけじゃない。僕に足りないものは、腕だけではなかったんだ。
山で生まれ育った僕は両親の顔を知らないし、親友と呼べる存在に出会ったこともない。仲間と呼べる存在には出会ったかもしれないけれど、生涯の友になれるかどうかは微妙なところだ。だけど、不幸じゃない。どれほどが辛いことがあっても、僕は満足するべきなのだろう。
生きているだけで、僕は幸せなのだから。
生まれたばかりの頃は孤独だったけれど、この山では、特別奇妙なことではなかったらしい。僕が住む山には両親の顔など知らないものの方が多く、血族と行動を共にしているのは猿や猪、鹿や熊くらいのものだ。流石に四足の獣と群れをなすわけにも行かないし、特に、猪の傍にいると怪我をすること間違いない。
山に馴染むことが出来なかったから、独りのまま。僕は、孤独であることを選んだのだ。
もっとも、自分に近づいてくるものを拒絶するほど孤独を好んでいるわけでもない。ただ、自分から何かを得ようとするのが堪らなく怖いだけなんだ。それは、失うことへの恐れと表裏一体に違いなかった。
僕は、こう考えている。失うものがなければ、失ったときの痛みなんてものを感じなくて済む。だから、最初から手に入れなければいいじゃないか、と……。
木々の隙間から零れる柔らかな光に、目を細める。灼熱の太陽に焦がされる季節もようやく終わりを迎えようとしているのか、心地よい風が僕の肌を撫でていく。優しい風に誘われるまま、目を閉じた。
穏やかな眠りにつくとき、僕は幸せな夢を見る。その中で、僕は笑っていた。
森に棲む小さな生き物たちと心を通わせて、静かな日々を生きていた。平穏で、誰も傷つくことのない世界。何度も同じ夢を見たのだから、僕は、誰もが幸せな世界を望んでいるのかもしれなかった。
木漏れ日の中でまどろんでいると、草や葉をかき分ける音が聞こえてきた。ほぼ間違いなく彼だろう、と予測を立てることが出来る。少なくとも大型の獣でないことは確かで、危険ではないから、と目を瞑ったままでいることを決めた。生まれたときから山にいる僕は、大抵のことには驚かないのだ。
……まぁ、多少は誇張表現が入っているけれど。
眠気が強まってきたとき、予想通りの声が聞こえてきた。
「おい、エミシ。エミシ、エミシ!」
何度も僕の名前が呼ばれている。五月蠅いと言って追い払いたいところだけど、起きていることが確実になると彼は絶対帰らない。もとより、山には娯楽が少ないのだ。話好きな彼が、僕みたいな都合のいい話し相手を放っておくはずがない。
……もう少し、強気な性格に生まれたかったなぁ。
「エミシ! 俺のおかげで、お前も幸せになれるぞ!」
なかなか帰らないところをみるに、狸寝入りはバレてしまっているらしい。仕方なく、重い瞼を開くことにした。すると、気持ち悪い動きをする彼が目に入った。
僕と比べてかなり背の低い彼は、活発に動き回ることが好きだった。今にも空を飛べそうな勢いで、僕の周りを駆け巡っている。木によじ登りながらも視線だけは僕へと注ぐ彼に、質問をぶつけることにした。
「……なんだよ、幸せって」
「ふっ、聞いて驚け。静寂と孤独を愛するエミシにも、遂に彼女が出来ると言うことだ」
「彼女?」
「そうだ。生まれたからには、子供が欲しいだろ? というわけで、お前にも彼女を」
「帰ってくれないか。変な冗談ならやめてくれ」
「おいおい、ツレないこと言ってくれるじゃないか。でも、俺のおかげで……あっコラ、無視するな……寝るんじゃねぇ!」
再び目を瞑った僕の周りを、彼が足音を立てて走り回る。無視を続けても良かったけれど、このまま放置しておいても五月蠅いだけなので、さっさと要件を済ませてしまうことにした。そもそも、彼に要件なんていうものがあるのかも疑わしいが。
「チッ。まったく、人が気持ちよく寝ているときに……」
「俺をそんなに邪険にするなよ? なんたって俺は、山のことを知り尽くしてんだからな!」
僕が舌打ちしたことなど気にも留めていない様子で、彼は笑う。僕が心の底から怒りに震えているわけではないことが、彼には分かっているのだろう。
彼はいつまで経っても変わらない。僕より背が低いことも、そのくせ僕より仲間が多いことも、きっとこれからも変わらないのだろう。
寝惚けて働きの悪い頭で、じっと彼の姿を見つめていると、彼は音もたてずに木から下りてきた。無音での行動は、彼の特技のひとつだ。その癖普段は大きな音を立てながら歩き回っているし、彼は寂しがり屋なのかもしれない。
まだ動き足りないのか、円を描くようにして、僕の周りを歩き始める。落ち着きのない彼のことを、僕はオカゲと呼んでいた。ことあるごとに、自分のおかげだと主張する、鬱陶しい奴なのだ。実際、索敵能力だけはずば抜けて高いらしく、彼が仲間から頼られているところを何度も見たことがある。少々五月蠅いことを除けば、オカゲは誰かの役に立てる奴だった。
「で、話があるんだけどさ」
「何だよ、オカゲ。要件があるなら、早く済ませてよ」
「おいおい、早いだけの野郎は嫌われるぜ?」
「黙れ。僕は寝たいんだよ。あまり邪魔をするようなら噛み殺すぞ」
「本気か?」
「当たり前だろ」
オカゲは、呆れたように首を振った。
両腕のない僕には、口くらいしか武器になるものがない。けれど長年付き合っている以上、彼は冗談の止めどきを見失うようなヘマはしない。最後に足踏みをして、オカゲは歩みをとめた。これでようやく、話が出来る。
「あー、オホン。この前、村に行ったときの話なんだけどな。お前とそっくりな奴を見つけたんだよ」
「僕と? というか、村へ行ったのか。よく生きて帰ってこられたね」
「まぁ、俺は隠れるのが上手いし、村の連中も俺には注意を払わないからさ。で、俺が見つけた奴の話だ。個人的には全くと言っていいほど興味が湧かない奴だったんだが、お前となら上手くいくような気がしたんだよ。というわけで、お前に彼女が出来るように後押しするつもりだ」
「話の流れが分からないよ、オカゲ」
「俺のおかげでお前にも彼女が出来るんだぜ? 今はそれを喜べばいいじゃないか」
「僕の意志を無視する気満々じゃないか。最低だね」
「怒るなよ? お前は臆病者だけど、キレたら怖いからな。まぁ、今回俺が見つけた奴は、お前とどこまでもクリソツなんだよ。絶対上手く行くって。俺のおかげだ、感謝しろよー?」
「クリソツって?」
「かーっ! 細かいことを気にするな、この田舎者が! いいか、大事なのは『村』『彼女』『結婚』の三単語だろうが」
不思議なことに最後の一言を聞いていない気がするのだけれど、彼が言うならそうなのだろう。そういうことにしておかないと、また話が止まってしまいそうだった。
「……しかし、『村』ねえ」
「ムラムラしないのか」
「殴るぞ」腕はないけど。
くだらない下ネタを披露したオカゲから目を逸らして、少しばかり考える。
オカゲが言う村というのは、山を下りてすぐの所にある集落のことだ。人を探す方が難しい山中とは異なり、至る所に人間がいる。鹿や猪を仕留めることを生業とする猟師も住んでいるけれど、基本的には他所の土地からの客人をもてなすことで生計を立てているらしい。住人同士で喧嘩をすることも少ないが、外との繋がりも極端に少ない。鹿を見ると彼らは喜び、腕のない僕を見ると大抵の村人が逃げていく。一度行ってみたことがあるけれど、僕を追いかけてくるのは、小さな子供くらいのものだった。
そんな村に、僕とそっくりな……?
