MYTH
らのまが 2016年 5・6月号 掲載作品
金曜日の午後六時を回った頃、私は母親の運転する車に揺られていた。フロントガラスを通して見える二月初旬の夜の空はすっかりと暗闇が支配を広げ、厚くかかる雲が冷気を地上に押し込めて圧縮している。
週末は仕事の疲れを癒すために専ら寮に閉じこもってゆっくりと過ごすのだが、一つ約束を作ってしまったためにその用事を済ませるべく、実家の方へ戻ることになってしまった。
幸いにも実家と勤め先の寮とは移動に難のある距離ではない。今日も電車に三四十分乗ってから、実家に一番近い駅まで母に迎えに来てもらった。駅と実家の間の所要は二三十分程度だったと思うが、公共バスを使うと徒歩も含めて五十分近い時間をかけて帰る計算になる。
普段から電車をあまり使わないせいか電車に乗っている間の時間を非常に長く感じた。それに加えて一週間分の疲労と眠気と車内の人口密度の高さで一層くたびれてしまった。
駅に母が到着するまでに一体どれくらいの溜息を吐いたことだろう。用事のために仕事を効率よくきっちりと終わらせてきたというのに、残しておいた元気をごっそりと削られたような気分だった。
車窓から外を眺めるとすっかりと日の落ちた景色が目に映る。家々の明かりが点々と連なり町を温めている。道路の脇にある電灯は道行くものを気弱に見守り、光源のない山々や田畑のあるところは真っ暗だ。
街の喧騒から抜け出してやって来た、正月に戻って以来の地元の町は、その雰囲気に安心するものが含まれていて心地がよい。人波の圧力で小さく押し込まれていた心の羽をのびのびと伸ばすことができる。二十年ちょっとの間を生きてきた土地の神聖さが身に染みた。
電灯がヒュンヒュンと音を立てて次々に通り過ぎてゆく。車内では古めかしい、アイドルの歌う曲が響いていた。母の趣味だった。私はそれが嫌いというわけではないが、物心つく頃からいくつかの同じ曲をいつもリピートさせているだけだから退屈だった。隣に座り運転をする母は飽きもせず、時折歌詞を口ずさむ。
「そこの信号を右に曲がって、そしたらその細い道をまっすぐ」
と母に行き先の指示を出す。
家に戻る前にすべき事を手早く済ませてしまおうと目的地へと向かってもらう。
明日土曜日の昼間に訪ねるという選択肢もあったのだが、今日のうちに終わらせておくのが楽な気がしたし、夜の方が退出する旨がたぶん伝えやすい。短絡的というか言い訳じみた思考だが、相手に会えばそうしてよかったと思える気がしていた。
母にはちょっとした用事で友達に会いに行くと伝えてあった。母も知っている人だから話は早かった。「ああ、あの子ね。仲良しだった」と特に不思議に思われることもなく、幸い何をしに行くのか訊かれることもなかった。
駅を出発して二十分ほどで到着した。車から降りると冷たい風が吹き付けてくる。助手席の窓が開くと母の声がした。
「帰りは迎えに来なくて大丈夫なの?」
「うん、歩いて帰るけど心配ないよ」
「そう、あまり遅くならないでね。今夜は雪が降るそうだから。」
「大丈夫だって。大したことはないから、そんなに遅くはならないしすぐ帰れるよ」
「わかった、気を付けてね」
母はフフッと笑って車を出した。
どれだけ年をとっても心配の仕方が同じなのに苦笑しつつ、遠ざかる車のテールライトに小さく手を振る。
母を見送ってから、私は目の前の宅へ向き合った。表札には『宮本』とある。
二週間くらい前に私宛に手紙が届いた。その送り主がこの家に暮らす宮本冬美である。
届いたといっても、宛先の住所が実家のものだったから初めはそちらに送られていた。「宮本さんから手紙が来ていたよ。そっちに送り直したから確認してね」と母から電話で言われたのだった。
そうして届いた手紙の封を開けると、手触りのよいさらりとした上質な便箋が一枚入っていた。三つ折りにされた便箋は縦書きで、黄土色の罫線が引かれていており、その間に綺麗な文字が並んでいた。便箋の左下の隅には火のような、篝火に似た花が――色は淡い紫色であったが――柔らかなタッチで描かれていた。どうやら手描きのようだった。
初春の候云々、という畏まった書き出しの時候の挨拶の後に便りの核心が記されていた。端的に言ってしまえば、会いたいから時間のある時でよいので訪ねて来て欲しいというものだった。それ以外には具体的なことは書かれていない。
