信ずるに足る己を
閻魔卿との戦いに敗れ絶命した幻翁は密かに幻怪衆の根城「幻怪殿」を、次元の歪みが生み出すパワースポットとも言うべき陸田の田園地帯に作り上げていた。
幻怪戦士四人と夫羅親娘、河童の煤、政吉に加え、はぐれ剣士の嵯雪や木曽の那喝一家、四日市からやってきた響の宮率いる慧牡の民に加え、かつて敵同士だった尾張柳生一族の嫡子・鴎楽あらため音次郎も仲間に加えた幻怪衆はこの幻怪殿を新たなアジトとして冥界との戦いへの思いを新たにした。
「空が高い、ってのはこういう事なのね」
あぜ道で両手を高く上げてのびをしたのは夫羅の愛娘、数え歳十二の仁美。
冬には国府宮の奇祭で賑わうこの地方だが、もうすぐ収穫を迎える稲穂の野分の気配漂う初秋にあっては全くのんびりとした風情のまま、澄み渡る青い空気が心地よい。
「それにしても、静かなところね」
傾いた案山子は無邪気な笑顔、その麦わら帽の上に乗っかる雀たちも、実りの秋はもうすぐ、と期待を寄せているようにも見える。あぜ道で牛を引き歩く農夫の他に人影も見当たらない。
「まさかこんなところに要塞みたいなアジトがある、なんて誰も想像もしないでしょうね」
にっこり笑った仁美は手早く鍵を開け幻怪殿に入っていった。
「あっ、すうちゃん。また新しい道具?」
河童の煤は仁美がもっと小さい頃からの遊び仲間でもある。
「おお、仁美ちゃんか。ああそうさ。見てみな、この電脳箱、前のよりずっと性能がいいんだ。ほら、ここはお江戸、ここは上方。こうやって指で動かすと・・・ほらここは蝦夷地」
煤は各地に張り巡らせた「あんていな」からの情報を集約する役割の電脳箱を、この幻怪殿に設置した。
「あちこちの波動の動きや地図情報、本日の米相場までわかっちゃう優れものだ。『魔檎図集』って呼んでるのさ」
「まあ熱心ね。道具づくりもいいけど、たまにはあたしとも遊んでね」
屈託のない笑顔を振りまきながら隣の大部屋を覗き込んだ仁美は、いきなり目を丸くした。
「うわあっ」
唸りを上げて飛んできた鋭い分銅の先が、仁美の顔をかすめて壁に突き刺さった。あわてて駆け寄ってきたのは那喝衆の親玉・均蔵。
「急に扉を開けたら危ないよ、仁美ちゃん。なんたってここは修行の部屋だからね。ほら、ここなら安全だよ」
強化ガラスで仕切られた椅子に掛けた仁美は、均蔵が必殺の鎖鎌で仮想敵の木製人形と戦う様子をまじまじと見入った。
「ほら、ちゃんと合図してから部屋に入らないとこうなっちゃうよ」
悪戯っぽく笑う均蔵の鎖鎌がびゅんと飛び、人形の首を切り落とした。
「あ、は、はい・・・」
「そうだ、この下の階ではうちの若衆が剣術の稽古してるから、差し入れでも持っていってやるといい。ちゃんと合図してから、な」
食料庫から銀杏もなかを手に階下に下りると、熱気に満ちた怒号が聞こえてきた。
「だから、刀はそんな持ち方ではいかん。さっきも言っただろう」
師範代、嵯雪の真っ白な胴衣もすっかり汗だくになっている。
「ほら、それが無駄な力だ、って言うんだ。違う違う」
熱心に指導に勤しむ嵯雪に、教えを請う那喝一家の若衆の一人が目配せで来訪者を知らせた。
「ん、ああ。仁美ちゃんか、どうした?」
「え、ええ。均蔵さんが、ちょっと休憩してはいかがかと・・・」
「おお、ありがたいっ。幻怪衆の看板娘からの差し入れとあってはここらで一服しないわけにはいかないな」
「ちょ、ちょっと裕さん。こりゃいくらなんでも重い。重すぎやしませんかい?」
その頃、仁美父親・夫羅は、幻怪戦士、からくりの裕の修行を手伝うため、さらに地下の深いところに設けられた訓練室にいた。幻鋼仕立ての甲冑を着せられて歩くのもままならない様子。
「鎧も重いが、なによりこの部屋の重力。こりゃどうなってるんですかい?」
裕がさらりと答えた。
「はは、判りますか、やっぱり。ここは通常の三倍ほどの重力になっているんですよ、次元の歪みのおかげで、ね」