考えてみても、全く理解が追いつかない。オカゲの言葉が嘘だと言うつもりもないけれど、どうにも判断のつけ難いところがあった。とにかく、おいそれと納得できるようなものでないことは確かだ。
「ところでオカゲ、その、僕にそっくりっていう子は……」
顔をあげて、小柄な彼を探す。だが、さっきまでいた場所にも彼はいない。僕に話を持ち掛けてきたはずの彼は、視界から姿を消していた。彼は、ひとつの場所に落ち着いていることが出来ない、困った性格の持ち主だった。彼を知るものなら当たり前に知っているハズのことを、ほんの数瞬、忘れてしまっていたのかもしれない。
山では、小さな油断が命取りだ。僕のように弱いものは、特に。
分かり切っていたはずなのに、僕の心には隙間が出来た。どうしてそうなったのか、自分ではしっかりと分かっている。オカゲが、僕にあんな話をしたから。僕にそっくりな奴がいるという話をしたから、気になって仕様がないんだ。……僕も現金な奴だなぁ。独りでいることを選んだくせに、すぐ、仲間が欲しくなるんだから。
溜息を吐いて、頭を振る。なんだか、疲れてしまった。凶悪な猪や、好奇心と共に殴りかかってくる猿がいないことを確認してから、もうひと眠りすることにした。首を伸ばして周りを見渡すと、名前も知らない一株の茸が目に留まる。
血のように赤い茸は、夏の残り香を含んだ風に揺れて、微かに胞子を撒き散らしていた。
2
オカゲに『彼女』とやらの話を聞かされて、数日が経過した。あれ以来、オカゲとは一度も会っていない。
宵闇の中に口を開けて、舌先で彼の臭いを探す。生まれつき視力が悪かった僕は、変なところばかりが発達しているのだ。僕から見れば異常なほど背が低いオカゲにも、毎度のように気味悪がられている。だけど、これは仕方のないことだ。僕が生きていくためには、持っているものすべてを使わなくてはならなかったのだから。
……腕を持つ彼には、きっと一生分からないのだろうけど。
小鳥が一つの歌をさえずるほどの時間、口を開けていた。だけど、成果はない。舌先に感じる空気から、オカゲが周囲にいないことは明白だった。これ以上口を開けていても顎が疲れるだけだから、閉じてしまった方がお利口さんだ。それに、お喋りの大好きな彼のことだから、わざわざ山の中を探し回らなくても、彼の方から会いに来るだろう。
そんなことを考えながら、御影石の上に腰かけた。
オカゲはいつ、僕の前に現れるのだろう。
木の葉が擦れる度に、木々が小さな囁きを交わす。
虫達が鳴く声を聴きながら、ふと口を開いた。心の中に小さなささくれがあったから、と言っても誰にも分からないだろう。僕自身にも分からない、しかし確かに存在していた違和感が、僕をそんな行動に移らせたのだろうと思う。でも、そんなことはどうでも良かったんだ。
再び先の分かれた舌を秋の空気に触れさせて、違和感の正体を探る。何の前触れもなく、口内に感じる空気が僅かに甘いものへと変化した。柿が熟れるにはまだ早く、栗は子猿すら触れない時期。こんな季節に、なぜ、甘い香りがするのだろう。この匂いを発しているものは、何だろうか?
匂いを嗅いでいると、飢餓にも似た感覚が胸にこみ上げてきた。小さな頃、初めて孤独を意識したときにも似ている。僕より小さく弱かったオカゲを、初めて仲間として認識したときのような緊張感もある。そして何より、絶対に見つからないと思って諦めていたものが見つかったときのような、不思議な安心感がある。
けれど、何より。
……どうしてこんなに、胸が疼くんだ?
風上から漂う甘い匂いが、徐々に強くなってくる。それも、村の方角から。
匂いが強くなるにつれて、草木をかき分ける音も聞こえるようになった。何かが、僕の元へと近づいてきている。何かが、僕を探している。これまでに一度も聞いたことがない声が、徐々に、徐々に近くなる。
そして、そのときが来た。
「あ、あの」
御影石の上に座る僕を、何かが見つけた。声から、辛うじて性別だけは知ることが出来た。女だった。あろうことか、僕に話しかけているらしい。甘い匂いはこれまでにないほど強く、動じていないフリをするだけで精一杯だった。必死になって、狸寝入りを続ける。
「もしかして、エミシさんですか」
聞こえてきた声にも気が付かないフリをして、目を開かないままでいる。女の声が耳の中で反響して、天地がぐるぐると回り続ける。頭の奥を揺さぶられるような、今すぐ彼女に抱き付きたくなるような、謎の感覚。身体の奥に毒素を流し込まれたように、甘い痺れが広がっていく。
「ねえ」と、彼女が言った。
「貴方も、腕無しなの?」
温かく、蕩けるような声。
女としては低い声に、意を決して目を開く。
そこには、腕のない女がいた。
彼女だ。オカゲの言っていた、腕のない子。
彼女が、欠けた月に照らされている。
驚いた、声が出ない。
高揚感が僕を包む。
眩暈のするような。
それだけじゃなかった。瞳の中で火花が散るように視界が真っ白に爆ぜた後、息をする間もなく黒くなる。荒くなる呼吸を抑えながら、顔をあげた。……もしかしたら、意識が飛んでいたのかもしれない。なぜなら、僕と離れたところにいるはずの彼女が、いつの間にか傍にいたからだ。倒れた僕を上から覗き込むようにして、彼女は僕に視線を注いでいる。欠けた月のほのかな明かりの中でもわかる。
彼女は、不思議なものを見る目つきをしていた。
「大丈夫ですか」
「……多分」
そんなわけないだろ、と自分で自分の発言に注釈を入れる。頭の中は大混乱だ。
「えっと……その……君は、何?」
「見ての通り、腕無しですよ。貴方と同じ」
「いや、そういうことじゃなくて」
「……あぁ。オカゲさんから、私にそっくりな人がいるという話を聞いたので」
僕を探しに来た、というわけか。なるほど。
意識を失っている間に慣れたのか、甘い匂いは薄れているように感じる。
それでも時折、彼女が体を揺らすたび、胸の中が痺れるように熱くなる。
この感覚は、どこから来ているのだろう。とてもじゃないが、彼女は毒を振りまくような子には見えないのに。まさか、僕が毒されているのだろうか? 初対面の、彼女に。
僕の対面にいる彼女は、目玉をきょろきょろと動かして、周囲を見回していた。どうやら、話の糸口が掴めずに困っているらしい。これ以上ここにいても無駄だと判断したのか、彼女が踵を返して、僕から離れていく。心はあまりにも正直だ。それだけのことが途端に悲しくなって、彼女を呼び止めてしまった。
「ねぇ、君は」
振り返った彼女に見つめられて、言葉が喉から出なくなる。
彼女が僕を見つめる目も、徐々に細められていく。嫌われてしまう前に、届かなくなる前にと、必死で言葉を捻りだす。そしてようやく絞り出した言葉に、僕は自分で吹き出しそうになった。
「君は、どんな人生を歩んできたの?」
馬鹿じゃないのか、僕は。自分を罵倒しながら、うまく躱すために次の言葉を探す。
……何も浮かばない。僕はこんなにも他者と関わることが下手糞だったろうか。まずは名前を尋ねる程度のことから始めなくちゃいけない、それを、何が人生だ。彼女にそんなことを尋ねて、僕は何を求めているというんだ。
取り繕うために口を開く。だけど、零れ出る言葉はどれも役に立たなかった。
「せめて、ここに来た理由だけでも教えてくれ。君は僕の名前を知っているんだろう? オカゲから、僕の経歴も教えてもらっているのかもしれない。だけど、僕は君のことを全く知らないんだ。それは、とても不公平なことだと思わないか?」
あぁ、ダメだ。緊張して、言葉があらぬ方向へと曲がってしまう。まるで機嫌が悪いかのような言葉ばかりが、彼女を毛嫌いしているような台詞ばかりが口を衝いて出る。違うんだ。僕は、初対面の彼女に抗いがたい魅力を感じていて、心が惹かれていて、だから。
何も言えず、一度閉じてしまった口は、もう開かない。口の中には、苦い後悔の味が広がっている。言い訳を並べることが出来ないのは、孤独に親しむあまり、他人のことをないがしろにしてきた僕への罰みたいなものだろう。オカゲと喧嘩しても、翌日には平気な顔をして話ができる。だけど、今ここで彼女に嫌われたら。
明日の僕は、どんな顔をしているのだろう?
