波立つ海に悪夢の兆し
時を追う毎に風は強くなる。南風。
「こりゃ時化る、間違いねえ」
右へ、左へと次第に揺れを大きくする甲板にポツリ、ポツリと雨粒が小さな染みを作り始めた。
「時化なんてもんじゃねえ、大時化だよ。見てみな、あのどんよりした雲をよ」
片表(かたおもて=副航海長)が目をしかめた。
幻怪衆・響の宮が率いる慧牡の民は、はぐれ剣士・嵯雪と共に決戦の地・富士を目指して海路を往く。
通常の菱垣廻船の航路よりやや南を通って田子の浦を目指す船団、その数八隻。
「これだけの船をよく隠し持ってたもんだな」
白波を立てながら勇壮に進む海上の城郭たちを見渡しながら嵯雪が呟いた。
「例の秀忠さんの大船建造の禁はまだ解かれてねえってのに。どれも五百石どころか、立派な千石船ばっかりじゃねえか」
船室から甲板に上がってきた響の宮が答えた。
「我々が根城にしている志摩から南紀にかけての入り組んだ岸壁には幾らでも隠し場所はありますよ。そもそも我らは海の民」
「海の民?」
「ええ、慧牡の民の祖先は南方の海に勢力を持った水軍海賊衆。船上に生まれ船上に生き、育ち、愛し、その一生を終える海の放浪者」
波が高くなってきた。横静索をしっかりと握って身体を支えながら、響の宮は続けた。
「そして、志摩に流れ着いた。その時乗っていたのがこの船『慧牡丸』だったと云います」
「へええっ」
嵯雪が驚いて見せた。
「そんな年代ものの船、しかし大丈夫かい。だいぶ海も荒れてきた・・・」
「心配要りませんよ。ちゃんと保守点検は怠っておりません、随分改造もしましたし」
「へえ・・・改造・・・え、うあっ、おおおっ」
大波が打ち寄せ船は大きく揺さぶられた。強い風はぐるぐるとつむじ風のように巻き上がりマストもゆらりと撓っている。
「よしっ」
響の宮が傍の若衆を呼び止め、指示を出した。敬礼と共に表仕(おもてし=一等航海士)に伝令し、表仕は楫子(かじこ=操舵主)に向かって叫んだ。
「帆を降ろせっ。すぐにだっ、他の船にも伝えよっ」
旗振り通信が旗艦の指令をすぐさま伝える。次々と帆が畳まれてゆく。
「帆を降ろす。ってことは、しばらく足止め。か・・・」
呟く嵯雪を横目に響の宮はにっこりと笑った。
「いや」
ゴオッという音、甲板がブルブルと震えた。ほどなく船尾から濛々と白煙が上がる。
「おい、大丈夫かっ。敵かっ」
血相を変えて思わず立ち上がって船尾に走ろうとした嵯雪は、ガクンという衝撃と共に船が前進したおかげで危うく後ろ向きに倒れそうに。
「あわっ、わわっ」
「おっと」
上体を手で支えたのは響の宮。
「改造、ですよ」
「ん?」
波にも向かい風にも構わず真っ直ぐ航路を進む船団。船尾の大きな筒から吐き出す白煙が後ろに竜の足跡のような軌跡を残して。
「まさか、こいつは・・・蒸気船かっ。一年前に亜米利加の提督ぺりいが乗ってきた、あれだなっ」
嵯雪が驚いて目を丸めた。。頷く響の宮。
「ふふふ、もっと進んでますよ。外輪式ではなく水中回転翼式です。そして燃料も石炭だけじゃない・・・志摩や渥美の海底資源は宝の山ですからね」
「大したもんだ、あんたら。だが幕府も薩長も知らぬ間に何故こんな技術と知識を?」
「ええ、話は三百年前まで遡ります。海虎一族とかつて我らは呼ばれていました。私の十代前の祖先『虎牙』が南海を彷徨っていた時のこと」
響の宮が語った。
船員の一人が海中に光る箱を見つけた。「宝だ」と飛び込んだ彼らが拾い上げた大きな箱を開けると、光る石を抱いた男が眠っていた。
「死んでるぜこいつ。宝はいただいて海に投げ捨てちまえ」
「いや、生きてるぞこいつ。瀕死だが・・・」
「死にかけも死体も同じようなもんだ、さあ捨てろ捨てろ」
「だいたい、この船にゃすでに死にかけだらけなんだ。余所者なんざ居場所がねえっての」
海虎一族は長い船旅に伴う壊血病、そして持ち込まれた伝染病で危機的状況にあった。
「まあ、お互いもうすぐ死ぬんだ、恨まねえでくれよな」
男が海に向かって身一つで投じられようとしていたのを止めたのが虎牙。男が抱えていた光る石をくるんでいた布に書かれた文字「幻」に見覚えがあったからである。
もともと海虎一族は南方の孤島に住んでいたが、千年ほど前、妖怪たちの襲撃によって島ごと破壊される憂き目に遭った。全滅寸前の彼らのために戦い、生き残った者たちを生みに逃がした伝説の主が「幻」の印を身に着けていたという。