懐かしい人から手紙が来たものだとちょっとした感慨に耽ったのも束の間、会いに来いという不躾な内容にムッとしてその時は机の上に粗雑に放ってしまった。
冬美のことや手紙の内容はそのまま離れず頭にあったが、二三日して少し冷静になるとなんとなく気にかかった。
端が少し折れてしまったのを直しながら再び手紙を手に取った。冬美の優しい字が瞳に映る。
会いに行くことに関してはそこまで嫌なわけではなかった。もう彼此七年は会っていない。
ただ、一方では気の進まない事情もあった。それは移動が面倒であるというのも一つの要素であるが、実際にはもっと感情的な気持ちの厄介な代物が大きく関与している。
要するに喧嘩で別れて、ばつが悪いのだ。
高校三年の冬に友人の恋愛沙汰に巻き込まれたことで私と冬美の間にも大きな亀裂が入ることになった。二人一緒にいることがどうしても苦しくなって、卒業までの三か月ほどの間、口を利くことも顔を合わせることもろくにしなくなった。受験を控えていた時期であったから、私もみんなも相当頭が弱くなっていたり、焦りがあったらしい。そのせいで簡単に収まると思っていた事態は結局のところ、どこに収束することもなく、卒業のタイミングですべて有耶無耶のまま流されてしまった。
当時のことを思い返すと、私自身にとってその一連の出来事が、そんなこともあったなあと懐かしむだけのものに変化していたことに気が付いた。きっと時効だ。そう思うとそれを会わない理由にはできないような気がした。
冬美がどんな人になったのだろうという好奇心に近いものにも突き動かされた。
そして一晩考えた挙句に、彼女の会いたいという言葉はあの時の私と冬美の間にあった諍いに終止符を打つものだと考え、封筒にあった差出人の住所へ何時いつに会いに行くのでよろしくと送った。私も彼女に倣って、拙いながらも色鉛筆で花の絵を描いた。梅の花で書面が華やぐようにして。
着ていたコートを脱ぎ軽く畳み込んで左腕に掛け、私はちょっと長めの深呼吸をしてから冬美宅のインターホンを鳴らした。十秒程が過ぎる。留守なのかなと思ったが外側から屋内の電気が点いているのが見えている。
変だなと、試しにもう一度インターホンを押そうと手を伸ばしたところで奥の方からはたはたと軽い足音が響いてきた。玄関の引き戸が控えめに開かれると、そこから顔を出したのは私よりもいくらか身長の低い、髪を肩のあたりで切り整えた女性だった。かわいらしい耳たぶがのぞいて、その赤らみが印象的である。
「こんばんは。……えっと、冬美だよね?」
私はそう尋ねた。見覚えのある顔立ち、その見た目などから推測はできたが、七年前とはまるで雰囲気が違っているのに息をのむ。高校の頃までの気弱なところは薄れていないが、それを覆い尽くすように大人びた気配と女性らしさをまとっている。いくらか余分に痩せたようでもあり、首筋にわずかな不健康さを見た。
「……うん。冬美です。……まーちゃん、じゃなくて、ごめんなさい。えっと、あの、将未さん。来てくれてありがとう……」
「いや、うん。久しぶり」
冬美はうつむきがちな顔をちょいと上げて、しどろもどろになりながら返事した。その際に冬美がふと微笑んだように見えて私は自分が過去の時間に押し流されていくような感覚に囚われた。
しかしまーちゃんと呼ばれたことにはなんとも言えない懐かしさと背中のむずむずする感覚があった。そもそもその呼び名を使うのは冬美だけだった。
呼び方を改めたことに関しては、あだ名の方で呼んでくれても私は構わなかったが、それは冬美の配慮なのだろうと思った。そのおかげで今の二人に必要で適切な距離が保たれる。
ただ、将未さんと呼ばれたことには変に感じた。手紙には将未さんと書かれていて、そのことには何ら不思議や違和感などなかったのだが、実際に呼ばれてみると結構心に来るものがあった。親しみからよそよそしさへの落差は相当の鋭い痛みを伴って襲いかかってきた。
それでも今となってはもういいのではないかとも思った。今更あの懐かしく苦い過去に存在した二人の関係に戻る気もさらさら無く、後退の余地はあるにしても、ここから新たな関係の発展などは期待もしていない。ならば私もできるだけ距離をおいた対応を、会話を心がけようと、いろいろな思考が浮遊する中で意思を固めた。
「手紙貰ったからさ、来たんだ。上がってもいい?」
「……うん。あたしも貰った。そこにいても寒いよね。入って」