「私の」と彼女が呟く声を聞いて、我に返った。彼女の言葉を聴き漏らさないよう、耳を澄ます。
「私の生き様を聞いたところで、何か得をするとは思えませんけど……」と前置きを入れて、彼女は話し始めた。
「私は、腕がない状態で生まれてきました。幼子の記憶なんてアテにならないことは知っていますが、あれは暑い季節のことだったと思います。……物心ついた頃には、親が死んでいることを知りました。ですが、生まれた場所が良かったのでしょう。私は、偶然にもその日その日を生きていくだけの幸運に恵まれました。……山は腕無しの私にとって生きにくい場所でしたけれど、決して、私を突き放すような場所ではなかったんです。……最近は猪が増えてきたから村の方へ避難していたのですが、村人に追われるようになって、困っていました。私には、普通じゃないところが一杯あるから……」
「普通じゃない?」
「私を見て気が付きませんか? ……あ、夜だからよく見えないか」
「……白くて……綺麗な肌をしているというのは分かる」
だからです、と彼女はこともなげに笑った。山の麓の人間は、多くが日に焼けている。健康的な肌を持つ村人からしてみれば、病的なまでに白い肌を持つ彼女や、全身に殴打痕のような黒斑を持つ僕は、受け入れがたいのも頷ける。だからと言って、虐げてもいい理由にはならないけれど。
ちなみに『綺麗』という単語を吐くためにそれなりの勇気を出したのだけど、彼女は割と鈍かった。
「山にいても、非力な私は淘汰される。村に戻れば、村人総出で追いかけられる。でも、私にそっくりな人がいるなら、会ってもみてもいいかな、と……そう思ったから、私はここに来ました」
淡く白く、それでいて細く美しい彼女の体を見つめながら、いたたまれない気持ちになった。そんな彼女の身に、何が起きたのかを考える。
彼女が生きてきた道のりを、僕になぞらえて考える。
彼女のことをもっと知りたい。知らなければならないのだという思いが、胸の中で徐々に膨らんでいく。そして僕は、口を開いた。精一杯の勇気を振り絞って。
「僕も、君と似たようなものさ。ねぇ、少し、話さないか?」
震える心を気取られないように、強がってみせる。口端が吊り上がりそうになるのを、必死で堪えた。だけど、声の震えまでは抑えられない。言葉遣いの良し悪しなど、この際気にしていられない。
僕の弱さを前にして、彼女は何も気づいていないようだった。ただ僕の言葉を聞き、それがいかにも当たり前の事実だけを述べていたかのように、小さく微笑んで頷いてみせる。それだけのことで、僕はどうしようもなく嬉しくなった。
嬉しくなってしまったんだ。
3
彼女と出会ったあの日から、月の満ち欠けが一巡した。それだけの時間を、僕は彼女と過ごしたという訳だ。でも、何も日がな一日、彼女と行動を共にしていたわけじゃない。月の輝きや星の煌きに吸い寄せられるようにして、僕等は夜に集まった。涼しくなっていく風を肌で感じながら、二人でいろんなことを話し合った。互いに話し上手とは言えなかったから、最後には夜空を眺めながら、昇る朝陽を見つめることになった。
それでも、僕は幸せだった。彼女の隣に居ることが出来る。それだけのことが、僕には途方もない幸福だったんだ。
彼女と一緒に過ごす時間が増えるにつれて、僕は周囲に、これまで以上に目を配るようになった。それはまるで、舌先で初めて秋を実感したときのような、誰かには伝え難い感動を伴う現象だった。少し前の僕は、生きているだけで幸せだった。いや、幸せであると思い込もうとしていた。本当の僕は、肥溜めの中で青空を眺めて「今自分がいる環境も美しいはずだ」と見当違いなことを述べていたに過ぎないんだ。
だけど、今は違う。僕が縋っていたもの以上に美しいものが、幸せにしてくれるものが山ほどあるのだということを知って、幸福で目を回しそうになった。これまでは食べられるか否かでしか見てこなかった山の動植物が、違った見方で僕を刺激する。彼女と話しているときのように、僕の心が満たされていく。
口を開いたまま、目を閉じた。色づいた木の葉、山の恵み、様々な生命が混ざりあう匂い。終わった夏を押しのけるほど、豊かな秋がそこにはあった。僕が感じるものはすべて、秋の香りだった。
夏という季節は、生物を大きく成長させる。芽吹いた命が十分に育ち、次の世代へと繋がりを作っていくための季節でもある。ならば、秋はどうだろう? 秋は、繋がりを形にする季節だ。夏に蓄えたエネルギーを、子供や果実などの子孫としてカタチにする為の季節だ。
僕たちは生きている。山という、ひとつの共同体として。
誰に虐げられる必要もない、ただひとつの生命として。
ただ、彼女と出会ったことで起きた変化は、決して明るいものばかりではなかった。手放しで(と言っても腕はないのだけれど)喜べないものだってあったんだ。
僕は、自分自身のことも、深く見つめ直すようになっていた。
夜に活動することの多い肌は、比較的白い色をしている。だけど、目立つのは肌の白さじゃなかった。僕の身体には、黒の斑模様がついている。生まれながらにしてついていたものなのか、猪に追い立てられるようにして山の斜面を転がり落ちるときについた痣なのかは、もうわからない。その痣が、僕の中で最も目立つ部位と言っても過言ではないだろう。でも、それは大切なことじゃない。今重要なのは、もっと別のことだ。
もしかしたら僕は、醜い存在かもしれない。腕がないという点で、彼女と僕は似たような道のりを歩んできたかもしれない。けれど、前提条件が大きく違っていれば、話は別のものになる。僕らは、腕がない状態で生まれてきた。だけど、彼女は美しい。腕がなくても、彼女はとても美しいのだ。
僕は彼女に相応しくない。
そんな思いが、僕の中で急速に膨れていったことを、まだ、彼女は知らないだろう。
御影石の上で欠けた月を眺めていると、緩やかな甘さを持つ匂いが、僕の芯を痺れさせた。何度も来ているうちに近道を覚えたのか、たいして時間をかけることもなく、藪から彼女が現れる。欠けた月の下で、彼女は満月のように輝いていた。
「久しぶり、エミシ君」
「やぁ。久しぶり」
久しぶりとは言うけれど、たった一晩空いただけじゃないか。
僕がオカゲなら、そんな無粋なことを言っていたような気がする。時間の流れは、第三者にとっては重要じゃない。僕ら当事者にのみ、大切にされるものなのだ。
「……今日は、エミシ君の話を聞かせてくれるんですよね」
「そういう予定だったね。まぁ、僕の人生なんて、面白くはないだろうけれど」
「それは私も同じです」
