晩夏の雨が洗い流したもの
風にそよぐ夏草も今では随分背が高くなり、小さな渡し船の小屋をすっぽり隠してしまうほどになった。
もっとも、この小屋は近年は使われていないようで、傷のまだ癒えぬ老人が身を隠すには、この生い茂った雑草が好都合ではあるが。
―美濃國・川島。木曽河川敷―
季節は変わりゆくもの。この河川敷でも、つい先日までうるさいほどの蝉が鳴いていたが、もうコオロギが美しい歌を奏ではじめた。
「ん?」
スッと入ってくる冷たい風。空に広がる雨雲が運んできたか。壊れかけの小屋の戸は、吹きつける風にガタガタと音を立てる。
「いや、この感触は…」
小屋の奥で床に伏す老人のこけた青白い頬を、屋根板の隙間から日が差し照らす。ギイという音が、扉が開いた事を知らせた。入口を見るまでもなく、老人は呟いた。
「お前さん、来たか…」
「ああ」
小屋を訪れた黒いローブの男が低くしゃがれた声で答えた。
わずかな沈黙の間が、やけに長く感じられる。
「なあ、モートン」
来訪者が呼びかけた。老人が思わず笑みを漏らす。
「ふっ、その名で呼ぶか…」
チラリと来訪者の目をくれて老人は言った。
「ならばわしもそうしよう。久しぶりだな、レーテスよ」
来訪者はゆっくりとフードを上げて答えた。
「そんな男もいた、か…だが、こんな顔では無かった」
かすかに漏れ来る光が照らす、真っ赤に焼けただれた頬の皮膚。深い傷が肉をえぐり、変形した容貌。
「俺は誰でも無い。冥界卿、閻魔だ」
老人はじっとその顔を見つめた。
「そうだな…」
静かに目で頷き、皺だらけの口で呟いた。
「季節は変わりゆく。俺も、幻界の将軍とかつて呼ばれたモートンではない。幻翁、ただのジジイだ」
からくりの裕と政吉が敵襲を受け命からがら難を逃れた頃、傷だらけの幻翁が身を隠していた川島の河川敷の小屋に閻魔卿が出向いていた。
「お前がただのジジイじゃないことは俺が一番知っている」
閻魔卿は静かに言った。
「ふっ、で…」
幻翁は視線を外して言った。
「わしを殺しに来たのか」
閻魔卿は小さく首を縦に振った。
「そうだ」
小屋を通り抜ける風に、秋の匂いがした。夏草のザワザワと風になびく音が妙に大きい。
幻翁は目を逸らしたまま。
「こんな老いぼれを殺してどうなる」
「俺が殺すのは、ただの老いぼれじゃない。俺が求める新秩序の邪魔をする幻怪衆とやらの元締め、だ」
「ほう」
閻魔卿と目を合わせた幻翁が言った。
「秩序は力や恐怖で為し得るものではない。あの時学んだであろう」
「あの時俺はまだ真の力を知らなかっただけだ。今なら本当の世界秩序をこの手で作れる」
「ふっ、思いあがる癖は以前と変わらんな…」
今度は閻魔卿が視線を外した。諭すように、幻翁が語りかける。
「あの時、俺たちが命がけで守ったものを、なぜ今になって壊そうとする?」
「俺たち?」
幻翁の目を見据える閻魔卿の頬の傷がヒクヒクと痙攣した。
「俺たち、じゃない。お前が自身を守りたかっただけだ。お前が押し付けた理想に俺は巻き込まれたんだ」
憐れむような目で首を横に振る幻翁を、閻魔卿は睨みつけた。
「あんたは解ってない。まやかしの光に操られているだけだということを。その足元で苦しみもがく数知れぬ犠牲者がいることを」
焼けただれた皮膚がにわかに充血して膨らんだ。
「あれから長い年月、俺は真の力と真の世界秩序に目覚めた」
「そうか…」
幻翁は閻魔卿に背を向けた。
「もう、溝は埋まらぬ、か…」
以前よりずっと小さく感じる幻翁。床に伏したその背中を見下すようにして閻魔卿は言った。
「生ぬるい現世で平和を貪っていたお前には到底知り得ない苦痛と悲しみに、俺は苛まれ続けた。お前への怒りと憎悪が、俺を強くした」
肩を震わす閻魔卿。
「お前を、この手で殺す。その誓いを俺は果たしに来た」
