花街の光、謀の影
暦よりも先に、夜が秋を運んできたようだ。
御油の松並木は月光に照らされて美しいシルエットを浜風に揺らす。まるで花街に踊る艶やかな舞妓の如く。どこか神々しささえ感じられる。
「やけに冷えるじゃねえか」
昼の暑さが余計に夜の寒さを助長する晩夏。
「お前さんが何度も湖に落ちるからだ。我慢しろ、蝦夷の」
遠淡海でダイタラボッチの討伐を終えた幻怪衆、一刀彫の雅、蝦夷守龍鬼、河童の煤の三人はアジトのある岐阜・百々ヶ峰への帰路、東海道を西進していた。
襟巻で首元を覆いながら蝦夷守が言う。
「何度も言うが、好きで湖に落ちたわけじゃねえ。烏帽子はボロボロになっちまうし…ああ高くついちまった」
雅も機嫌が悪い。
「ちっ、んな帽子捨ててこいよ。藻がついてるぞ」
烏帽子に付着した藻草の匂いに顔をしかめてみせる。
「いいか、お前だけじゃねえんだ。俺の笠だってエレキで焼けちまってほら、こんなだ」
浪人笠の表面は毛羽立って、ところどころ焦げて穴も開いている。二人の間に入ったのは煤。
「ご両人、損害自慢ならあっしも負けませんよ。せっかく作った最新の相場銅も、潜水艇もオシャカになっちまったんですからね」
愚痴は尽きない。
吉田、御油を通り過ぎた三人は、それまでの旅路で頼りにしてきた、青く静かな美しさを湛えた月明かりとは別の、赤みを帯びた華やかな明かりに気付いた。
「おっ。あれだよ、あれ」
街道随一と謳われる繁華街、東海道三十六番目の宿場町、赤坂。賑やかな街明かりに三人は心躍らせた。
「そうそう、あれ。パーっと騒いだら傷もすぐ治るってもんだ。赤坂の廓はかなり上等だっていうぜ」
「なんだ詳しいな蝦夷の」
「そりゃもう。事前に『東海道花街道指南』で調査済みってもんよ」
雅が呆れた顔で言う。
「そういうとこだけ準備がいいな。まあ好きにすりゃいいさ」
そう言う雅も、しかし活気ある歓楽街の灯りに頬が緩む。
「俺は、たらふく美味い酒が呑めりゃそれでいい」
「ほう、ここで酒と云いますと…」
煤もにこやかな顔。手元の草子をパラパラめくりながら。
「妙厳寺の近くに店を構える大島屋の『叶』あたりはどうです、お稲荷さんに引っ掛けた命名でしょうが、願いが叶う、なんて縁起がいい」
「ほう、煤も詳しいじゃねえか」
煤は悪戯っぽい笑みを浮かべて雅に草子を見せびらかす。
「あっしも旅の指南書で調査済みってやつです。この『東海道の歩き方』ってやつは出来がいい。あっしもそのうちあちこち旅してこいつの異国版でも書いて大儲けしようかしら、なんてね」
「異国にそうそう旅なんて出来やしないね、煤の妄想はいつも突拍子もねえな」
「いやいや、世の中の進歩は早いですから。これから乗り物が発達して旅の時間はどんどん短くなる。あ、短いと言えば、ほら。あれ」
煤が指差した灯篭の陰で白い猫がじゃれあっている。
「短い尻尾。この辺に棲む猫はみんなああいう風なんですよね。御油猫って言って」
「さすが、旅指南書にゃそんな事も書いてあるのか。猫のことまで」
返事がわりに煤は、その灯篭の明かりの下の蝦夷守を指差した。草子を見ながら廓の場所探しに夢中の様子。
「あのひとは、別の子猫ちゃん探しに一生懸命のようですが…」
宿場町の繁華街は夜でも昼のような賑い。行き交う人の波。群青色の夜空と仄かな月のつつましい明かりのような風流なぞ、ここでは意味を持たない。ここを支配するのは朱色の木戸を照らす、艶っぽく揺れる灯りたち。
「不夜城ってやつな。人を癒す光にも色々あるってことだ」
「まあいつも真面目に戦ってばっかりだしな、命の洗濯もいいだろう」
「ん、いつも真面目か、ほんとに?」