控えめに微笑んだ彼女を見て、初めて会ったときの会話を思い出した。果たしてあれが会話と呼べる代物だったのか、僕には分からない。だけど、それでもいい。今は、やらなくてはいけないことがある。彼女に、教えなければならないことがある。
僕の瞳が赤いのは、溢れた涙が血に変わったからかもしれない。苦しんだ数だけ経験を積むことが出来るなんて、傷ついた過去を捨てられない弱虫の言い訳じゃないか。
自分の過去を、彼女に曝け出す。それが、今、やるべきことだった。
「少し長くなるかもしれないけれど、いいだろうか」
猪が欠伸をするほどの、短い間があった。彼女は小さく頷いた。
それから僕は、自分の出自を語った。長い時間をかけて、オカゲにも言えなかったことを語った。そこには僅かの嘘もなく、不幸自慢も、他人への僻みもなかった。僕はただ、自分というものを彼女に知ってもらいたかっただけなんだ。時折浮かぶ邪な考えを打ち消しながら、彼女に話し続ける。僕のことを知ってもらうために、心にかかるもやを振り払うために。
……本当に、それだけ? 腕がないことで生まれた不平不満を共有する相手として、目の前にいる彼女が適任だったというだけじゃないのか? 共感者を得て自分の欲の吐け口にしたいと、そう思っているだけじゃないのか? なぁ、本当は何を思っているんだ?
浮かぶ言葉を、否定し続ける。だけど、誤魔化しは出来ないいのだろう。すべては結局、自己満足のために。
僕は話し続けた。始まったばかりの夜に輝く月が、少しずつ深みへ落ちていく様を見つめながら話し続けた。彼女は時折頷いたりする他に、何をすることもなくただ話を聞いていた。一方的に語り、相手が受け取っているかどうかを気にしない。何かに似ている、と思った。月の蒼みが薄れ始めてきた頃に、過去語りは大詰めを迎えた。
「……というわけだ。だから僕の身体には、沢山の傷がある。見るかい?」
彼女が返事をするより早く、器用に身体を動かして腹を見せる。そこには、村の大人につけられた傷が、今もまだ残っていた。
「これはね、村の人間が保存していた食料を盗もうとしたとき、そこの家人に棒きれで叩かれて出来た傷だよ。年端もいかない少女だったけれど、その目は僕に対する憎悪と嫌悪で黒く染まっていた。……僕の身体には、似たような経緯でついた傷がいくつもある。僕は、汚い奴なんだ。猪が身体に塗る泥は、雨や川の水で流される。だけど僕の穢れは、未来永劫この身体と精神にこびりついたまま離れないだろう。僕がどんな甘言蜜語を吐いたとしても、決して心を許してはいけないんだ。……君を自分のものにしたいと考えたこともある。僕のことは、あまり信じないほうがいい。僕みたいな奴は、不幸になるべきなんだから」
言ってしまった、と思いながらも、不思議と後悔はしなかった。顔をあわせた瞬間から惹かれていましたなんていうことが、この世にあっていいはずがない。これは誰が定めたわけでもなく、僕がひとりで思い込んでいるだけの話だ。だけど、僕はその考えを捨てられない。その裏にある寂しさや悲しさには、見て見ぬフリをしなくちゃいけないんだ。
彼女は下を向いていた。彼女が俯いてくれていることが、僕にとっては救いのようなものだった。
雲の切れ間から月が覗いたとき、彼女が顔をあげた。欠けた月の発する僅かな光が、彼女を照らす。不思議そうな、まるで空に二つの月を見つけた時のような顔をしていた。
「それが、どうかしたんですか?」
「え?」
「別に、それでもいいじゃないですか」
「……何を言っているの」
理解が出来ずに尋ね返した僕に、彼女は真面目な声で言う。
「傷があるということは、醜悪であることと同じではないんですよ?」
「醜いのは傷じゃない。傷が出来た経緯が醜いという話だよ」
「だとしても、それは過去のことです。罰は傷として負ったのだから、それ以上抱え込む必要はないんじゃないですか? それに、エミシ君の傷跡は、エミシ君が言うほど醜くはありませんよ」
木立に雷が落ちたように、心臓が大きく跳ねた。胸が高鳴り、これまでに感じたことのない思いが一気に溢れだしてくる。彼女の言葉など理解できないと叫ぶ僕と、その先の言葉を知りたいと願う僕が、身体の中で膨らんでいく。
「でも、僕は欠けている」
「腕の話ですか? 確かに、私たちは腕がありません。オカゲさんから見れば、私たちは欠けているかもしれません。だけど、それがどうして、不幸になることと関係するんですか?」
「なぜって、そりゃぁ、心にスキマがあるからだよ」
「大丈夫ですよ。私たちは、自分の半身を見つけたようなものです。似た者同士、心の隙間を補っていけると思いませんか?」
彼女の言葉が、胸の中で回る。
結局僕は、何が言いたかったんだろう。わざわざ彼女に嫌われようとするなんて馬鹿げている。でも、嫌われようとした。一体、何を求めているのだろう。
僕が彼女に言いたかったこと、彼女に僕が言ってほしかったこと、様々な言葉が脳内を駆け巡る。延々と浮かんだものを繰り返して、そして、僕はひとつの答えを手に入れた。それを彼女に伝えるより先に、僕は彼女にも尋ねてみることにした。
「結局僕は、何が言いたかったんだろう?」
「それは……なんでしょう?」
彼女は首を傾げて、不思議そうに僕を見た。
これは言わなきゃ伝わらない。僕は恥ずかしさで頬を染めながら、彼女に言った。
「多分、君に認められたかったんだと思う。認められないのが怖かったから、先に自分を貶めようとしたんだと思う」
「認める? 私が?」
「すべては、自己満足の為だよ。好きになってもらうより、嫌いになってもらう方が早いからね。何でもないことで嫌われるより、自分の曝け出した汚点を嫌われた方が、自分で納得が出来るからかもしれない」
「……どうしてそんなことを?」
「つまり、好きな子に嫌われるのが嫌だから、先に自分の悪いところを暴露して遠ざけておこうとしたんだよ」
下手糞な僕の言葉遣いを、彼女が頭の中で整理する。そしてある答えに行きついたのか、彼女が頬を赤く染めた。首を幾度か振った後、僕の目を見ることなく、彼女は言った。
「エミシ君には、好きな人がいるんですか」
「まぁ、そりゃ、僕の目の前に」
見る見るうちに、彼女の身体までもが赤く染まっていく。
いつも落ち着いている彼女でも、こんな反応をすることがあるのか。僕は面白くなって、彼女を見つめていた。しばらくすると、やや落ち着いた調子を取り戻したらしい彼女が、僕の目を覗き込んできた。
「……本当ですか?」
「嘘を吐いてもしょうがないよ。君は僕のことを、異性として見てはいなかったと思うけど」
「それは……」