冬美が戸をいっぱいに開いてどうぞと中に招き入れてくれた。靴を脱いで揃えると、冬美がおずおずとスリッパを差し出してきたのにお礼を言って受け取った。ピンク色で可愛らしい。
「元気だった?」
と、側に立っている冬美に訊いてみた。冬美はこちらを見ずに「……うん」と小さく答えて、
「こっち、付いてきて」
そう言って廊下をゆっくりと進んでいった。
私は一階にある広めの和室の客間に通されるのだろうと初めのうちは思っていたのだが、冬美がそちらへ向かわずに玄関から真っすぐ伸びる廊下の先の階段へ向かっていることに気がついた時、彼女の自室に通されるのだろうということがわかった。自分は外から来た一般の客人としての当然の扱いを受けるものだと心構えをしていたから、このことには甚だ驚いて、自身が何かしらの特別な客人であることを訝しんだ。
かつて親友同士だった私たちだけど、もはや友人でさえもないのに。
前をゆく彼女の縮こまった小さな背中が見える。そんな彼女の後ろ姿を見ているとその背中に一つに束ねられた腰のあたりまで伸びる長い髪の影が見えるような気がした。久しぶりに冬美と会って抱いた印象の相違は彼女の髪の長さにも関係があった。髪の毛を長く長く伸ばして、さらにその美しさを保とうと注意を払っていた高校時代に私が見たこだわりはとうに消え失せていたのだ。恥ずかしさを感じつつも「その髪、綺麗で好きだよ」と、当時の私が褒めてやまなかった髪もその言葉も遠くの彼方に置き去りになってしまっていて、もう二度と取り戻すことはできない。
ああ、だんだん記憶が蘇ってくる。
いい思い出も、懐かしい思い出も。冬美の前に持ち込まないようにしていた嫌な思い出も。こんな調子ではきっとすぐに思い出の終点へたどり着いてしまうに違いない。
冬美の案内で通されたのは二階の北側に位置する部屋で、簡素なつくりの木製扉の先は私の知る冬美の自室で間違いないようだった。
「入って」
と、冬美が扉を開けて中へ行くのに続く。
部屋の中は暖かかった。暖房がしっかりと効いていて冷えた皮膚がやわらかく溶けていくように感じる。
先に部屋に入った冬美は奥で何かを片付けている様子であった。その隙にさっと内装を見渡す。部屋の奥にしつらえられた窓には、なぜか右半分だけにカーテンがかかっており、窓の左側からは屋根とその向こうの森が電灯の光に弱く照らされている。冬の冷たい風に吹かれながら枝がむき出しの樹木がこちらをのぞき込んでいるように見えて怖ろしい。
窓の右下の方にはベッドがあり、ベッドと反対側の壁には机と本棚が一緒になるように備え付けられている。全体を通して見ると木調の家具が多い。落ち着いた感じの色味ではあり、どことなく暗く、鮮やかな色を持つのはちらりと見える本棚にある書籍の背表紙くらいで、それが不思議と存在を強めていた。
「ここ、座って」
部屋の真ん中に出された小さなテーブルのもとに、どこから出したのか薄い桃花色のクッションが置かれている。
私はこのとき心もち緊張をしていた。座ってしまえばとうとう彼女と真に向き合わなければならない。何を話したいのかは見当がつかないが、呼ばれたとはいえ自分でここに来ることを決めたのだからそっけない反応をせず、真摯に向き合わなければならない。あくまで知人としての誠実な対応を心に誓う。
大げさともいえる覚悟を決めると、そばに荷物を置いて腰を下ろした。冬美はなかなか座ろうとしなかった。見上げると目が合った。
「冬美?」
不思議に思って声をかけると冬美はビクッと小さくとびあがった。そして慌てるように、
「え、ええと、その。……ごめん。ちょっと待ってて」
と言い残し、逃げるように部屋を出て行った。
どうにも冬美の方も緊張しているらしかった。ただ双方こんな調子では一向に本題に移ることすらできない。世間話でもしてお互いの気を落ち着けるのが妥当だろうか。
廊下や階段を渡る冬美の足音が遠ざかり、外を吹く風の音が響くだけの物静かな部屋に取り残される。手持ち無沙汰となった私の視線は再び自然と部屋の内装へ向かった。
壁掛け時計は三時十五分ごろを指して止まっている。
本棚の下は複数の書籍が散乱しているのが目に付いた。その書籍のたいていは文庫の小説で夏目漱石や司馬遼太郎、高村光太郎などの著者名が見えている。読みかけのようで開いたまま伏せられているのはオノレ・ド・バルザックの『谷間の百合』である。他には大判の丁寧な装丁の施されたものが三冊積まれていた。小中高の卒業アルバムだ。私の十二年間と冬美の十二年間が垣間見ることができる代物。ところどころのページに別の写真が挟み込まれていて、その端っこがはみ出している。