小さく咳払いをした幻翁。まだ背を向けている。
「なあ、レーテス…いや、閻魔卿よ」
ゆっくりと振り返った。
「お前の悪い癖はもう一つ…」
ため息をつく幻翁。閻魔卿はその顔を覗き込んだ。その瞬間、伏したままの幻翁は布団を投げつけた。視界が遮られて一瞬戸惑った閻魔卿の腹を目がけて幻翁が掌をかざし、目がくらむほどの光の波動弾を撃ち込んだ。
「感情的になって冷静さを失うところ、だ」
直撃を受けよろめきながらも、すぐさま振り下ろした閻魔卿の反撃の爪が床に深々と突き刺さった。
「ん?」
すでに幻翁はそこにいない。閻魔卿はふっと笑みを漏らしながら後ろを振り返った。
「さすが、我が師」
幻翁は飛び上がって床を抜け出し、背後に立っていた。杖の仕込み刃を抜き、腰を下ろしての中段の構え。しかし老体に加えまだ傷癒えぬ身。足元がワナワナと震えている。
「だが老いた」
閻魔卿が義手に力を込めると、長い刀が飛び出した。その切っ先を幻翁に真っ直ぐ向ける。
「そんな身体でこの俺に…」
話を聞き終わる前に幻翁がぐっと身を沈めた。次の瞬間、閻魔卿の懐にもぐりこんだ。目で追えないスピード。喉元を狙って身体を伸ばし、仕込み刃を突き出す。だが瞬時に出した閻魔卿の足が幻翁を蹴り飛ばした。
「ううっ」
その着地点を狙って閻魔卿は左の掌から黒い波動弾を撃ち放った。
「そう来るだろうと思ったよ」
ほぼ同時に掌をかざし光の波動弾を放った幻翁。両者の波動は真っ向ぶつかりあい、稲光を放ちながら大きな衝撃波を巻き起こした。まるでビー玉がぶつかり合ったように、どちらもはじき飛ばされた。
「ううっ」
身を起こした幻翁が続けざまに波動を撃とうと掌をかざす。だが閻魔卿は見当たらない。
「上かっ」
すでに大きく跳躍していた閻魔卿の影が覆いかぶさる。薄暗い小屋の中、一瞬だけ漏れ入った光が迫る刀身を照らしだした。
「ええいっ」
幻翁は足元に落ちていた飼い葉桶を蹴りあげた。
「チッ」
閻魔卿がそれをはたき落とす隙に幻翁は飛び退けクルクルッと転がった。ズシンと小屋が揺れ、閻魔卿の刀は床板に突き刺さった。渦巻く波動が空気さえ歪める。
「相変わらず姑息な手を」
「それが勝負というものだ」
目が合った両者は一気に駆け寄り距離を詰めた。床を蹴り上げ飛び上がって斬り込む幻翁と、刀を下段から振り上げる閻魔卿、二人の刃がガッチリと噛み合った。息がかかるほどの至近距離で睨みあう。
「俺は、お前に一度殺された。次は俺がお前を殺す」
しゃがれ声の閻魔卿。幻翁は首を横に振る。
「いいや、お前を殺したのはお前自身」
さらに顔を近づけて幻翁が言った。
「そしてお前は鵺をも殺した」
閻魔卿は赤い目をカッと見開いた。
「違うっ、お前だ。お前が巻き込みさえしなければ」
両肩の筋肉がわなわなと震えながら見る見る膨隆した。
「この恨みっ」
閻魔卿が渾身の力を刀に込めると、幻翁の仕込み杖はポッキリと二つに折れた。
「うっ」
瞬時に飛び退き閻魔卿の刃をかわした幻翁はそのまま背を向けて小屋の扉に駆け寄った。
「逃げるのかっ」
扉に手を掛けたとき、閻魔卿が叫んだ。
「鵺の子が生きているだろう」
思わず手を止めた幻翁が振り返った。
「知っていたのか」
同時に閻魔卿は義手を幻翁に向けてかざし、刀の代わりに今度は細長い槍を飛び出させた。釣り竿のような構造の柄はスルスルっと伸びて槍先を幻翁の肩口に突き刺した。
「あっ」
そのまま槍先は小屋の扉に突き刺さり、串刺しに固定された幻翁はまるで昆虫採集の標本のように身動きを封じられた。
「ぐううっ、ぐああっ」
槍先をぐりぐりと捻るたび、幻翁は痛みに身をよじらせる。閻魔卿が問うた。
「お前が鵺の子を戦いの道に巻き込んだのか?」
「違う、あの子はが自ら戦いの道を選んだ。それが運命だったのだ」