きっと、嘘じゃない。彼女が僕を異性として見ていなかったと言う事実だけは、どうしようもない。だけど、今日を境に少しでも変わっていくことを願うようにした。春先に流れる雪解け水のように、目には見えなくとも、確かにあるものとして。
今はまだ、彼女が僕のことを異性として見ていなくても。
「それでもいいんだ。僕は、やっぱり君のことが」
続く言葉に、彼女が顔をあげる。困ったように首を傾げ、それでも嬉しそうに微笑んで見せる。たったそれだけのことなのに、仄かに赤みがさす彼女の白い肌が、どうしようもなく魅力的に見えた。
4
あれからしばらくして、今度は僕が、彼女の過去を聞く機会に恵まれた。彼女が村で何をしていたのかを聞くことも出来たし、彼女が何を楽しみに生きてきたのかを知ることも出来た。回顧される過去に思いを馳せながら、夜の帳に包まれるようにして時を過ごした。
半分の月が昇る夜、僕等は寄り添うようにして星々を見上げながら話をしていた。そして、話題は自分と親しかった相手というものになった。普通、自分に最も近しい存在と言えば血を分けた兄弟や肉親になるのだろうが、僕は生憎と会ったことがない。オカゲとは長い付き合いだが、これから先も長く続いていくかどうかは分からない。互いに無病息災であるかを尋ねられると、返事に窮してしまう。僕が大体そんなことを口にすると、彼女も笑って答えた。
「私もそうです。親の顔を見たこともないし、長く友情を育んだ相手も死にました。もしかしたら、あなたにとってのオカゲさんみたいな人だったのかもしれません……」
「僕とあいつは、親友じゃないよ」
「今はそうかもしれません。でも、一方が死んだ後で、もう一方は思うんです。もしかしたら、あの子は自分の一番の親友だったんじゃないか、って」
「それは違うよ」
僕にはオカゲほど親しくしている奴が他にいなかったという事実があるが、オカゲには僕と同じくらい懇意にしている相手がいるはずだ。仲間の多い彼のことだ。そうでなくてはおかしい。……そうであって欲しいと願うのは、「僕が一番じゃない」という事実を知ったときの痛みを、少しでも和らげるためなのだとは知っていたけれど。
「ホントに、僕等は親友じゃないんだ」
「私もそう思っていました。だけど、失ったときの痛みからは、逃れられないんですよ? ……だから、 これからはもう少し、素直に生きてみようと思って」
月を見上げる彼女を見つめて、ふとあることに気が付いた。こんな大切なことに今まで気が付かなかったなんて、僕はどうにかしている。失礼を承知の上で、彼女に尋ねることにした。
風が草木を揺らす音が、やけに大きく感じた。
「……ところで、君の名前は?」
「……私の?」
「そう。恥ずかしい話、君の名前を聞いたことがないような気がして」
彼女は僕から目を逸らすようにして、半分欠けた月を見る。怒らせてしまっただろうかと、不安になった。僕は彼女のことを、何も知らないのだ。教えてもらったことだけが、僕の中での彼女を形作っている。風が吹けば消える幽かな灯のように、彼女の存在が消えていくことが怖かった。
「エミシ君」と彼女が呟いた。
「私がどんな風に生きてきたのか、知っているんですよね」
「うん。君に聞いた限りのことは」
「だから、少し言い訳をさせてください。私は、逃げるようにして生きてきました。仲間と呼べる相手がいたのも、極々短い期間です。私には、余裕がありませんでした」
「うん」
「……それで、私には、名前がありません。オカゲさんが遊びで付けてくれた名前なら、一応ありますけど。聞きますか?」
「うん、聞かせてよ」
「……『エミシ二号』です……二度は言いませんよ?」
堪えきれずに笑ってしまったから、彼女は頬を膨らませている。拗ねた表情まで可愛いだなんて、彼女はなんてズルいんだ。だけど、エミシ二号だって? オカゲにネーミングセンスがないのは知っていたけれど、まさか、二号だなんて。
「良かったら、エミシ君が名前をつけてくれませんか? 私も普通の名前が欲しいです」
「僕が? ……そうだなぁ、『ミカゲ』というのはどうだい」
「ミカゲ?」
「あぁ。村の子供達が、この石のことをそう呼んでいた。君は綺麗な白い肌を持っているんだから、ピッタリじゃないか?」
「ミカゲ、ですか」
僕等が座っている御影石を顎で示しながら、彼女の反応を窺う。本当は、月からグワチという名前をとっても良かったし、星からショウという名前をとっても良かった。彼女には、名前に恥じない美しさがあった。だけど月や星は、決して僕から届く距離には降りてこない。だから僕は、ずっとそばにあったものの名前を、彼女につけたかっただけなんだ。
彼女は何度か口の中で言葉を転がして、その響きの良さが気に入ったらしかった。
「私は今日からミカゲです。よろしくお願いしますね、エミシ君」
「いいよ、エミシで」
「うん……エミシ」
それから僕たちは、長い時間をかけて話をした。これまでで最もくだらない、中身のない話だったけれど、僕はそれでも良かった。ただ、彼女が隣にいると言う事実だけが大切だったんだ。
星々を線で結ぶと、無数の物語が現れる。誰に伝えるわけでもないお伽噺について話し合っていると、茂みからオカゲが現れた。随分と姿を見かけていなかったような気がすると僕が言うと、彼はミカゲに熱を上げているからだとからかってみせた。ミカゲもオカゲに会うのは久しぶりだったようで、最初はぎこちない挨拶からはじまった。
しばらくは最近身辺で起きた出来事だけを話していたのが、次第に自慢話へと移り変わり、オカゲは僕と過ごした期間の長さを、ミカゲは僕と語った出来事の密度を、それぞれ自慢しあっていた。話の中心にいることが少なかった僕としては、それが恥ずかしいことこの上なかったのだけれど。
ミカゲは自分に新しい名前が付いたことを誇って見せた。そして、その話を最後に、オカゲは僕等と別れることになった。どこかへ行く途中で、僕の元へ寄っただけだったらしい。やっぱり、オカゲは気まぐれだ。その方が、彼らしいと言えばそうなのだけど。
静かになった御影石の上で、僕等は寄り添って空を見る。
「……ところで、エミシ」
「なに?」
「エミシに伝えなくちゃならないことがあるの」
頬を薄らと染めた彼女が近づいてくる。前に一度、彼女に気持ちを伝えたときによく似ている。すっかり慣れてしまったはずの甘い匂いが、よみがえってくる。捨て去ろうとしていた煩悩に咎められて、引き返すことが出来なくなる。
「この前の、続き。私も、エミシのことが」
照れながらも告げられた彼女の言葉を、頭の中で繰り返す。