「参ったな、こりゃ」
立っているだけで汗が滲む。肩で息する夫羅を見て裕が尋ねる。
「ん、ちょっと迷惑してます?」
「あ、いや。お役に立てるならこれくらい、ぜんぜん・・・」
「悪いねえ、この部屋の強い重力はね、波動の力を鍛えるのにちょうどいいんですよ。一緒にがんばりましょう」
「・・・相変わらず、優しそうに見えてこの人は」
「ん、何か言いましたか?」
聞こえない振りの裕。慌てたように夫羅が答えた。
「い、いえいえ。なんにも」
しかし次の瞬間、夫羅はさらに慌てる羽目になった。
「ええっ?」
三十畳ほどの部屋の端から、夫羅めがけて弓矢を構える裕の姿が。
「なあに、矢じりは外してありますから」
にっこり笑った裕がギリギリと引いた弓の弦から勢いよく幻ノ矢をはじき飛ばした。一瞬にして矢の先は夫羅の眼前に到達した。
「うっ」
思わず息を呑んで目を閉じた夫羅。しかし飛来する矢が奏でる風切り音は、彼の目の前でピタリと止まった。
「あれ?」
ゆっくりと目を開く夫羅。裕の楽しげな声が聞こえてきた。
「はは、どうです。びっくりしたでしょ」
夫羅の眉間の、握りこぶし一つ分手前の空中で幻ノ矢は静止していた。密度の高い空気と強い重力に逆らってきた矢はシュウシュウと白煙を上げている。
「う、浮いてる・・・」
「ええ、波動を利用して遠隔操作しているんですよ」
部屋の端の裕が手を動かして矢を操作する。まるで見えない波動の糸が繋がっているかのように幻ノ矢はサッと向きを変え、呼び戻された忠犬のように裕の手に再び収まった。
「さあ、またびっくりしますよ」
裕は夫羅の両手に火のついた蝋燭を持たせ、頭上にも一本の蝋燭を乗せると再び部屋の端で三本の幻ノ矢を一気につがえた。
「いきますよっ」
唸りを上げた矢が、一本は真上に、二本は左右に分かれて飛んだ。操り人形を動かすように、左右の手と指を使って波動の「見えない糸」でこれらを動かす。
「ひいっ」
悲鳴を上げる夫羅。真上に飛んだ矢は頭上の蝋燭の火を消すとそこでピタリと静止。右から飛んだ矢はぐいっと軌道を変えて回り込んで夫羅の右手の蝋燭の火を消した。
「あ、あがああっ」
しかし左から旋回して飛んだ矢は蝋燭ではなく、夫羅の脇腹を直撃した。幻鋼製の甲冑は小さなヒビが入った程度の損傷だが、中にいる夫羅にはかなりの衝撃だったようだ。
「な、なんだっこの衝撃・・・いたたた」
目の前が真っ白になり倒れこんでしまった。
「ううむ。ちょっと操作を誤ったか・・・」
しきりに首をひねる裕。夫羅は目をパチパチさせながらやっと立ち上がった。
「いやあ、壮絶な破壊力ですな。狙いもあと少しだし、こりゃ大したもんです」
甲冑を脱ごうと兜の紐に手を掛けた夫羅に向かって裕がさらりと言った。
「じゃあ、もう一回」
絶句する夫羅。
(・・・裕さん、どエスだな)
裕が幻の矢の波動コントロールの特訓に勤しむ部屋の隣には「黒の間」と呼ばれる訓練室がある。
「ふうっ」
座した一刀彫の雅、ゆっくりと目を閉じた。この部屋では次元の歪みが全ての波動を極端に封じ込めるため、光も音もほとんど無い。
天井から染み出した地下水が垂れ落ちるゆっくりとしたリズムだけが唯一、時が止まってしまったわけではないことを示している。
「今だっ」
暗闇で静寂を破り、雅が飛び上がる。同時に抜いた愛刀・数虎がその切っ先を落ちる雫に狙いを定めてしなやかに弧を描く。
「はあっ」
雫は弾けた。雅は自らの顔にかかった細かな水飛沫をぬぐいながら呼吸を整える。この部屋は空気も随分薄いようだ。
「むう」
切っ先を濡らす水滴をじっと見る雅。光も音も無い中で、ひたすら僅かな「気」の変化を捉えて~言い換えれば、研ぎ澄ませたセンサーで周囲の状況を正確に掴む訓練。
「まだまだ、か・・・」
垂れ落ちる水滴を、床に達するまでの刹那に、視覚に頼らず正確に刃を合わせる。それでもまだ雅のストイックさを満たすには至らないようだ。
