我が名は恐怖、閻魔卿
遠くからかすかに漏れ聞こえる、呻きとも叫びともつかない不気味な声がこだまする。
どこまでもどこまでも続く闇。見上げても星一つ無い静寂がその闇をより深いものに感じさせている。唯一の色彩は、切り立った崖の下を流れる赤黒い溶岩の鈍い光。時折煮えたぎった表面でオレンジ色の泡がはじけ、飛び散った滴で岩が溶ける煙がところどころ立ち昇っている。むせ返るような湿気と暑さの中、橋を渡ってゆく巨大なオニたちが見える。鎖でつないだ人間を引きずりながら。
ここは冥府。地の底に封印された限りなき暗黒の世界。
「親方さま、捕えた人間どもを連れて参りました」
ひざまずいて報告するオニの言葉を遮るように、艶のある低い声が響き渡る。
「何度も言わせるな。親方さまじゃない。閻魔卿、と呼べ」
この男こそ閻魔卿。丈の長い真っ黒のマントをひるがえし振り返るや、オニの耳元で小さくつぶやいた。
「よいか、ここで俺の機嫌を損ねることは、死を意味する」
オニでさえ震えるほどの圧倒的な支配力。焼けただれたような赤い不規則な文様が波打つ閻魔卿の顔を目にする頃、囚われし人間たちの恐怖は絶望に変わる。大きく見開いた真っ赤に光る眼球に吸い込まれそうになりながら、鋭く大きな牙の光る裂けた唇から最期の選択を迫られるのだ。
「おい、人間。我が家畜となるか?」
うすら笑いを浮かべながら尋ねる閻魔卿に対し、その人間は強い意志を鋭い目にうかがわせながらキッパリと答えた。
「断る。お前ごときの奴隷になどはなりはせぬ」
一呼吸おいたのち、カッと赤い眼を見開いた閻魔卿は側近のオニを見やると、黒光りする右手で首を狩る仕草をして見せた。指示を受けたオニは、その人間の男を軽々と持ち上げ、側を流れる溶岩の川辺に連れて行った。男は逆さ吊りにされ、ゆっくりと頭から溶岩に沈んでゆく。
「う。うあああっ」
断末魔の叫びは溶岩の灼熱にかき消され、生臭い匂いを漂わせる煙が辺りに広がる。目の前で繰り広げられる残忍な光景を目の当たりにして、囚われの人間達の幾人かは激しく嘔吐している。吊るされた男の腰までが完全に溶岩に浸かった時、閻魔卿が声を発した。
「待て、そこで止めろ。残りは我が番犬のエサだ」
閻魔卿の口笛に駆け寄ってきたのは竜の尾と蛇の髭を持つ巨大な三つ首の獰猛な犬たち。西洋では「ケルベロス」とも呼ばれる地獄の番犬だ。投げられたエサに激しく食らいつき取り合いを始めれば、ちっぽけな人間の下半身が猛獣たちの胃袋の中に収まるまでに一分とかからなかった。猛獣たちの食事風景を満足そうに眺めていた閻魔卿は、その不敵な笑みを浮かべたまま、残りの人間たちに詰め寄り尋ねた。
「拒んだものの運命は、かの如く。さあ、改めて聞こう、人間たち。我が家畜となるか?」
目の前で繰り広げられた惨劇に茫然自失の人間たちは全員が涙を流しながら、声にならない声で答えた。
「はい、家畜に…なります」
側近のオニが一人ずつ、囚われの人間の頭を鷲掴みにして閻魔卿の前まで引きずっていく。首根っこをがっしりと掴まれた囚われの男はその顔を閻魔卿の眼前に。オニがその手を男の下唇にかけ一気に引き下ろすと、ガクッと鈍い音とともに顎が外される。
「があっ」
血と涎が滴り落ちる。囚われの人間は、恐怖と痛みと絶望でもはや正気ではいられない。
「ははは」
まるでオモチャを弄ぶようなひきつった笑みを浮かべながら、閻魔卿はダラリと開かれた男の口に手をねじこみ、舌をがっしりと掴んだ。
「感じるぞ、お前を。お前の絶望を」
閻魔卿は顔を近づけ、自らの口を開き息を吸い込んだ。男の口からは緑がかった黒い湯気のようなものがゆらりと吐き出される。
「これが『恐怖』だ。そして『恨み』『怒り』『悲しみ』だ。これこそが我が力の素よ」
閻魔卿はその「精気」をひゅうっ、と吸い込んでゴクリと呑みこんだ。その瞬間、男はブルブルっと痙攣し、一瞬にして老人のような姿に変わり果ててしまった。焦点の定まらなくなった眼はまばたきさえ忘れ何を見ているのだろうか。
「ふっ、まだまだ痛ぶってやれ。もっともっと『恐怖』を吸い取るのだ」
閻魔卿に精気を吸い取られた挙句、さらに舌を引き抜かれるという仕打ちが待っている囚われの人間たちの苦しみはまだ終わらない。彼らは収容所に連れて行かれ、それぞれ針の山で体中を刺されたり、煮えたぎる釜の中に放り込まれたり、檻の中で体中を餓鬼にかじり食べられたりする過程を通じてオニ達に「恐怖」や「悲しみ」を吸い取られるのである。この収穫は永遠に続く。「じごく」が「地国」ではなく「地獄」と呼ばれるゆえんである。その地獄に程近い冥府の最深部に暗黒帝国の本部とも言うべき「暗黒の間」が存在する。
「閻魔卿、ヌラリヒョン閣下が来ておりますが」
「通せ」
つづく