私はその卒業アルバムに目を奪われた。何故かアルバムをうずくまって小さくめくる冬美の姿が瞳の奥に浮かんでいた。寂しくも愛おしい。
時の止まっている部屋で大人しく待っているとしばらくして冬美が盆を手にして戻ってきた。どうやらお茶を淹れてくれたようで、湯気の立つ茶と甘い香りのお茶菓子が載っていた。
お茶菓子を見て自分が菓子折りを持って来たことを思い出す。
「あのさ、これよければ家族で食べて」
冬美が盆をテーブルに置いて座るのを見計らって、丁寧な包装のしてある菓子折りを紙袋から取り出して差し出した。
「うん。ありがとう」
「でさ、やけに静かだけと、家の人はいる? まだ挨拶できてないから……。こんな時間に来るのは配慮が足りなかったと思うし……」
訊くと冬美は首を振った。
「ううん、いないよ。お母さんは水曜日からいない。実家のほうが今大変だからって、何があったかあたしは知らないけど忙しそうだった。それで、お父さんは……」
冬美がためらい言いよどんだ理由を私はすぐに知ることになる。
「お父さんは二年前に死んじゃって。……今夜は家に一人だよ」
「そう……亡くなった……。悪いことを聞いちゃったね、ごめん」
「大丈夫。平気だよ」
謝る私に大丈夫だと応える冬美であるが、その声音は寂しげである。
「あの、お線香上げさせてもらっても大丈夫?」
顔色を伺いつつ、控えめに言った。父親が他界していたことは全くの想定外だった。
冬美はうんと頷いて、一階の仏壇前に案内してくれた。私は綺麗に手入れのされた仏壇の前に正座し、冬美もそばにそっと座った。
線香をあげて祈りを捧げる。仏壇は死者と対話をする一種の道具のようなものだと聞いたことがある。
今もあなたは冬美を見守っているのでしょうか?
しばらく無言の時が流れる。私は話の切り出しを決めあぐねていた。簡単な近況の話題から冬美の意図する本題へ徐々に移していこうと思っていた矢先にこれだ。全く知らなかったこととはいえ、冬美の繊細な部分に無遠慮に踏み込んでしまったのではないかと心が痛んだ。この歳になれば同年の人の親等が亡くなったということを少なからず耳にすることはある。だが、いくらかの心構えもなしに、しかも昔の大切な友人の父親の死にどう反応を返してよいのか正しく判断できる気はしなかった。
先に口を開いたのは冬美の方だった。
「今日は来てくれて、ありがとう。あの……話を聞いて欲しくて……それで、その、お願いします」
うつむいて無言のままの私に冬美が途切れ途切れに言った。感情を押し殺しているようなこもった声音だった。戸惑っているようにも聞こえた。しかし唐突で話が見えない。
「話がしたかったから私を呼んだの?」
「違う」と、冬美は首を振る。
「なら、その理由から聞かせてほしい。私はそれが知りたい」
「それは……えっと、だから、会いたかったから……」
もともと弱々しかった声が更に細くなっていった。
「会ってさ、どうしたかったの?」
「……」
私はだんだん責め立てるような口調になっているのに気がついてハッとした。
「ごめん、ちょっときつい言い方だった」
「ううん、そんなことない。あたしも、黙りこんじゃってゴメン。……ちゃんと話すから」
冬美が私の瞳をのぞき込む。私はその表情の儚さと何かを諦めたかのような気配に息が詰まるような感じがした。
「それじゃ、なんで会いたいと思ったの? それも私に」
再び問うと、冬美はうつむきながら薄い赤みのさした唇の間からぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた。
「ごめんなさい。やっぱり何から話したらいいのか、よくわからなくなっちゃって。……そう、あたしが会いたかったのは、たぶん寂しかったから。部屋にあった卒業アルバムをめくっていたら、懐かしさがこみあげてきて。そしたら今の自分が惨めになっちゃったから。一番に思い浮かんだのが、その……将未さん、だったから」
「アルバムって二階にあったあれだよね。どうしてわざわざ……?」
「あたし数ヶ月前まで入院してたから」
「え?」
「それで仕事も辞めて今は家に閉じこもって療養中で。……カウンセラーさんにお世話になったりもしたし。だいぶ良くなったけど、外に出ての活動はまだつらくて。だから何かしたいけど何もできない自分を整理しようとしてたら――」