月明かりの下でみる彼女の笑顔は美しく、僕は、失うことへの恐怖を忘れつつあった。
それからのことを、あまり深く描写するのは止めにしておこう。
僕等はふたつでひとつの生き物になった。欠けている僕等は、交わるまでに長い時間が必要だった。一度交われば、満たされる快楽の深みから抜け出すことも容易ではなかったんだ。僕等は互いに求めあい、これまで知らなかった世界の扉を開くことになる。
行為が終わったとき、僕等はこれまでにないくらい疲れていた。
だけど、何とも言えない幸福感がそこにあったということだけは、きっと、僕は忘れないだろう。明日もし、彼女が壊れたとしても。
6
七度目の行為を終えてから、僕等は夜空を覆う雲を眺めていた。もうじき、秋は終わりを迎える。冬が来れば、僕等は長い眠りにつくことになる。冬の寒さはあまりに辛く、腕のない僕等が到底打ち勝てないもののひとつだった。それはそうと、行為の最中にもひとつ気になっていたことがある。
「どうしてミカゲは、名前で呼んでもらおうと思ったの?」
「……名前がなかったから、だけど」
「あ、や、名前をつけた理由じゃなくて。僕等が一つになるときに、どうして名前を呼ばれたがるのかな、って」
少し躊躇うようなそぶりを見せて、彼女は僕から視線を逸らした。
「貴方に名前を呼ばれた数だけ、私に名前が馴染んでいく気がするの」
「本当に? ……でも、これ以上は呼べないと思う」
「どうして? 私のことが、嫌いになりましたか?」
「違うよ。……好きな子の名前を呼ぶと言う行為が、僕にはどうしようもないくらい恥ずかしいだけだよ」
「……赤くなりましたね」
「う、でも、そういうミカゲだって」
「あ、名前で呼んでくれた」
楽しそうに笑う彼女は、満月よりも美しい。そう思えるだけで、きっと僕は。
閑話休題。
交わる時、僕等は時間を忘れてしまう。夜の始まりとともに絡み合ったはずなのに、終わる頃には昼になっているという経験を度々繰り返したほどに。昼から始めてみれば、夜の寒さが火照った身体には心地よいくらいだった。そして僕等は、幾度となく空を眺める。空は届かないものの象徴であり、美しいものの象徴であり、それを自分の人生で見つけた最良の幸せの中で見つめられることは、何よりも尊い幸せのように感じられた。
ふとミカゲに目をやると、僕から視線を逸らすところだった。白かった彼女の肌が、少し赤くなっている気がする。見つめ続けて変な奴、とは思われたくないので僕も彼女から目を逸らした。熱烈な愛情とは逆の、冷徹な奴だと思われたらどうしよう。
見上げた冬の夜空に、小さな星々が輝いているのが分かる。視力の低さが災いして満点の星空を見ることは出来ないけれど、それでも、微かに瞬くその光を見ることは出来る。そうして僕は、冬の夜空も欠けていることを知った。冬の夜空は、四季の中で最も星が良く見える。しかし、それだけのものなのだ。
冬の夜空には、夏の夜空のような、吐き気を伴うほどの強烈な圧迫感がない。理由は、僕にはわからない。だけど、夏の夜空を思い返せば、そこには怪物がいたような気がしてくる。僕を食い殺す夜の闇。獣の心にも似た汚れだらけの空。僕にとって夏の夜空は、それほど恐ろしいものだった。
その恐ろしさが、今は欠けていた。冬の夜空が美しく見えるのは、夏に僕等を見下ろしていた怪物が、姿を見せなくなるからなのだろう。そんなことを結論付けた。
「ねえ」とミカゲが言ったような気がして、僕は彼女に視線を向けた。ミカゲは、僕を見ていた。
「ところで、エミシは何が好き?」
「へ?」
「……いや、なんというか、あぁいうことをした後なのに恥ずかしいのだけれど、私は貴方が好きな食べ物とかも知らないな、と思って」
「食べられれば、何でも好きだけど……どうして急に、好みなんかを?」
「好きになった相手のことを、少しくらいは知っておいてもいいかな、なんて」
それだけを言うと、彼女は顔を背けてしまった。少し前なら嫌われたと思って焦っていただろうけど、今なら分かる。ミカゲは、照れているのだ。
あまりの可愛さに、悶える。そして、彼女に抱き付いた。腕はなくても、彼女に寄り添い、愛情を伝えることは出来るんだ。それがこの上ない幸せのようにも感じられて、胸がくすぐったくなる。彼女と額をこすり合わせるようにしてから、すこし距離をとった。
食べられて、なおかつ好きなもの。選り好み出来るほど余裕のある食糧事情をしているわけではないけれど、美味しかったものをあげるとするならば。しばらく考えて、答えを導いた。
「やっぱり、魚かなぁ。ほら、ヤマメって言うんだっけ? 暑い季節になる前に、川を泳ぐ綺麗な魚」
「あの、黒い斑点模様が特徴的な魚ね。私も好きよ」
「ミカゲも? ……んー、それくらいかなぁ」
そう、と彼女は小さく呟いて、その頬に柔らかな笑みを浮かべた。そして、瞬きもしないうちに、どこか浮かない顔になった。
「どうしたの、ミカゲ」
「いや、なんというか、私は風流じゃないなぁと思って」
なぜ、そんなことを気にする必要があるのだろう。ミカゲは十分に美しい。オカゲよりも自然を楽しむ方法を知っている。何より、彼女自身が美しい自然の権化みたいなものだ。どうしてミカゲは、風流であるか否かに拘ったのだろうか。
僕が不思議そうな顔をしていたのが分かったのか、彼女が補足を入れる。
「エミシは、好きな風景や季節を話の題材に出来るでしょう? でも、私はそういう、格好のいいことが出来ない。食べ物の話だとか、寝心地のいい場所だとか、ありきたりで普遍的な話しかすることが出来ないの。エミシみたいに、風情のある話をすることが出来ないから、私は格好悪いんだろうなぁって」
「……そんなに気にすることかな?」
「するに決まっているじゃないの。私は、エミシのことがす、す、しゅ」
しゅー、と最後は息を吐くようにして言葉を終えてしまった。
彼女が気恥ずかしさで言えなかった言葉は、尊敬だろうか? 何もそんな感情を抱かなくてもとは思うけれど、僕等の感性が全く同じものでない以上、違いは楽しむほうがいい。
「そうだ、僕もひとつ、風流からは程遠い話をしてあげよう」
「程遠い? どんな話なの」
「前に一度、村へ行ったときの話だよ。村には、沢山の人間がいる。その中に一人、頭のおかしな猟師がいてね。鹿や猪を撃つんだけど、彼は、ただ食べる為だけに撃つんじゃないのさ」
「……どういうこと?」