「見ろ、同じだ」
虎牙が先祖代々引き継いだ救世主の形見の布には、同じ「幻」の文字。
「お、俺は・・・幻怪・・・」
海中から引き上げられた瀕死の男は自らを幻怪であると名乗った。そして光の石を利用し海虎一族の病を治癒せしめ、彼らを全滅から救った。
再び救いの神が現れたと崇められたまま幻怪を名乗る男はほどなく息絶えたがその際、古代技術がびっしり書かれた書物と波動の力が宿る幻鉱石を虎牙に与え、また無尽蔵の海洋資源が眠る志摩に暮らすよう言い遺した。
そして遺言と共に光る石を虎牙に託した。
「やがてこの石を探しに来るものが現れる。十年後か、百年後か、千年後か。その時は共に戦え。それがお前たちの宿命」
「へええ・・・」
感心する嵯雪。
「ともかく千年前からお前さんたちの宿敵は妖怪で、三百年前からお前さんたちは幻怪衆ってわけだ。たいした歴史だ」
「ふふふ、古の人々の言葉に間違いはありませんからね。私は古いものを大事にする性質なんです」
金色の長い髪を南風にたなびかせながら響の宮は黒い雲に覆われた空を見上げた。
「それにしても・・・」
雨足が強くなってきた。嵐が来る。いや通常の荒れた天候とはまた異なる、なにか薄気味悪い空気が海上を支配していることに気付いた。
「親方っ、あれを。あれをっ」
物見係の若衆が叫んだ。遠眼鏡の中に映ったのは無数に波立つ賑やかな海面。
「普通じゃねえ、あれは・・・」
「来るかっ」
響の宮は急いで檣楼に駆け上がりひときわ大きい遠眼鏡を覗きこんだ。
「間違いない、波小僧だ。こっちへ向かってくるぞっ」
真っ黒い影が飛び上がってはまた飛び込みながら海面をうねらせてどんどん近づいてくる。
「波小僧?」
「ああ、古来海に居ついた妖怪さ。遠州灘の海難事故の多くはこいつらの仕業さ。人間の味方のように書かれた古文書もあるが、騙されちゃいけない」
あっというまに慧牡の船団を取り囲んだ波小僧の群れ。ぬるりとした鱗の肌に覆われた半人半魚の怪物たちは、トビウオの如く海面から飛び上がっては船員たちに噛み付く。
「な、なんて凶暴なんだっ。こいつら」
波小僧たちが船員たちを引きずり込んだ海が、次第に赤く染まってゆく。あちらの船からもこちらの船からも悲鳴が沸きあがる。
「ちくしょう、切り身にしてやるっ」
いきり立つ船員たち。もとは海賊海の民だけに気性の激しさは折り紙つき。戦いに彩られた一族の歴史を示しているような巨大な斧を手に波小僧に立ち向かってゆく。
「このやろうっ、チョロチョロしやがって」
だが敵は思った以上に素早い。
「昔は波小僧といえばもうちょっと可愛らしかったもんだが、どうだい。何か取り付かれたように全力で襲ってきやがる」
大きく重い斧では捉えきれないスピードで飛び、船員たちを襲うだけでなく船底をかじって孔を穿つ者や甲板に上がって毒交じりの墨を吐く者も。
「まったくおぞましい奴らめっ」
気付けば数え切れない程の波小僧が船に上がってきていた。幾隻かは完全に占拠されてしまったようだ。
「くううっ、くううっ」
甲高い声。時に超音波を発して海中でのコミュニケーションをとると云う。鰭状の脚でペタペタと甲板をうろつくが、その様は可愛らしいイメージの「人魚」とは程遠い奇怪な風体。
「止むを得ん、火だ。火を使えっ」
本来、船に女と火は厳禁。だが古から海の妖怪たちを相手にしてきた慧牡の民。船の装備はおおかた防火対策が施されている。それでも船上での火は危険だが、ここまで波小僧にしてやられては他に打つ手が無い。
「三番倉庫を開けろっ」
若衆たちが武器庫に急ぐ。たっぷりと鰯油を染みこませた松明、そして火矢。激しい雨中にあっても揺らめく炎が消えることは無い。
「さあ、放てっ」
次々に撃ち込まれる火矢、そして船上に乗り込んだ波小僧たちを追い詰める松明。海の妖怪は火を極端に怖がる。やっと敵は後退し始めた。
「おいおい、かなわんな、この生臭さ」
嵯雪も甲板上で波小僧たちを相手に愛刀を片手に大立ち回りを演じている。次から次へ、切り落とされてゆく魚人の手、足、そして身体。
「ちっ、斬ったら余計に生臭せえっての」
切り落とされてもまだピチピチと甲板で跳ねる波小僧の足をポンと蹴って海に落とした嵯雪は首をかしげた。
「ん、ちょ、ちょっと、あれ・・・」
思わず大声を上げた。
「おおいっ、見ろ。早く、なんだあれはっ。なんだあの渦はっ」
つづく