閻魔卿が槍先を操る義手に力を込めた。
「軽々しく運命を口にするな」
幻翁は肩口からおびただしい血を流し、次第に顔を青ざめさせてゆく。
「あの子は、悦花は、強い波動の持ち主。だがそれゆえ自らを破滅させかねん。わしが導いてやらねば…」
「そんなのはお前の思い上がりだ。誤った道に巻き込みおって」
閻魔卿が叫んだ。幻翁は串刺しのまま、ぐったりとうなだれてしまった。ゆっくりと近づく閻魔卿。
「鵺の子なら相当な力を秘めているだろうに…」
急に、幻翁が顔を上げた。
「ああ、お前を倒す力を、唯一秘めているはずだ、悦花は」
槍に肩を突き刺されたまま、幻翁は一直線に閻魔卿に向かって突進した。
「なにをっ」
虚を衝かれて動きが止まった閻魔卿との距離を一気に詰めた幻翁は至近距離から光の波動弾を撃ち込んだ。小屋全体が激しく揺れる。
「うおおっ」
閻魔卿が後ろに吹き飛んだ拍子に、肩に突き刺さっていた槍先が抜けた。
「今だっ」
折れた仕込み杖の刃を拾いあげた幻翁は飛び上がって閻魔卿の真上から襲いかかった。
「遅いっ」
閻魔卿が一瞬早かった。刃が届く寸前に掌を突き出した閻魔卿が力強く、黒い波動弾を撃ち上げて幻翁の腹にまともに命中させた。
「ぶあはあっ」
大量の血ヘドを吐き散らしながら真っ直ぐ上に吹き飛んだ幻翁は小屋の屋根を突き破り空中に投げだされた。それを追って閻魔卿も飛び上がる。
「老いには勝てぬということだ」
空中で追いついた閻魔卿は、くの字にひんまがった幻翁の背に左手を添え、右の義手の鋭く長い爪をみぞおちに突き刺した。
「うぐああああっ」
放物線の頂点で両者は身体を入れ替え、閻魔卿は幻翁の頭を押さえつけて上に乗っかり、爪を突き刺したまま落下。血飛沫の痕跡を足跡のように空中に点々と残し二人は小屋の土間に落ちた。
「ぐふっ」
ズシンという重い衝撃。小屋の梁に停まっていた雀たちは驚いたように飛び去って行った。
「これで終わりだ」
急に、雨が降り出した。夏の終わりの夕立にしてはやけに悲しげな。
河川敷の乾いた砂は雨足によって土埃を立ち込めさせ、草むらからは思い出したように蛙が顔を出す。遠くでは、名もなき野良犬が橋桁に雨宿りしながら全身の濡れた毛を震わせ雨水を払っている。風呂敷を頭にかざして家路を急ぐ幾つかの人影。
何気ない光景が繰り返される、ある晩夏の夕刻。
「ぶふうあっ」
ドロドロとした赤黒い血を吐く幻翁、すでに白目がピクピク痙攣している。腹には閻魔卿の鋭い爪が深く食い込んだまま。
「古き友よ」
語りかける閻魔卿の目はどこか寂しげにも見える。朽ちかけの小屋に降りつける雨は、やがて切ない雨だれのハーモニーを奏でながら流れ落ちて、土に帰ってでゆく。
「やっと、約束を果たすぞ」
閻魔卿の爪はその先端に、幻翁の弱り果てた鼓動を触れていた。ゆっくりと爪に力を込める。心臓が握りつぶされてゆくさまが義手を通じて感じとれる。
「う、う、うううっ」
真っ白になった顔で意識を遠のかせる幻翁が、震える唇から声にならない声をかすかに漏らした。
「なあ、レーテス。お前にゃやらんよ、この命」
ガクガクと震えだした両手を自らの胸にあてがった幻翁は、その掌から眩いばかりの波動を自らに向けて撃ち放った。最後に柔らかな笑みを残して。
すべてが真っ白になったかのような衝撃波が広がった。
小屋は無残に崩れ去った。白煙の中にキラキラと輝く微粒子が漂う。それも豪雨がすぐに洗い流してしまう。
「…」
無言のまま、血の滴る右手をじっと見ながら雨に打たれて立ちつくす閻魔卿も、やがて真っ黒なローブを翻し、振り返らぬままその場を去った。
ひたすら降り続く晩夏の雨は、何かを洗い流そうとしているのか。もう何も動くことの無い瓦礫の山だけを河原に残したまま。
つづく