「待って、ちょっと待って」
展開が早すぎて追いつけない。入院して、仕事も辞めて、今も療養中で――。
「あ、ごめん。そうだよね、訳わかんないよね」
「入院ってどういうこと。仕事も辞めたって。……その、たぶんだけど保育士やってたんじゃない?」
「うん、正解。よくわかったね」
それはずっと将来は保育士になりたいと君が言っていたから。
小学校の文集でも中学校の文集でも保育士になるんだと堂々とした丁寧な文字で記してあった。きっとさっき見たアルバムにそれが載っている。それなのにどうして。
「夢だったんでしょ。また続けるつもりはないの?」
自分がだんだん無遠慮になっていくのがはっきりとわかっていたが、自分を止めることができなかった。余計なお世話だろうけど、事情も全く知らないけど、熱い感情が腹の奥から湧いてくる。それは怒りじゃないけど怒りに似た、なんとも言いようのない荒れた感情で、ざらざらしていて。理不尽なものだとわかっているが、冬美の夢を応援していた時期の思いが蘇ってきて途端に責め立てるように言ってしまった。
冬美の表情が目に見えて暗くなった。
「ちゃんと詳しく話すから、二階に戻ろう。ここだと寒いし、それにお父さんにこんな表情見せて心配かけたくないから」
仏壇から顔を背けて言った。遺影の彼の表情を冬美はどう見ているのだろう。
「わかった。いこうか」
私は自分が沼に嵌ってゆくのを感じていた。こんなはずではなかった気がする。どこまで冬美に関することに足を突っ込んでいくのだろう。
暖かな部屋の空気とは裏腹に二人の気持ちは冷たいままである。
部屋に戻った途端に、感情が溢れ出して耐えきれなかったのか、冬美は静かに泣き出してしまった。扉を入ってすぐの所でうずくまって、両手で顔を覆って嗚咽を漏らしている。
私はどうすることができるだろうか。いや、何もできるはずがない。大丈夫などと声をかけるのも、彼女に触れて慰めるのも、どう転んでも罪であるような気がしてならない。その涙を私が拭うことはできない。
結局、私は冬美が落ち着くまで彼女のそばに座っていることにした。自分がひどく惨めだった。
閉じていない扉から廊下の冷たい空気が流れ込んでくる。暖かさと冷たさが混じり合う狭間で異なる複雑な心を抱えた二人がじっと蹲っている。
不意に冬美の手が私の右手に重なった。強張った手つきで人肌のぬくもりが微かに伝わる。涙で少し濡れていた。
私は包み込まれた手をそっとひっくり返して冬美の手を握り返した。
言葉はなく、重なりから伝わる時折の小さな反応にも過敏になる。
やがてどちらともなく立ち上がるとテーブルのもとに向かった。互いを気にかけながら微妙な位置取りで座り直す。密接距離は解消されてこれで二人とも元通りだ。
「もういいの?」
おそるおそる尋ねる。
「うん。もう大丈夫だと思う。……だから話の続きを……」
「つらいなら話すことはないよ。無理しなくても」
あまり冬美のつらそうな表情を見たくはない。それをつくり出しているのが自分であることもわかっている。ならばもうこの訪問自体を切り上げて帰ってしまった方がよい。
「だめ」
小さなつぶやきに大きな強い意志があった。
「もう少しだけ聞いて欲しい。もう少しだけ……」
どうしても話したい様子に、
「分かった。いいよ」
と答えた。
私が見つめる先には落ち着かない冬美が口の先で言葉を探している。
心の中で私は本当にここに来て良かったのだろうかと、今更になって深く考えた。それは冬美と再開する前と後の気持ちに変化を見つけたからだ。何かしらは変わることは否めないと承知はしていたが、なるべく一定距離を保とうとしていても見えない何かに引っ張られるようにして私の意識は彼女の方へと悪い意味で近づいている。
冬美は同情して欲しいのか。共感して欲しいのだろうか。それとも単に話を聞いてもらうことで気持ちの迷路から抜けだそうともがいているのだろうか。その役割は私でなければならないのだろうか。
「……あたしね、保育士なりたかったから高校を卒業した後に――」
解答のはっきりとしない様々な疑問が体中をめぐって気持ちの悪くなるようである。
冬美が話をしている間、冬美に悟られないようにきゅっと拳を見えない位置で握っていた。疑問に思うことがあっても口を挟まないで、適当な相槌を打った。遮ってはいけない気がしていた。