あちこちから聞こえる三味線の楽しげな拍子、魅惑的な歌声。暮れない夜の喧騒にふと見上げれば、宿屋の二階の飾り窓から、ちょいとうなじを広く見せた飯盛り女たちが満面の笑顔で手を振っている。
「あらいいオトコだね、おにいさん。遊んでいきなよ」
幻怪衆三人、つい鼻の下が伸びる。
「ああ、あの子。俺が目当てみたいだな」
「何言ってんだ、俺と目が合ったんだよ」
「冗談言っちゃいけませんよ、笠で隠れてるんだから目の合いようがないじゃないですか」
戦いの疲れ、旅の疲れもどこへやら。三人は旅籠に到着した。
「ほらここ、橋右衛門鱒屋。創業百年、老舗中の老舗。ここなら間違いない」
旅指南の草子を広げる煤、雅がいぶかるように言った。
「そんないい宿なら、突然やってきて部屋なんかあるもんかい。街はこんなに人だらけだしな」
「チッ、わかってらっしゃらない。ここは部屋数八十を下らず。それにね、どうしても空きが無い場合は、こっそり宿賃はずむと部屋をあてがってもらえるそうですよ。この『旅のコツ』の欄に書いてある」
「ほう、抜け目ねえな」
三人はまず一階の料理屋に入り、遠淡海のミッション達成の祝杯を上げた。
「お、おいおい蝦夷の、いきなりそんなに注文なんかしやがって。まさか食い逃げでも…」
「ふふふ、さっき煤から聞いたんだ。出がけに翁からたっぷり餞別を貰ってたってことをな」
蝦夷守がチラリと煤が手にする麻袋を指差した。その手をサッと隠す仕草の煤。
「ちょ、この辺にゃ盗賊やら怪しい連中もいるんですから。大きな声で言っちゃいけませんって」
「いいじゃねえか、どうせ貰ったあぶく銭。パーッと…」
「あのねえ、あっしがどれだけ苦労して節約してるかわかってるんですかっ」
すでに徳利を空にして上機嫌の蝦夷守をキッと睨む煤。
「幻翁さまだって、毎日のように山草を採っては豪商相手に売り歩いたり、資金稼ぎに大変なんですから。蝦夷さんのヤブな骨継ぎやら、気分が乗った時しかやらない木彫りの内職なんてちっともアテになりゃしない。幻怪だろうが妖怪だろうが食っていくのは簡単じゃないんですよっ」
「まあまあ、煤」
雅が煤の肩をポンと叩き「さあ、一杯」と酒を注ぎながら言う。
「こんな時まで堅苦しい話しはよそうじゃねえか。考えてもみろ、生きるってのはこういうことだ。命を張って誰かの役に立った報酬として、今をしっかり楽しむ、な。でもって、また明日、誰かの為に命を張る活力になるってもんだ」
「ま、まあ…そうですけど」
注がれた酒をぐっと飲み干す煤。蝦夷がもう一杯、と煤のお猪口を満たす。
「そうそう、いいこと言った、一刀彫。な、あっちからもこっちからも、楽しそうな声が聞こえてくるじゃねえか。みんな浮世の憂さを忘れて今を、今の『生』を謳歌してるってわけさ」
確かに、こちらの話し声もつい大きくなってしまうくらい、どの部屋からも大きな声、楽しげな声、歌声、笑い声。
「おう、風邪ひくなよっ、んなとこで寝ちまってさ」
廊下に横たわって高いびきの飯盛り女。むこうには、すっかり着衣をはだけさせて柱に持たれて旅の男と絡み合う者も。飯盛り女といっても給仕だけじゃない、宿お抱えの遊女も兼ねたこの時代。
「あら、また立ち寄ってくれたのね。いつもの女、もうちょっとしたら手が空くからさ、一杯やって待ってておくんな」
この旅籠ほどの大店ともなれば常連客もいるようだ。
「こ、こらあ。ま、まて、ま…」
戯れに愛刀を取り上げて逃げ回る女郎を追い掛けるのは、女物の襦袢を羽織って上機嫌の蝦夷守。あばらの痛みはどこへやら、安酒片手に呂律が回らぬ様子。
「こら、お、おひおき、おしおきだっぞお」
ここには身分の差も何もない。平民もお殿様も楽しみ方に違いはない。女郎たちだって、何に恥じることもなく生きることを誇りに思いすべてを笑い飛ばす。
「ああ、生き返るね」