「あ、あのう・・・」
差し入れを届けにきた仁美であったが、この緊張感を破って声を掛ける勇気は持ちあわせてはおらず、そのまま台所に戻ってきた。
幻怪衆の全員が寝泊りしてもまだ余裕のある大きな台所と食料庫。これなら非常時に避難場所としても使えそうだな、などと思いながら片づけをする仁美。
「ん?」
ふと、物置になっている隣の小さな部屋から声が漏れ聞こえることに仁美は気付いた。
「待って、待って・・・いや許さんっ」
物騒な会話に胸騒ぎの仁美はそうっと小部屋の扉を開けた。
「ちょっと、ちょっと待って下さいっ」
大声を上げていたのは政吉。
「いや、『待った』はナシだっ」
その向かいでこれまた奇声を上げていたのは蝦夷守龍鬼。
「人生にも、この盤上にも、やり直しは無えってこった」
物置部屋の隅で二人が夢中になっているのは西洋将棋。手作りの盤には白と黒に塗り分けられたタテヨコのマス。幾つかの小さな駒が陣形よろしく並んでいる。
「ほら、お前さんの番だ」
蝦夷守に急かされる政吉は腕組みをして苦悩の表情。
「さっきの騎士はキツいなあ・・・ちょっといやらしくないですか、その戦法」
「勝負にいやらしいも潔癖も無えだろ」
くすねた貯古齢糖を頬張りながら蝦夷守は自信有り気に言う。
「序盤は本の如く、中盤は奇術師の如く。って言うだろ?」
頭を抱え込む政吉の顔を覗き込みながらニヤリと笑った蝦夷守は、手駒をぐいと政吉の王将に寄せた。
「そして終盤は機会の如くに、ってな。遠目の魔術師に勝機あり、ってんだ」
「えっ、そっちですかっ」
半泣きの政吉が顔を上げると、一部始終を見ていた仁美と目が合った。
「あれ、仁美ちゃん・・・見てたの?」
「もうっ、二人とも何遊んでるのっ」
仁美の甲高い声が耳に痛い。
「みんなが一生懸命修行してるってのに、あなたたちっ。おまけにお菓子までくすねて、いいですか、あなたたちは・・・」
政吉は必死に言い訳をしてみる。
「いや、あ、あのこれは修行の一環でして、戦略、いや戦術の・・・」
蝦夷守は早々と駒を放り投げて逃げ出した。もちろん貯古齢糖の残りはしっかり手に握ったまま。
「王の早逃げは八手の得、って云うからな」
たった一人、仁美の説教を延々と聞く羽目になった政吉。
(こりゃまるで小さな幻翁だ・・・)
幻怪殿の最深部には漆喰の壁で仕切られたドーム状の部屋がある。ほのかな蝋燭の明かりが揺れるこの部屋には小さな祭壇が置かれ、僅かながらの献花がなされている。
「翁・・・」
幻怪戦士である花魁・悦花がじっと向き合う小さな木片は位牌代わり。手書きで「幻王院元峯智翁」の文字。
「私たちを見守っていてください」
足元の石畳に涙の染みが描き出されている。
「悦花どの・・・」
ゆっくりと開く扉の向こうから低い声がした。
「鴎・・・いや、音次郎さま」
扉の隙間から光が漏れ入り、隻腕の男のシルエットが近付いてくる。
「悦花どのにはあらためてお詫びしなければ、そしてお礼を、と思っておりました」
「いえ、そんな・・・」
「あなたが幻翁を失った悲しみが如何ばかりか私にも判る。その幻翁を弱らせた原因は尾張柳生にある。なんとお詫びしたらよいものか・・・」
「もう過ぎたこと。人は誰も信念に従って生きているのだから、衝突もあって当たり前よ。それにあなたはその信念を曲げてまで私たちを助けてくれた」
「それだけじゃない、こんな私を仲間として受け入れてくれた。私に再び、生きる意味を与えてくれた・・・」
「生きる意味・・・難しいことはわからないけれど・・・」
シルエットの中で優しげな音次郎の目が潤んでいるのを見た悦花の心が「幻怪戦士」から「一人の女」に揺り戻そうとする。
「あなたに、傍にいて欲しい。そう思ったの」
しばらくの間、沈黙が流れた。
湿った空気が、どこか懐かしいような匂いを醸し出していた。部屋の外から漏れ入る光が作る二人の影は、いつしか一つに重なっていた。
つづく