「彼はね、不能なんだ。村中の女に手を出そうとはするけれど、愛した女しか抱けないと言い訳を口にしては最後の一歩を踏み出さずに終わるんだって。娶った妻が火事で死んで以来、ずっとそんなことばかりをやっているらしい。僕が見たのはね、猿の股座に入れてみてもダメだったからって、四足の生き物にいれることを楽しみにしている彼だったよ。あぁ、そういえば、オカゲもそいつにケツを狙われたらしいよ」
最初は首を傾げていた彼女も、それとなく不能という言葉の意味を理解したらしい。
少し拗ねたように照れながら、僕の頬を叩いてくる。
あぁ、僕等は幸せだ。僕が大切にしているのは、『今』という瞬間なのだから。
「風流な話は嫌いじゃないですけど、そういう、下世話な話が好きなわけじゃありません」
「君の真面目なところ、僕はいいと思うよ」
「……食べますよ?」
「君に食べられるなら、それもいいんじゃないかな」
「ちょっとは否定したり、抵抗してください。大体、今のは冗談ですよ?」
困ったように彼女は笑う。たったそれだけのことで、僕は幸福の扉をくぐることが出来る。
欠けた僕は、これ以上のものを失わなくていい。
僕は本当に、そう思っていたんだ。
7
冬の到来を目前に控え、山から急激に命の数が減っていく様子が見て取れた。その日の食べ物に事欠くこともあり、僕達は山の中を手分けして回った。一人だと恐ろしい山の中も、相手がいることで自分の居場所があるように感じられた。一人でいたときのように、尖る必要もなくなっていたんだ。
だから。
咄嗟の出来事を、判断できなくなっていたんだ。
急に茂みが揺れたとき、己の油断を呪った。猪か? 猿か? どちらにせよ、急に襲われたらひとたまりもない。抵抗する間もなく死んでしまうかもしれない。不安と絶望が脳裏をよぎった瞬間、そこには、見慣れた彼の姿があった。
「お、エミシじゃん。なに、フられた?」
「オカゲ……なんだ、オカゲか」
何事も起こらなかったかのように、彼は屈託のない笑みを浮かべる。
「なんだとはなんだ。オイオイ、もうオネムの時間か?」
僕が地面に突っ伏したのは決して眠いからではなかったのだけど、彼がそう思っているのならそれでいいだろう。僕は、幸せの余韻に浸らせてもらおう。
死ななかったと言う、幸せに。
「しかしお前、冬でもないのによく寝るもんだ。あんまり寝てるとバカになるぜ?」
「それでも、君よりは頭脳明晰だろうね」
「ハッ、違いねぇや。欠けた奴は、別のところで満たされるっていうからな。で、どうなんだよ。ミカゲとはうまくいってるか?」
「あぁ、まぁね」
「そうか、それならいいんだが…
口元を歪ませ、オカゲが笑う。彼が何を言いたいのか分からずに、僕は首を傾げた。
そしてオカゲに質問を浴びせかけようとしたとき、舌先に鈍くえぐみのある空気を感じた。オカゲが言いたかったことも、それで少し、理解できた。
「猟師がいるのか」
「あぁ。山のこっち側は狩猟禁止なのに、誰かが来ているみたいなんだ。俺はまだそいつを見つけられてないが、お前、見つけても絶対近寄るんじゃないぞ」
「分かっているよ」
痣のようなまだら模様がついた身体を見下ろして、オカゲに頷き返す。
またな、と言い残して、オカゲが茂みの中へと消えていく。そして、振り返ったとき。
僕が、振り返ったとき。
そこに、猟師がいた。
「バーン」
間抜けな掛け声と共に、小太りな猟師が銃を構える。
髭をたくわえた中年の猟師は、確かに、小さく笑っていた。
声に遅れて飛び出した弾丸が、呆気に取られていた僕の腹を撃ち抜いた。
何が起きたのかも分からず、前のめりになって倒れ込む。肉体の損傷に痛みが追いつかず、あまりに現実味のない出来事に声を失う。僕は、忘れていたのだろうか。村人が、僕等腕無しに対してどんな仕打ちをしてきたのかを。
「エミシ!」
半分になった身体を捩って、掠れていく視界の中に声の主を探す。
猟師に首を絞められながら、懸命な抵抗をみせているミカゲがいた。
抵抗する間もなく腹を撃たれた僕とは違い、彼女の体には傷一つついていない。
ただ茫然と、目の前で起こる出来事についていけないでいた。すると、下卑た笑いを浮かべた猟師が腰をかがめ、顔を近づけてきた。赤らんだその顔はこの世で最も醜悪な悪魔のように見え、昼間から飲んでいたのか、猟師の口からは濃い酒の匂いがした。
「なんだ、こっちは外れか。まァ、近頃いないと思っていたが、たまには禁猟区にも来てみるもんだな。こっちの白いのは、充分使い道がありそうだし」
使い道? 彼女を? 何に?
頭の中に奇妙な、下劣な、醜悪な妄想が広がっていく。
吐き気と痛みで、頭が回る。混乱する僕を尻目に、酔った猟師が立ち上がった。酷く酔っているのか、まっすぐに立つことさえ難しいらしい。撃たれて爆ぜた僕の下半身を、猟師の足が踏みつけた。
僕は、何も感じなかった。
ミカゲが、自分自身を殺されたかのように、激昂した。
それからの僅かな時間が、僕にとっては永遠のように長く感じた。
ミカゲが、猟師の腕に噛みついた。鋭い牙が猟師の指を貫通すると同時に、奴は腕を大きく振った。空に投げ出されたミカゲの身体は、大きな木に叩きつけられて地に落ちた。僕の真横に、運命という名を冠するにはあまりにも重すぎる重力に引っ張られて、彼女は僕の元へと帰って来た。僕等は、食べ物を探して山を巡っていただけなのに。
ありきたりな悲運を嘆くように、彼女は小さく笑って見せた。
「とんだ災難ね」
「……あぁ、全くだ」
意識を保つことが限界のようにも感じられる、強い痛みの中ではそれだけのセリフを返すだけで精いっぱいだった。僕等の間に割って入るように放たれた二発目の弾丸は、彼女の頬を軽く切り裂くにとどまった。彼女に死を覚悟させるには、それで十分だったのだろう。僕をみた彼女は、これまでで最も美しい顔をしていた。彼女が何かを言いたげに、口を開く、その瞬間だった。
凶弾が、彼女の頭を撃ち抜いたのは。
熟して落ちた柿のように、ぐずぐずになった彼女の頭部が、僕と見つめ合っている。
けれど、不思議と、寂しさのようなものはこみ上げてこなかった。
「クソ、噛みやがって。毒がまわったらどうしてくれんだ、畜生。ぐうう、三発とも撃っちまった。また買いに行かなきゃならんじゃないか、バカ野郎が。ったく、俺は、狩りをしに来ただけなのに」
唾と血が混ざった汚液を、猟師が森にまき散らす。僕は、何を考えているのだろう。心が死んでしまったのだろうか。彼女の死を目の当たりにして、壊れてしまったのか? 何も感じない。少なくとも彼女の死を悼む必要があるだろうに、燃え盛る憎悪が浮かび上がってくることもない。そこにあるのは、腐葉土のようにふわふわとした、とらえどころのない不安定な気持ちだけだった。
僕は悲しめない? 壊れてしまった?