誰にも等しく優しい場所。憂鬱な世の中で唯一癒しのあふれるオアシス。
「ん、何たそがれてんだよ、お侍さん。ふふふ」
廊下を走り回る蝦夷守は、ふと、中庭の石に腰かけ、月を見上げる雅に気付き、声を掛けた。
「かっこいいじゃん、絵になるよあんた」
赤ら顔でフラフラ近づいて隣に座った蝦夷守の息の酒臭さに顔をしかめながら雅が言う。
「安酒なんか飲みやがって。ほら、こっち飲んでみろ、蓬莱泉だ。こいつは上等な酒」
「どれどれ」
杯どうし、カチンと合わせて笑い合う。
「乾杯っ」
「何に?」
「もちろん、この世の平和に」
「ホントに?」
「俺たち自身の、楽しい毎日にっ」
周りの喧騒はそのままに、月光が照らす二人の碧い影の周囲だけ静寂が訪れたような、そんな光景。
「気付いたら、長い付き合いになっちまったな。腐れ縁もいいとこだ」
もう一杯、と杯を差し出す蝦夷守。
「お前さんの酌で我慢しよう」
雅が眉をひそめながら酒を注ぐ。
「なんだ、嫌なら注がねえぞ」
「田舎女郎よりはマシだ」
「褒めてんだか貶してるんだか判んねえぞ」
怪訝そうな顔をしながらも雅が蝦夷守に酒を注ぐ。ぐっと飲み干す。
「しかし、お互いこんな風につるむようなガラじゃねえんだがな」
今度は、手酌で杯を満たそうとする雅から徳利を奪って「俺が注いでやる」とばかりに注ぎ返す。ふっと微笑んだ雅。
「変わらねえな、お前さん。昔っから」
雅の顔を覗き込んで、蝦夷守はニヤリと笑った。
「ん、ああ。昔っから俺の方が一枚上手だな、確かに」
胸を張る蝦夷守。雅はため息をついて首をかしげる。
「懲りねえなあ、そういうとこも相変わらずだ。もう一回勝負するか?」
ニヤニヤしながら刀の柄に手を掛けて見せる雅。
「前に死にかけたの忘れたか?」
ぐいっと杯を空にしたのち、さっと腰元の銃に手を伸ばす蝦夷守。
「おいおい話を曲げるなよ、命拾いしたのはお前さんの方だっつの」
「じゃあ今ここで…」
同時に目を合わせた二人。
「ふふ」
「はは」
「ふふふふ」
「がははは」
赤ら顔、そして笑顔の二人は庭先の草むらにゴロリと寝っ転がった。
「なあ、一刀彫の」
夜空を見上げながら蝦夷守が問うた。
「どうする、お前。戦いが終わったら。念願の平和の世の中でさ」
上体を起こしながら、雅が答えた。
「剣の道を究める、さ。旅に出てまだみぬ強豪と手合わせして…いつか故郷に戻って道場でも開くか」
愛刀・崇虎をやおら抜く。
「俺には、これしか無え」
月の光を映すふくらが淡く妖しく光る。蝦夷守が寝転がったまま言った。
「剣の事になると妙にクソ真面目だな、相変わらず」
「ん、ああ、そうかもな。この手で師を斬った時からそうさ。犯した罪を贖う為に一生を剣に捧げるって決めたんだよ」
「けっ、前にも訊いたぜその話はよ」
そうだったな、と頷く雅。己が刀の鎬筋をじっと見やりながら言った。
「この剣、いや俺自身、血で汚れきってる。手をいくら洗っても落ちることのない血の匂い。時々思うんだ、何時の間に俺はこんな風になっちまったんだ、ってな」
刀身の光は、まるで生き物のように雅の手の中でうねっている。
「もしかしたら俺は、血の匂いを振り払うがために、新たな血を求めているんじゃないか…」
雅の袖を引っ張り「もう一杯」と酒をねだりながら蝦夷守が言った。
「面倒くせえ考えしやがって。何のためでもいいじゃねえか。斬るべき相手がいて、斬りたいヤツもいる」
「まあな。守るために、誰かが手を汚さなきゃいけない時もあるってことだな」
「じゃあ俺たちこそ適任だ。汚れ役は汚れきった者に丁度いい」
「ふっ、そんなとこだな」
少し酔いが回ったか、雅もゴロリと寝ころんだ。見上げる月は少しばかり西に位置を変えた。