おそらく十分くらいの間冬美はゆっくり語り続けていた。そこでわかったのは、彼女の歩んできた道は私に比べると辛いことの多い険しいものだということである。憧れの仕事に就いたのはいいものの、それは彼女の思い描いていたものとは必ずしも一致しなかった。子どもの面倒を見たり一緒に遊んだりは問題なかったが、反面で保護者や職場の人との人間関係に悩まされていたそうだ。そこに父親の訃報があった。父親の突然の死を受けて相当のショックが襲ったのだと思う。カウンセラーがどうのこうのと言っていたから、鬱になっていたのかもしれない。
不幸は止まることなく、その約一年後に彼女の体に病が見つかったという。すぐに完治するものではなかったらしい。病の進行が進むと入院を免れず、また精神的な疲労が積み重なっていたために、保育士という仕事を続ける覚悟というものを失った。それとは別に仕事を辞す決断は治療を進める過程でしたらしい。
入院の期間はそれほど長くはなかったそうだが、二回の入院をしたと。薬の服用や通院は続いているが経過は順調だという。
「今はこうして家に閉じこもってばかりで、お母さんにも迷惑かけっぱなしなのはわかっているけれど、でもどうしてもまだ立ち直れなくて……」
「また働きたいとは思ってるの?」
「それは、うん、そうだと思う。お医者さんからも、もう大丈夫だろうって。むしろその方がきっといいって勧められてる。ただ、また保育士をやれるかは」
話を聞いても適切な言葉を冬美にかけてあげられる気はしなかった。頑張って、なんて無責任な言葉が浮かんできて零しそうになるが、心の底に深く押し込めた。せめて助言でも言えたならと思っても口は開かない。
私には話を聞くことはできるが、冬美の生活について口出しができる訳ではない。こればかりは冬美自身が答えを見つけて行動を起こす他なく、もとより私もその難題に対する答えを持ってはいなかった。
「結局は冬美次第だよ……」
言葉にすると冬美を突き放した感覚が顕著に現れて、私は続けようとした言葉を言えなくなってしまった。
「……うん、わかってる」
何度目かわからない沈黙が訪れる。
冬美の表情はわからない。私が見ようとしないから。
冬美の気持ちも見えてこない。私が踏み込もうとしないから。
何もかもが闇に閉ざされているみたいな錯覚に陥る。そしてわからない時の一番の対処法は逃げてしまうことだ。時間を確認すると八時を回ろうとしていた。一時間半も経った気はなく、何かの間違いではないかと疑ってしまうような時間の流れだ。
「あのさ…………今日はもうそろそろ帰るね」
不自然な言い出し方ではあったが、私はできるだけ優しく言った。
「待って」と冬美がはっきりと言った。「……よかったら、このままうちに泊まっていかない?」
唐突すぎる発言に一瞬驚き戸惑ったが、そのお願いに対する答えはすぐに定まった。
「いや、遠慮しておく。もういい時間だから。お暇しなきゃ」
すんなりと言った私だが、内心は疑問符と猜疑心でいっぱいになっている。泊まる? さすがに思いもよらなかった。
「ならお夕飯だけでもどうかな? 食べてないよね?」
「いや、それもちょっと……」
「じゃあ――」
断っても何故か必死そうに縋ってくる冬美は何を思っているのだろう。様子がおかしい。
「いきなりどうしたの、どこか体調悪い? 大丈夫?」
冬美の顔はわずかに青ざめているようで、呼吸も不安定に思える。
「ごめんなさい。ちょっと不安になっちゃったから、あんなこと言って……」
不安だから。怖いから。一人になるのが嫌だから。だろうか。確かにこの後冬美は一人になる。しかし、私が来るまではそれが普通ではなかったのではないのだろうか。
冬美の不安を自分の中に少しでも生み出せないか考えてみた。父親を失い、自分が病にかかり、職を自ら辞する決断をする。精神的にも疲弊し、不安定な日々が続く中で母親に面倒をかけながら何もできていない自分を惨めに思って涙を流す。
あまり想像で決めつけたり、脚色したりはよくないかもしれない。しかし、弱っているときに畳みかけて押し寄せてくる黒いものは恐ろしいものかもしれない。心が落ち着いたときに、以前の元気だった頃の自分と今のダメダメな自分を比較してしまうかもしれない。
ただ、私には次のことへ歩を進めようとしない気持ちはよくわからない。ダメだったから立ち止まっていてはいけない。その立ち止まっていてはいけないという思いが新たな一歩を生み出すのではないだろうか。
