甦った古の牛魔人
傷ついた幻翁の世話をしながら、それぞれミッションを終えて帰ってくる幻怪衆を出迎えるために美濃國・岐阜の市場に出掛けた裕と政吉。彼らの前に突如現れた黒の集団は、冥界帝国の参謀・ヌラリヒョン率いるオニの軍団だった。
幻怪戦士である花魁・悦花の居所を訊き出そうとし、罪なき市民を次々に殺害する暴挙に出た。怒った裕はオニたちを撃破したが、ヌラリヒョンの合図で地中から巨体の怪物が出現した。
「な、なんだっ、あれは」
驚く裕と政吉に向かってヌラリヒョンがニヤニヤしながら言った。
「かつてギリシアに棲息していた怪物を我々が甦らせた。牛魔人・美濃太右朗だ」
ヌラリヒョンは美濃太右朗の尻をポンと叩いた。
「さあ、暴れてこいっ」
「グウウウッ」
野太い咆哮が響き渡る。身の丈八尺を超える筋骨隆々の巨体、その頭部は凶暴な野牛のそれ。抱えた大きな斧が鈍く光る。
「ぐふふ、俺の相手はお前か」
黄ばんだ目が裕を捉えた。荒い鼻息、口から粘り気のある涎をボタボタと垂らしながら近づいてくる。裕は矢筒に手を伸ばす。
「そのようだな」
その時、逃げまどう人々をかき分け、武装した一団が現れた。
「往来での暴力沙汰と訊いた、捨て置けぬ。何事だっ」
公儀の治安部隊が騒ぎを聞きつけやって来たようだ。刺又や警棒を携えて美濃太右朗を取り囲む。
「モノノケめ…」
馬上の司令官が呟いた。少し前までならモノノケ討伐は尾張柳生一党に委託していた案件。だがもはら彼らはいない。
「この街での無法は我らが許さぬ」
サッと右手を挙げた。
「鉄砲隊、前へっ」
オランダ式ヘーゲル銃を携えた一団が近づき膝をついて構えた。
「撃てっ」
小気味良いリズムで発砲が命じられた。銃口が次々に火を吹き、轟音の残響が稲葉山にこだまする。
「なにいっ」
しかし全ての鉛弾は美濃太右朗の斧の一閃によってあっけなくはじき返された。甲高い音を残してあちこちに飛び散った流れ弾が人々を襲う。
「えっ、あ、あっ」
呆気にとられる鉄砲隊に向かって美濃太右朗は一気に突進した。慌てて次の弾を込めようとする彼らの頭上を一気に飛び越える。巨体に似つかわしくない跳躍力。
「ぐはははっ」
着地と同時に振り向きざま、巨大な斧をぐるりと一回転。おはじきを飛ばした様に鉄砲隊の首が次々に跳ね飛んだ。美濃太右朗はそのまま首の無い身体の腹から臓物をえぐり出して喰らいだした。
「あ、ああああ」
呆然とする馬上の指揮官に、ゆっくりとヌラリヒョンが近づいた。
「なあ、あんた」
軽く笑みを浮かべ、目の前に人差し指を立てた。その先を、怯える指揮官にそっと向ける。
「まるで虫けら、だな」
指先から黒い波動の小さな玉が、黒い煙のように渦を巻きながらスッと飛び出し馬上の男の胸を貫いた。
「う、うあ、うばああっ」
まるで毒素が回ったかのように全身を真っ黒に変色させ、胸元からドロドロと融解、蒸発するように男は消え去った。彼が乗っていた馬も同様に、暴れながら骨一本残さずに溶けて消えた。
「さあ、帰るぞ」
まだ屍肉を喰らい続ける美濃太右朗に声を掛け立ち去ろうとしたヌラリヒョンに向かって、裕と政吉が猛然と突進した。
「てめえら、許さん」
「ふっ、まだいたのか、お前」
ヌラリヒョンが目配せをすると、美濃太右朗が立ち上がった。
「ぐうおおおおっ」
雄叫び、そしてぐっと前傾姿勢、迫って来る裕と政吉にむかってこちらも突進する。
「くたばれっ」
裕は走りながら幻ノ矢を放った。美濃太右朗は正面に飛んできたその矢に斧を合わせ、見事真っ二つに切り裂いてのけた。
「蠅が止まるわ」
「ちっ」
裕は間髪いれずに二の矢、三の矢。しかしいずれも斧で易々と打ち落されてしまった。そうしている間に二者の距離はどんどん縮まってゆく。