「さあ、もう一杯飲むか。こうも毎日死と向き合ってると、無性に生きてる実感が欲しくなるってもんだ」
ふと、夜半の月を黒い雲が隠すと、すうっと風が流れ込んできた。秋の匂い、そしてこの冷たさはまるで二人の酔いを覚まそうとしているようにも思える。
「あ、あれ。そう言えば、煤の野郎はどうした?」
もう一杯、と手酌の蝦夷守が笑い飛ばす。
「どうせ草子で調べたオススメ女郎かなんかとしけ込んでるんだろ、好きにさせとけっての」
煤は、繰り広げられる饗宴の最中、階下の手洗い場に足を向けた。
「酒のせいかな、やけに頭の皿が乾いちまうな…」
それが酒のせいだけでなく、どす黒い妖気のせいだと気付くのにそう時間は掛からなかった。
「お、おい…」
抵抗する余裕を与えられることなく、煤は黒服の一団に連行された。
「河童衆、王族の血を引く男…今では煤などと名乗り、下僕になり果てた男…」
遊郭街の外れ、お堀の傍にある大きな灯篭の陰がつくる死角。煤は黒服の一団に両脇を抱えられ身の自由を奪われた。
「誰だお前っ」
「まあ、覚えていないだろうがな」
首領格の男が煤に顔を近づけた。
「知るかお前みたいなやつ…」
首をひねる煤は、その男の胸の刺青の文様を見て顔を青ざめさせた。
「まさか…」
見覚えがある。いや、覚えているというより、嫌気がさすような記憶を呼び覚まされた、というべきか。
轟きわたる怒号、濛々と立ち込める黒煙、耳をつんざく悲鳴…幼子だった煤は恐怖に一歩も動けず、炎の中に立ち尽くすだけだった。目の前に現れ鋭い刃を喉元に突きつけてきた黒服の胸にチラリと見えた文様。
「黒の旅団…醜い残虐行為でその名を知られた…」
呟く煤、その喉に手を掛けぐいと締め上げる黒服の男。
「残虐行為ではない、聖戦と呼んでくれるか」
「俺たち一族を襲って皆殺しにしようとした、そんなのが聖戦だっていうのか」
「ああ、あれは革命だ。河童族の誇りを失い、人間と幻怪の飼い犬になり下がったお前の父親は国王として間違った選択をした」
煤が声を張り上げた。
「父さんのやり方は間違ってないっ、共生なくして平和なしだ」
「ふっ、平和を騙るお前の親父に殺された者、傷つけられた者の気持ちが解るか…?」
男は黒笠を脱いだ。鋭く赤い目、頬には深い傷あとが刻まれている。
「この傷こそが記憶、そしてこの胸の印こそが固い決意」
煤はゴクリと唾を呑みこんだ。
「し、しかし、噂は本当だったのか…河童原理主義者、アクラの息子が生きていたという」
「ああ。俺は父アクラの遺志を継ぐ者、ザヒム=ディ・ワンバ。我ら黒河童一族を苦しめた者どもへの復讐の聖戦は永遠に終わらぬ」
煤は首を横に振った。
「違う、違うぞ。憎しみの連鎖など悲しみしか生まぬ。過去ではなく、未来を生きねば…」
「過去の清算なくして未来は無い」
ワンバが煤の喉を掴む手にぐっと力を込めた。
「思い出せ、この世はもともと我ら河童族の手にあった。後からやってきた人間どもが我らを虐殺し住処を奪った。弄ばれて見世物にされた者もいるっ」
「…うう」
「人間が闇雲に刃を向けた相手は我々だけじゃない。木々や動物、精霊たち、果ては山や川まで切り崩す。人間たちは幻怪の庇護をいいことにこの世を蹂躙しつくそうとしているじゃないか」
ワンバは強い口調で言った。その赤い目に煤は思わず吸い込まれそうになる。
「た、たしかに…」
さらにワンバが声高に叫ぶ。
「お前の親父は、共生という名の下に人間たちに魂を売った。地下水脈に逃げ込み扉を閉ざし、残った我らを見捨てた。その間違いは今すぐ正されるべきこと、いいか」
ワンバは煤の両肩をぐっと掴んだ。
「俺の目を見ろ」
真っ赤な目がギラリと光った。ふうっと魂が抜き取られる様な感覚に襲われる。
「あ、あああ…」
つづく




