#02
『不幸』というものは、突然訪れるものだ。
いつもどおりの時間、いつもどおりの方法で雪ノ葉塾に来た莉乃は、いつもどおり授業を受ける教室に入った。その時、聞きたくなかった声が耳に入ってきた。
「あっ、莉乃ヤッホー!」
教室に入ってきた莉乃に声をかけたのは、同じ学校に通い、塾も同じな女友達だった。少し茶色がかった髪を高い位置で横に縛り、私服はなんだか派手なところが印象的である彼女。でも、どうして彼女がここにいるのだろうか。彼女のクラスは莉乃のひとつ上、だから教室はここではないはずなのに。
「郁美ちゃん……どうしてここに?」
莉乃は控えめに訊ねる。すると、橋田郁美はヘラッと笑った。
「実は、昨日用事があって塾に来れなくて。だから、今日振り替えなの!」
この塾は、クラスによって授業の日にちが違う。だから、授業に出れない時はひとつ上か下のクラスに振り替える事が多いのだ。今日の郁美が一例である。
「知り合いいないと思ってたけど、莉乃がいてくれてよかった~!」
「う、うん……」
嬉しそうに言う郁美に、莉乃は渋々頷く。莉乃としては全く嬉しくないのだ。何故なら、郁美は友人ではあるが少々苦手だ。今の最高な莉乃の環境が壊されかねないのだ。
莉乃は、咄嗟に自分の席の周りを確認した。どこも、郁美が持っているような筆箱は置いていない。どうやら、郁美の席は近くはないみたいだ。ホッと一息つく。
莉乃は、荷物を置きに机まで足を進めた。すると、話し相手がいないのか郁美がついてきた。嫌そうな顔をしないように意識する。昨日と同じように隣の席の彼が眠っているのを横目で見ながら椅子に座る。
ふと、思い出した。そういえば、今日は大好きな先生の授業だ。郁美はいるが、その大好きなイケメン先生を見て癒されるとしよう。
「ねぇねぇ、今日って英語だよね?」
突然、郁美がそんな事を訊いてきた。莉乃は頷く。すると、郁美は眉間に皺を寄せ、露骨に嫌そうな顔をしだした。
「マジか~。このクラスの英語の先生って、あの発音が変なオジサン先生だよね? ちょっと嫌かも~」
「……っ」
郁美の言葉に息を呑む。あの先生の、どこがオジサンなのだろうか。まだ三十代前半だと言っていた。それに、発音だって気にするほど可笑しくないと莉乃は思う。この郁美の発言は、先生を、莉乃を侮辱した。
(……ほら、こういうところが苦手なんだよなぁ)
あまり知りもしないで、好きなだけ悪口を言う。これは、郁美の癖であり、日常茶飯事でもあった。郁美のそれで、どれだけの人が傷ついたか。郁美には、知る由もないだろう。
はぁ、と小さくため息をつくと、それを見ていなかったのか気づかなかったのか、郁美が「莉乃もそう思うよね?」と賛成を要求してきた。その目は、「違うとは言わせない」と言っているように、莉乃には見えて仕方がなかった。だから、
「……そ、そうだよね。私もずっとそう思ってた」
なんて、思ってもない事を口走ってしまうのだ。これは、莉乃の癖である。嫌われたくなくて、周りに合わせてしまう。そうやって、小学校、中学校と上手く友達関係を築いてきた。莉乃の方法は、いい方法とも言えるし、あまりよくない方法とも言えた。
「わっ、ジジイ来た。それじゃあ、また後でねっ」
教室のドアから大好きな先生が来た瞬間、郁美はそう言い捨ててこの場をあとにした。
郁美がいなくなり一段落した莉乃は、先生の顔をよく見た。うん、やはり綺麗な顔立ち。逆に、三十代に見えない童顔だ。そんな彼を『ジジイ』呼ばわりなんて、酷すぎる。
「……さっきの、嘘でしょ」
突然、どこからか声がした。低すぎない低音ボイス。小さくキョロキョロ見回してみるが、誰もそんな事を呟いたような顔はしていない。いったい、誰の声だったのだろうか。
まぁいいか、と視線を戻す。すると、莉乃が無視したせいか、「ねぇ」ともう一度声をかけられた。声の主は、寝ているはずの隣の席の彼だった。
「さっき言ってたの、本当はそう思ってないでしょ。反論したら嫌われちゃうかもしれない。だから、合わせたんでしょ」
急に何だろうか。でも、彼の言っている事は全て事実だ。驚いた表情で彼を見る。彼は、うっすら笑みを浮かべた。
「本当の事言ったほうがいいんじゃない?」
何故、部外者の彼にこんな事を言われなくてはならないのだろうか。それに、寝ずに聞いていたのか? 何の為に。
いろいろな疑問が浮かび上がる。そんな莉乃は、彼に言い捨てた。
「……あなたには関係ないでしょ」
そうだね、と彼は微笑んだ。