日照りに現れた黒い影
青空は果てしなく高く、遠くに幾つかの白い雲。高台から見降ろせば平野と丘陵地が折り重なる実に美しい讃岐の國。本来なら爽快な文月の風に身を委ねて心洗われる気分になることだろう。
しかし、今回はやや趣を異にしている。
「ことごとく、池が干上がっているな」
裕の一言を待つまでもなく、辺りは邪気にあふれていた。河童の煤の心配事も深刻だ。
「こんな日照りは河童にゃ酷だ…」
燦々と降り注ぐ日光を恨めしそうに見上げながら頭の皿を撫でる。隣を歩く蝦夷守は、懐から飴玉を取り出してペロペロと舐めながら言った。
「鳴門の大渦にぶち当たった時、な。あの時、河童丸に相当水が入ってきたじゃねえか、溜めといて持ってくりゃよかったんだ」
他人事と思っての皮肉。煤が躍起になって言い返す。
「これだから判ってない御仁は。いいですか、海水なんか塩がきつくて余計干からびちまいますよ」
「はあん、そんなら酒ならいいだろ。そうだ、せっかく讃岐に来たんだ。『金陵』あたりでその頭の皿ぁ湿らせたらお前さんも、ちったあ機嫌もよくなるだろ」
思い出した様にニッコリと笑った煤。
「おお、そいつぁ名案。たまにゃいい事云うね、蝦夷さん。じゃ早速酒蔵巡りでも…」
呆れ顔の悦花が煤と蝦夷守の方に振り返って「はぁっ」と一喝。ぶっ飛んで倒れる二人。
「いい加減にしなさい。遊んでる時間なんかないんだよっ」
叱られた子供の様に肩をすぼめて顔を見合わせる二人。
今日の讃岐にはどこか「かげり」がある。人々はどこか虚ろで、瀬戸内の明るい風土にはそぐわぬ陰鬱さを漂わせていた。
幻怪たちと煤の五人衆は、当地のうどん屋で旅人達が話す奇妙な話に耳を傾けた。
「恐ろしい噂、だって…」
居合わせたお遍路三人組が、旅の目的も早々に帰り仕度を始めている。
「いけにえ、ねえ…」
なんでもこのところの日照り続きに対し、数多くの村人たちが山に連れ去られている、というのだ。ひどい時には一日に十人を下らない、とか。
「怪しいな。実に怪しい」
うどんをすすりながら聞き耳を立てていた雅が呟いた。
「闇の連中が絡んでるとみて間違いねえ」
濃厚な汁を一気に飲み干した蝦夷守が椀を置くと同時に言った。
「ああ、早速行って暴れちゃおうじゃないの。あ、煤くん、お勘定よろしく」
「いや、こないだあっしが支払ったばかりでしょ。その前も…」
言い争いながら、いや、あるいはそんな素振りをしながらそそくさと店を出た二人を横目に呆れ顔の一同も腹ごしらえを終え、いけにえの噂でもちきりの山へと向かった。
雨乞いの儀式が秘密裏に行われると言う讃岐七富士の一つ、飯野山。讃岐平野に孤立するその山は夏の緑も美しく、恐ろしいいけにえの噂などとは無縁に思えた。
「ほう」
だが山頂付近で岩肌に手を触れた裕は異変に気付いた。
「岩が、暗黒の波動を帯びている。この辺り一帯の土壌がすでに闇の勢力に侵されているようだ」
赤みがかった粘土状の土を拾い上げると、裕の手の中で光の波動と干渉してゆるやかに融けていった。プスプスと音を立てて紫がかった煙が噴き上がる。すでに敵の領土内に足を踏み入れた、そういうことになる。
「用心しろ、囲まれた」
唐突に言ったのは雅。幻怪たち四人は呼応して即座に身構えた。煤はヘルメットの役割をも果たす幻鉱製の菅笠をさっと被り、近くの草むらに身を潜めた。
「来る…のか」
静寂が場を支配する。高い木々に阻まれ光届かぬ山の下草の葉がかすかにそよぐ音だけが聞こえる。高まる緊張。
「クエーッ」
幾つかの残像が上空を飛び交ったと思った瞬間、奇声と共に鈍く光る刃が折り重なって頭上に降り注いだ。静けさは破られ、風が巻き起こる。
「ふんっ」
だが、速さという点で一刀彫の雅に敵う者は滅多にいない。くわえた長楊枝がごくわずかな空気の乱れを察知するや否や、自慢の崇虎刀が山中の木漏れ日を反射して数回、稲妻のように光を放った。
「ふっ」
踏み出した左足が雑草に触れてかすかに揺れる。葉の先から滴り落ちた朝露が乾いた粘土質の地面に到達するより一瞬早く、すでに刺客は地面に叩きつけられていた。真っ赤に染まった朝露が足元の土に浸み入ってゆく。
「造作も無い」
間を置いて、ひらり、ひらりと羽毛が舞い落ちた。
「天狗…か」
つづく