雨
らのまが 2016年 5・6月号 掲載作品
雨が降っている。空は黒く分厚い雲に覆われていた。
濡れた髪から水滴が滴る。湿ったスカートの裾が足にまとわりついている。
暗い空の下に、灰色のビルがある。古ぼけた感じの、こぢんまりとしたビルだ。
両開きの扉を押し、傘を閉じて中へ入った。傘から滴り落ちる水滴がコンクリートの床に、いくつもの染みを作る。光源は階段の踊り場に付いている細長い窓だけである。空気はひんやりと冷たく、かび臭い。
目の前の階段を上る。埃のかぶった手すりに掴まり、淵の欠けた段に躓きそうになりながらも、私は上り続ける。
いくつめの踊り場に出たのか分からない。私は手すりに掴まり、肩で息をしていた。階段はどこまでも続いていて終りが見えない。
ひんやりとかび臭い空気を吸い込んで息を整えた。しかし、足が痛くてもう上れそうもない。そのままコンクリートの地面に座り込んだ。体の疲れで頭がぼーっとする。
雨の音がする。たくさんの水滴によって生み出される、静かな音楽。
ひどく心地がいい。意識がかき消される――。
屋上への扉を開くと降りしきる雨の中に、寂しげな男の背中があった。傘を差しておらず、半そでのカッターシャツが肌にくっついていた。
その背中はあまりにもみっともなくて、切なかった。雨の音に紛れてむせび泣く声が聞こえる。
男の後ろに立ち、傘を差しだした。
見下ろすと、ここから遥か下の地面、薄汚れた地上に花束が落ちている。真っ赤な花びらがいくつかちぎれて散らばって、血だまりのように見えた。
水滴が頬に落ちるのを感じて、目を覚ました。どんよりと暗い雨雲が目の前に広がっている。雨は容赦なく私の顔や体を打ち付ける。濡れた髪が頬に張り付いている。
体を起こし、空を見上げた。降りやまない空の下に灰色のビルがあった。
雨の日のことである。私はあの建物の屋上から飛び降りて死んだ。動機はシンプルだ。彼の気を引きたかった。ただそれだけ。
以来、私はずっとこの夢を見続けている。
実際に生きている彼が私のために泣いているかどうかはわからない。私のことなどすっかり忘れて、あの女とよろしくやっているのかもしれない。しかし今となってはどうでもいいことだ。
よろめきながら立ち上がり、そこに転がっていた赤い傘を差した。
私は溺れていたいだけなのだ。誰よりも幸福で、終わらない夢に。
階段の先に扉が見えた。塗装の剥げた扉の端から光が漏れている。その光に誘われるようにして扉を開いた。もう雨の音は聞こえなくなっていた。