冬美は一所にうずくまっている。
どうにかして立ち上がらせてあげたいと思ってしまったのは傲慢だろうか。きっとそうだ。だけど――
「冬美、だったら今日は私の家に来ない? 代わりと言っては何だけど」
「え?」
この部屋だけで語らうのではなく、外に出て、私の家で、と環境を変えてみるのはどうだろう。私が連れ出すことに意義が持たせられるのなら……。
「母親がいるから久しぶりに顔を見せてやるともしかしたら喜ぶかもしれないよ」
冬美は戸惑っていた。決めかねていた。
当然ながら困惑はなかなか払拭されない。
私は彼女が何かを決断するまでそれ以上何も言わない。嫌ならイヤだと、来てくれるなら行くと言ってくれることをじっと待つ。
言ってしまってから恥ずかしさがこみあげてきた。再開を果たして間もない女を自分の家に誘うなど。赤面を冬美に悟られそうな気がしてならない。
外で風がごうごうと鳴っている。
「行く」
冬美が短く言った。小さな声だったがはっきりとした調子であった。
「うん」
私は少し嬉しくなった。
冬美が私のことを求めているのならば、一度折られた願いに似通った提案なら受けるのではないかという推測はあった。決して無謀な賭けではなかった。冬美が何を思い、何を迷い、何が決断に至らせたのかはまるでわからない。それでも、私の言葉が彼女の何かを動かしたのではないかという期待は、私の心を揺さぶるのに申し分ないものであった。
冬美が準備をすると言ったので私は一階に降りて客間の畳の上に座っていた。暖房は入っていないところで気温はかなり低い。失礼だとは思ったがその場でコートを羽織ることにした。静かな空間に頭上から微かな足音がおどる。
それにしてもこの部屋は冷える。手足、体の末端から徐々に感覚が奪われていく。熱と緊張で火照っていた頭は冷たい空気に冷やされて、目の前が開けてすっきりとする。
この後のことはどうしよう。冬美を家に連れて行っても母はすんなりと許してくれそうだから、深刻になることはない。夕飯だって冬美の好みに合うものがあるのかはわからないが一応用意があると言っていい。その後は――
「準備終わったよ」
支度を終えた冬美がやってきたので、玄関へと向かう。
厚着が邪魔をして靴のなかなか履けない冬美を見てかわいらしさを覚える。
戸を開くと外界は鋭かった。
外から中に向かって凛と吹く風と一緒に、細やかな白い結晶が舞い込んできた。
雪だ。
そういえば雪が降るんだったっけと、いつもより寒さの強かったことに合点がいく。
「雪だね」
冬美が細く呟いた。
「うん、雪だ」
実家まではここから歩いて二十分ほどかかる。二人連れ添って歩くのに加えて悪天候も考慮するともうちょっと時間のかかる計算になる。冬の夜はすっかり闇に飲まれていて空は分厚い雪雲に覆われおり、普段よりもいっそう暗い道を歩くのはしんどいかもしれない。
「歩いていくつもりだったけどこれだと車の方がいいかもしれない。連絡して母に迎えに来てもらおうか」
「歩いていこう」
「大丈夫? 雪が降り出してまだそんなに経ってないと思うから車出してくれるよ」
しかし首を横に振って「歩く」としきりに繰り返す。
「そう。なら歩いていこう」
外に出るとひんやりとした新鮮な空気に包まれる。雪が風に吹かれながらチラチラと舞い、薄っすらと積もり始めた足元の雪を踏むとそれが踏み固められる鈍い音がする。
冬美が私に続く。電灯がフッと消え、冬美の顔はおぼろげにしか見えない。
冬美が戸を引いて閉めるその一瞬に、戸の隙間から髪の長い女の影がこちらを覗いていたのを見た、気がした。
「え!」
思わず素っ頓狂な声が漏れた。背筋が氷点下に近い気温よりも冷たくなる。
「どうしたの?」
「あ、いや。なんでもない」
冬美の鍵を閉じなかったのに気がつき、
「それより鍵は? 閉めてないでしょう」
と、変な声を上げた私を気にしている冬美の意識を別の方へ向けて誤魔化す。
「これでいいの。大丈夫」
「本当に?」
「うん」
「そう……」
声量は小さいが、もしいくら訊いても意見を変えそうにないくらいの意思のこもった言いようだった。確かに人家のまばらなこの集落の辺りならばそんな心配をする住人がいないのもあることにはある。おそらくそれなりの理由があるのだろうが、鍵を開け放しておくのは物騒ではないだろうか。
戸締りの不十分なのにやきもきしながら、滑りそうな足元に気をつけながら歩き出した。