混濁する意識と冷たくなっていく身体を、別の生き物のように感じた。そうだ、まるで別の生き物が、僕の身体の中で生まれていくような、そんな感覚。身体に起きた変化に戸惑っていると、猟師が、死んだ彼女の身体に手をかけた。僕が最も忌避し、最も恐れていたことが、目の前で行われようとしている。村で、僕等腕無しがどのように扱われていたかを知っているからこそ、想像が出来る。吐き気を覚え、涙があふれ出しそうになりながらも、猟師の行動を、見つめ続けずにはいられなかった。
猟師が彼女の『皮を剥いだ』ことを、別世界で行われている出来事のように見つめていた。
肉と皮が剥がれていく、本能的な恐怖と嫌悪を刺激する音が森の中に響く。静かな冬の森で確かな現実感を伴うその音は、僕の心を、容赦なく壊していった。
僕はただ、湧き上がる怒りを待つしかなかった。
身体から血が抜けていく。皮を剥がれている彼女の死体と、腹を撃ち抜かれ下半身が失われた僕の身体から。血を滴らせながら、彼女の死体は徐々に白くなっていった。死してなお、彼女の肌は美しい白を保っていた。血が流れるにつれて、僕の身体からは痣が消えていくような気がした。呪印のような痣が消えるにしたがって、心の奥の封が剥がれていくような感覚も味わった。途方もなく黒いもの、必死に隠して生きてきたものが、僕の中で急速に膨れ上がっていく。
半分になった身体を懸命に持ち上げながら、僕は、ズボンに手を伸ばした中年の猟師に目をやった。僕にはついぞ理解の出来るような行動ではないが、村の人間の、それも男なら数日に一度は行う儀式のようなものだった。それを、僕は知っていた。
ベルトを外した猟師は、冬の冷たい空気に、赤黒く汚れた『男の象徴』を取り出した。もう長いこと、それは使われていなかったのかもしれない。下卑た笑みを浮かべる男は、久しぶりの精神的快楽に寄り添われながらも、肉体的快楽を味わうことが出来ないようだった。それでも、心に根付いた快楽の悪魔を満足させるために、男がすることはひとつだった。僕は、それを知っている。
――殺す。
単純明快でありながらも非常に稚拙で馬鹿げて見える、一つの目標が僕の中に浮かび上がった。殺意が僕の中で鎌首をもたげると同時に、僕を見下ろしていた猟師が、酒臭い息を吐きながらしゃがみこんだ。その顔には、小さな悪事を働いたことに喜びを覚える少年のような、無邪気故の邪悪を含んだ笑みが広がっていた。
「知ってるか? 俺はお前等の皮にしか興味がないんだけどさ、お前らの心臓は滋養強壮に良いんだってよ。しかも、こうして穴を広げれば、別の道具としても使えるわけよ。マジで、夜の御伴になるわけだ」
笑う男を見上げながら、僕は、心が冷たくなっていくのを感じた。氷ではなく、火種としての油が、僕の心に広がっていく。男の指が、頭を飛ばされた彼女の身体の中に入っていく。見るも無残な身体の中に、男の指が入っていく。男の太く、節くれだった指が、見る見るうちに彼女の身体を引き裂いた。
「おぉっと、やりすぎちまったかな」
可笑しそうに笑う猟師の指は、彼女の心臓にまで達しようとしていた。
それを見たとき。
僕の身体の中に眠っていた獣が、目を覚ました。
なるほど、僕には彼が分からない。ただ、静かな炎が胸の中で膨れ上がっていく。
悪態をつきながら傷を舐める猟師は、僕にとって嫌悪の対象にしかならなかった。
何処までも黒く深く重い感情。思い残すことはなくなった、唸る怪物。早く明け渡せと手招く亡者。ただもう一度きりの願い事も潰えた。短い時間に捧げた青春の日々に別れを告げ、僕は、心の声に従う。
怒りという、怪物に。
地の底から水蒸気が噴き出すような、思わず顔を顰めてしまう声が僕の口から漏れる。僕は口を開き、毒を持つ牙を剥き出しにした。痛む身体には気を払わず、千切れた内臓を飛び散らせ、跳躍する。生命への固執を捨て、絶望に執着した僕は、生への欲望に縋りついた猟師にとびかかる。
喉笛に噛みついた僕を引き剥がそうと、男が身体に爪を立てた。僕の肉が、音を立てて弾ける。だが、既に痛みはない。死んでいく僕の身体には、痛みを感じる機能さえ残されてはいない。残っているものは、牙と、毒と、確かな意志だけだ。
口の中に、猟師の血の味が広がっていく。川を泳ぐ魚よりも、泥の中を這い回るネズミよりも、果ては村からのぼって来たゴキブリよりも、男の血は不味かった。吐き出したくなるような、酒と虚栄心に毒された血の味だった。
男は弾の残っていない銃を闇雲に振り回し、そして、口から泡を噴き出しながら息絶えた。死してなお、その魂に永遠の苦痛があらんことを願いながら、僕は猟師の喉から牙を抜こうとした。そして、僕の身体にも、力が残されていないことを知った。あれほど燃え盛っていたはずの怒りさえ、真っ白に燃え尽きているようだった。
僕の人生だ。所詮、こんなものなのかもしれない。
死の間際、僕に後悔や寂寥は浮かんでこなかった。
これまでに過ごしたどんな時間よりも美しい記憶を抱きながら、僕の世界は閉じていく。描かれた破滅の向こう側で、彼女と過ごした過去だけが輝いているように見えた。
A
俺が見つけられなかったものは、すぐ側にあったらしい。
山を一巡りした間に凄惨な戦いが繰り広げられたらしく、俺の親友だった『ヘビ』と、その彼女だった『ヘビ』が無残な姿になっているのを見つけた。虐げられる運命を持ったエミシと、白く美しいミカゲの二匹だ。そして、中肉中背の、若かりし頃は精悍な体つきだったのだろうと想像させる男が死んでいるのも見えた。彼の名前は知らないが、村では若い男たちに指導をする立場の男だったということを、俺は知っている。
死んでしまったものたちを木の上から見下ろして、俺はふと考える。
一人と二匹が死に、果たしてその価値は同等のものだったのだろうか。
彼らの命が、ではない。
彼らの命と俺の命が、である。
蛇の道は蛇。では、他人が死ぬことで生きながらえる、邪悪な道を歩むものは、一体誰なのだろう。答えは、俺だけが知っている。俺のせいで、色んな奴が死んでいくのだから。どんな危機に直面しても、俺だけは死ぬことがない。俺だけは、奇跡と幸運に飲み込まれて、死ぬことを許されない。
俺は、オカゲ。蜥蜴のオカゲ。
誰かのおかげで、俺は今日も生かされている。