「また矢、か」
さらに幻ノ矢をつがえる裕をあざ笑う美濃太右朗。
「何度やっても同じ事。お前のヘボな矢など、俺には通用しな…ん?」
斧を振り上げようとした美濃太右朗が慌てて手元を見た。
「何いっ」
裕が正面から幻ノ矢を次々に放っている間に、横に回り込んでいた政吉が狙いすまして鋼弦を投じ、怪物の持つ斧に絡みつけ、動きを封じていた。
「くそっ」
美濃太右朗の無防備な胸板に、至近距離から飛んだ幻ノ矢が勢いよく突き刺さる。ブスっ、という鈍い音。
「ふふっ」
しかし美濃太右朗は表情を変えることなく、否、むしろ笑みさえ浮かべている。
「ふぬうっ」
大きな唸り声とともに胸の筋肉がぐぐっと膨隆した。食い込んだはずの幻ノ矢はいとも簡単に抜けて吹き飛んでしまった。
「効かない…幻ノ矢が、効かない…」
唖然とする裕。だが敵はもう目の前。長い角を突き出して来る美濃太右朗を前に、咄嗟に飛び上がった。
「よしっ」
前傾姿勢で突進する美濃太右朗の後頭部がガラ空きだ。矢筒に手を掛け幻ノ矢を取り出し素早く筈を弦に引っ掛ける。流れるような動作。
「むうっ?」
敵が消えたと気付いた美濃太右朗、気配に気づいて頭上を見上げる。矢をつがえる裕と目があった。
「チョロチョロしやがって」
一瞬早く、美濃太右朗が渾身の力を込め、巻き付いた鋼弦ごと斧を振り上げた。そのパワーに政吉の足が宙に浮く。
「えっ、ええっ」
政吉はまるで釣り上げられた魚のように空中に投げ出され、まさに矢を放たんとしている裕に激しく身体をぶつけた。
「う、うああっ」
二人は態勢を崩して地面に叩きつけられた。
「ぐははは」
ぶるぶるっと武者震いした美濃太右朗は、斧に巻きついた鋼弦をつまんで千切り、その端を握って思いっきり引っ張り上げた。政吉は再び宙舞う羽目に。
「う、うわああっ」
見上げた美濃太右朗が巨大なひづめで地面を蹴り上げて飛び上がった。政吉に追いついくと、涎まみれの顔でニヤリと笑い、斧を振り上げた。
「真っ二つにしてやる」
空中で天地も見失っったまま思わず目をつぶった政吉。目の前でブン、と斧が唸る音。だがその唸りを遮るようにカンという甲高い音が耳をつんざいた。
「させるかっ」
地上から放たれた裕の幻ノ矢が斧に直撃し、美濃太右朗の手を弾いた。ビリビリと波動の稲妻が走る。
「チッ」
衝撃でバランスを崩した美濃太右朗だったが、くるりと空中回転しながら着地。一方政吉は恐怖に身体を硬直させながら全身を地面に強く打ちつけぐったりとうずくまってしまった。
「邪魔なゴミはそこで寝てろ」
吐き捨てた美濃太右朗は、両脚を蹴って再び裕めがけて突進してきた。
幻ノ矢が通じなければ勝ち目はない。だがこれに頼るより他は無い。
「くたばれ、怪物め…」
まるでマシンガンの如く、次から次へと幻ノ矢をつがえては撃ち、つがえては撃ち。だがことごとく斧で打ち払われてしまう。巨体からは想像もつかないスピードを兼ね備えた美濃太右朗は、これまで目にしてきた敵とはレベルが違う。
「お前の矢などとうに見切っている」
目と鼻の距離から放った渾身の一発ですら、容易く弾き飛ばされてしまった。気付くと美濃太右朗の大きな角が腹に食い込んでいる。
「ぐふううっ」
身体中を貫く衝撃とともに吹っ飛ばされた裕。痛みを覚える間もなく立ち上がったが、すでに敵は目の前に立ちはだかっていた。美濃太右朗の巨体が作る影が裕をすっぽり覆い尽くす。両手でガッチリ握った斧が振り上げられた。
「さあ、そろそろ死ぬか」
逆光が目を射す。ギラリと鈍く光った斧の、地鳴りのような唸りが聞こえる。
「ううっ」
思わず歯を食いしばったその時、斧の刃は裕の顔面の三寸ほど手前でピタリと止まった。
「ん?」
見上げると、美濃太右朗の両腕にぐるぐると巻き付いた鋼弦。