不意に見た謎の女の影が気持ちの隅に残っていたが、神聖で清浄な夜気と美しい雪の鼓動で次第に掻き消えてしまった。
降り出して間もない雪の様子は好ましい。美しく舞い、風で吹き上がり、地に堕ちるとスッと溶けて儚く消える。その姿に心が躍り高揚する。
歩いて帰ることになったのは私にとっては良いことであった。夜の雪の風情を楽しめるのは久しぶりで、雪の白さが心を浄化してくれるのは心地が良い。
しかし、冬美は違ったはずだ。
五分ほど互いに無言で歩き続け、幅の狭い川の上にかかる橋を通りかかる頃に、私は振り返ることなく後ろを歩く冬美に尋ねた。
「冬美はさあ、まだ雪が嫌いなの? 昔そんなこと言っていたけど」
「嫌い」
短く一言だけ、きっぱりと言いきった。
「どうして?」
「……」
風が大きく橋の下を通り抜けて、冬美が何かを答えたのか無言だったのかはわからなかったが、私はその答えを知っている。
「踏まれて、泥に汚されて、夜の冷気で固められて、お日様には存在をあやふやにされ、そして後処理が大変だと邪険にされて、最後には見向きもされない中でひっそりと消えてゆく」
高校二年の十二月、雪の積もった歩道を一生懸命歩いているときに、雪が降ると大変だねと話していると冬美がそんな風に言っていた。雪のたどる寂しい結末を憂いていた。
だから雪の降る中を歩くのは嫌なのではなかったかと思ったのだ。
道を往く車のヘッドライトが通り過ぎざまに二人の影を雪に映し出す。車の通り去った後に残るのは先を行く私と後を追う冬美の過去と現在。
「ねえ、まーちゃん」
私のあだ名を呼ぶ声は震えている。
「あたし、手紙貰えてうれしかったよ。昔みたいにあたしの我が儘に応えてくれて」
心的にぎゅっと距離が縮まる。何も言わずにゆっくりと振り返ると十歩離れて冬美が立ち尽くしていた。手を胸の前で固く握り、白黒のフィルターを通して私を見つめている。
「仲良しに戻れないかな。あの時の、幸せな関係があったときにみたいに。今なら二人だけでやり直せる。邪魔する人はいない。今度はみんなでじゃなくて二人で仲良くできるから」
「戻れると思ってる?」
「うん」
「新しく始めるんじゃなくて、戻るの?」
「それは……。けど私はまた七年前のあの日々みたいに」
「元通りになったとしてもさ、きっと時間の溝の深みにとらわれるだけだよ。過去の自分たちがまとわりついて一時たりとも離さなくなる。私はそんなの望んでない」
「じゃあなんで会いに来てくれたの。あたしと同じ気持ちだからじゃないの」
「逆だよ。私は新しく始めたかった」
完全にまっさらな状態で出会うことは不可能だが、過去の時間に置き去られた記憶の古傷をよみがえらせるのではなく、弔うことを私は望む。そうでなければ一歩たりとも進めない。
どう転んだって癒しになることはない。
冬美は唇を固く引き結んで、泣くのを堪えているように見える。
そんな表情をしないでほしい。
のどが締め付けられて呼吸が苦しくなる。心が揺らいでしまって、もろくなったところから自分の冬美に対する甘さがこぼれ出てきそうになる。
「私の家に来ればいいって言ったのもそのためだよ。何もかもが閉じたままになってるのは良くない。昔のことは確かに嫌な記憶だけど、何もその延長線上で生きることをしなくたっていいはずだよ」
きっと私も過去を引きずっているところがあるには違いない。そしてそれを思い出さないようにと半ば無理やり押し込めている。一番は自分自身のため、辛くないように苦しまないように生きるため。結局は私も過去を都合良く使っているだけだ。
方法と目的が違うだけで本質は冬美と大して違わない。時間を巻き戻すかたちで綻びを繕おうとしているか、理想的な関係を新しく構築していきたいか。二人でいられるようにというのはきっと共通の思いである。
「どうする?」
自分の声音が怖くなることには気づいている。問う言葉は鋭く飛んでゆく。
私たちの周りだけ時が止まったように、音が、景気が遠ざかる。
頭に、肩に、二人に、気持ちに、雪が降り積もる。
冬美がよろけるみたいに後ろに一歩二歩と下がった。
終ぞ言葉が返ることはなく、冬美は浅く腰を折って頭を下げると、もと来た道をゆっくりと歩く。後ろ姿がゆっくりと遠ざかる。
私の足はどうしても向こう側には動かなかった。
しかし、もしかしたら一歩を踏み出すべきは私だったのかもしれない。私はあと一歩を、もう一歩を見出すことが出来ないまま踵を返した。