「まだ、まだだよ。怪物め」
ふらつく足元のまま立ち上がった政吉が投げつけた鋼弦が、美濃太右朗の斧の一振りを食い止めていた。
「その腕千切り切ってやるっ」
ギリギリと締め上げる鋼弦が二の腕の肉に食い込む。怒りの形相で美濃太右朗は政吉の方を振り返った。どうじに政吉が叫んだ。
「裕さん、今だっ」
目の前で動きを止めた美濃太右朗。裕はその首筋を狙いすまして手に持った幻ノ矢を力いっぱい突き出した。
「くたばれえっ」
「えっ」
突然、裕の視界は真っ黒に閉ざされた。少し遅れて全身に鋭い痛みが走る。
「うぐっ」
なにか体内で弾け飛んだように、細胞の一つ一つが悲鳴を上げる。四肢の力が抜け、痙攣が止まらない。
「うあああっ」
「ふふっ、脆いなあ。実に脆い」
もはや野次馬もいなくなった茶屋に腰かけ、いび茶をすすっていたヌラリヒョンが、その掌を裕に向け真っ黒な波動弾を撃ち込んだのであった。
「しかし美濃太右朗、油断したか。危なかったぞ」
にやけるヌラリヒョン。裕は全身をガクガクさせながら黒い炎に包まれたまま吹っ飛んで後ろの屋台に激突、その壁を破壊して瓦礫の中に埋まってしまった。
「五月蠅いヤツめ…」
鼻息を荒らげた美濃太右朗は、忌々しい鋼弦が食い込んだ両腕を力に任せてブンブンと振り回した。政吉は自らの手首にも鋼弦をきつく巻いているために簡単には外れない。
「ほうら、だんだん弱ってくる」
怪力に引っ張られるがままに引き上げられ、叩きつけられ。面白いように弄ばれる政吉はまるでボロ雑巾のようにズタズタになってゆく。
「もういいだろう。遊んでいるのにも飽いた」
茶を飲み干したヌラリヒョンが呟いた。頷いた美濃太右朗は鋭い牙で、腕に食い込んだ鋼弦を自らの肉の一部とともに噛み切った。涎に混じって血を滴らせ、歪んだ笑みを浮かべて政吉に近づいた。
「さあ、その首跳ね飛ばしてやる」
もはや白目を剥いて倒れ込んでいる政吉の髪の毛をむんずと掴んで宙に放り投げた。ぐっと腰を下ろし、斧の柄を長く持って構える。落下してくる政吉の首筋めがけて鋭い刃が大きな弧を描きだした。
「ぐあああっ」
霧吹きで撒いたように、真っ赤な血が飛び散った。
「てめえっ」
切り裂かれたのは咄嗟に飛び込んできた裕の肩口。政吉を庇うように抱きかかえて転がった。
「カッコつけやがって」
頬をひくつかせながら美濃太右朗が歩いて近寄る。
「バカかお前は。苦しむ時間を引き延ばしただけじゃねえか」
ぐったり倒れ込んだ二人を見下ろしながら斧を振り上げる。
「二人重ねてぶった切ってやる」
裕が閉じていた目を見開いた。震える手で懐から取り出した小さな球を思いっきり地面にぶつけた。パンという破裂音、続いて真っ白な煙幕が一気に広がり周囲を覆い尽くした。
「んぐあっ、ゴホッ。ゴホゴホッ」
催涙と目くらましの煙幕。白い霧は徐々に晴れてゆく。美濃太右朗は足元に転がっていた二人がいなくなっていたことに気付いた。
「逃げるのか、弱虫野郎」
黄ばんだ結膜をギラギラさせながら辺りを探し回る美濃太右朗。
「どこだっ、どこに隠れたっ。チビどもめ」
茶屋で腰掛けたまま、扇子でパタパタあおぎながら白煙を遠ざけるヌラリヒョンが言った。
「まあよい。捨て置け。所詮はザコだ…」
美濃太右朗を手招きすると、破壊された駄菓子屋に残った綿菓子に手を伸ばしてペロペロと舐めながら、ゆっくりと立ち去って行った。美濃太右朗の雄たけびが響く。
「尻尾を巻いて逃げ隠れるなど、恥を知れっ」
口から泡を吹いて気を失った政吉を抱きかかえながら、自らも全身の痛みに耐える血まみれの裕。瓦礫の下に小さくなって身を潜めながら、彼らの高らかな笑い声をただ黙って聞くより他になかった。
つづく




