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小説幻怪伝  作者: 蝦夷 漫筆
交わることの無き道
50/122

災いもたらす血の花火

 ぽたり、ぽたり。一滴、また一滴。足元に落ちる汗の玉。

 幻怪戦士の花魁・悦花えっかは中腰で両腕を前に構える悦花は微動だにせず、目を閉じている。

 この夏の暑さ、「猛暑」などという言葉では言い尽くせない感がある。


 「ふうう」

 呼吸を整える。

 全身の研ぎ澄まされた神経は、身体中のエネルギーを振動波に換え丹田に集める。集中力か、否、目に見えない程のスピードで全身の細胞が微振動しているのか。足元には汗の水溜りが出来ている。

 「むううっ」

 今度はそのエネルギーを両肩から腕、そして掌へ。か細い指先がほんのりと光を帯び、その隙間には細かい電光が飛び交っている。

 「今だっ」

 呼吸と心拍、両掌のエネルギーの波動が一致した瞬間を狙って何かを絞り出すように力を込める。腹の底から鳴り響く野太い声とともに。

 「ハッ」

 悦花の両掌がにわかに眩しい光を帯びた。集められたエネルギーは両掌から塊となって放出され空気を切り裂きながら、摩擦がつくる光の尾を残して真っ直ぐ進む。

 飛び出した波動弾は、三間ほど向こうに置かれた大きな瓶を粉々に打ち砕いた。

 


 挿絵(By みてみん)



 悦花の訓練の様子を、洋造りの藤の椅子に腰かけて観ていた幻翁げんのおきなが言う。

 「ふむ…ずいぶん乱れは消えてきたな。だが、まだ勢いに頼る傾向がある」

 何処にでもいそうな好々爺然としている幻翁。物腰は柔らか。

 「もっと冷静になった方が良いようじゃな、ふふふ」

 だがかつては、暗黒の妖怪たちの襲来を退けた伝説の幻怪戦士で会ったと云う。その言葉には、実戦の修羅場をくぐり抜けた重みがある。

 「あ、あと一つ。己の力だけで物事を為そうとするのは良くないぞ」

 首を傾げる悦花。

 「え、えっと…どういう事でしょうか…?」

 幻翁は手製の杯に自ら淹れた薬草茶をすすりながら答えた。

 「自身の気の力には限界がある。肉体に頼ればすなわち、肉体の限界が壁となる。波動はお前の肉体にあるものだけではない」

 「…?」

 説くように幻翁。

 「波動すなわち森羅万象。物質は肉体という殻に閉じ込められているが、波動はそれを越えて行き来できる。体内の波動を外界、つまり空気、日の光、水、土、花。それらと同期させ引き出す、取り込むのじゃ」

 「引き出して…取り込む…」

 「ああ、この世の自然は無限の波動力の源。それを集め操り共鳴させれば、とてつもない大きな力に換えることが出来る。わかるか?」

 「は、はあ…」

 まだ怪訝そうな顔をしている悦花に向かってニヤッと笑った幻翁はフッと目を閉じた。立ち上がり、先ほど悦花が破壊した大きな瓶の方に両手を向けた。

 「さあ、見ておれ」

 幻翁の両手の指から糸の様な光の筋が幾本も伸び、割れた瓶の破片を包む。やがてカタカタと震えながら瓶の破片はゆっくりと一箇所に集まりパズルのように組み合わさって、割れ目が溶けるように接着された。

 「あ、ああっ」

 驚いて声を上げる悦花の目の前で、割れた瓶は元通りの姿に戻った。

 「こ、これが波動の力…」

 「波動はこの世のすべてを形作る素。粒子を動かし元の配列に直してやれば、こんな芸当も出来るというわけだ。なにも力任せにぶっ壊すだけが波動の力じゃない」

 「この世の全てを形作るのが…波動?」

 「ああ、全てのモノは目に見えぬ小さなヒモの様なものの振動、すなわち波動から出来ている。ひとつひとつの力は小さいが、まとめて操れば、ほらっ」

 小さな老人はサッと身軽に天井まで飛び上がり、梁にぶら下がったかと思ったら、クルクルッと空中で二回ほど宙返りして難なく着地してみせた。

 「かくの如し。重力も、さらに時間も意のままになる、というわけだ」

 「す、すごい…」

 呆気にとられて口を開けたままの悦花。

 幻翁はニヤリと笑った。

 「特殊能力などではない。自然の、物事の摂理法則にすでにこの力が組み込まれておる。たとえば音は、壁を容易に通り抜ける。なぜか、それは音が波動だからじゃ。ものの全てが波動ならば我らの身体も波動そのもの。ならば越えられぬ壁などない」

 「でもそんな法則なんて言っても…難し過ぎて」

 「考えるから難しいのじゃ。なぜ音が聞こえるのか、考えずとも音は聞こえる。同じじゃよ。考えるでない、感じるのじゃ。身体で覚えよ」

 ゆっくりと頷き、目を閉じてスーッと大きく息を吸い込む悦花。確かに何かを感じる。指、そして足、爪の先から、そして毛の一本一本から細かな振動が伝わってくる。

 「ふううううっ」

 ゆっくりとその振動は身体の中で光となって中心に集まってくる。心臓の鼓動に同期するように光が脈打って大きくなる。

 「そう、そうじゃ」

 見ている幻翁も拳を握る。うっすらと悦花の全身が光を帯びてきた。屋敷の中の様々な物がカタカタと震えだした。

 「あ、あうっ、ううっ」

 だがどんどん速くなる鼓動は光の脈動を越えてコントロール出来ない程に。

 「むう、ううう、うああっ」

 歯を食いしばる悦花、しかしその瞬間に体内に感じた光は引き裂かれぽっかりと真ん中に真っ黒く渦巻く穴が開いたようになった。気を失いそうなほどの湧き上がる力を感じながらその穴に吸い込まれてゆく。ほどなく四肢が引き裂かれるような灼熱感に襲われた。

 「ぶああっ」

 雷に撃たれたように全身を痙攣させながら火花を散らして悦花は自ら後ろに吹っ飛んで倒れ込んだ。周りのあらゆる物が黒煙をシューシューと吹き上げている。小さな皿や湯飲みなどはドロドロと融解してしまった。

 「えっ、えっ」

 何が起こったかわからずうろたえる悦花を見ながら、幻翁は一つため息をついた後に言った。

 「だから言ったであろう、勢いに頼るな、と。波動はうまく共鳴させれば大きな振幅となってとてつもない力を発揮するが、統制できなければ波の干渉が起き打ち消しあう。さらに一歩間違えれば波動の位相が逆転する、すなわち…」

 穏やかな幻翁の目が鋭く光った。

 「闇の力に転じてしまう。さっきのお前がそれじゃ」

 「や、闇の力…それにしても凄い力…」

 「ああ、一見かくの如く強力、ゆえにその力に溺れやすい。だが闇の力は制御不能、陥ったら後戻りできぬ。見ろ」

 溶けた茶碗を戻そうと幻翁が掌をかざして光の波動を浴びせても、直るどころかますます黒煙を吹き上げながら融解して消滅してしまった。

 「干渉による波動の消失、これすなわち物体の完全なる消滅。闇の力は破壊への一本道なのじゃ」

 悦花は未だ視界が仄暗くよどんでいた。しきりに目をキョロキョロさせるその姿に気付いた幻翁が、あちこちから黒い妖気を噴き出したままの悦花のみぞおちの辺りに掌をかざす。

 「さあ、腹に力を込めて」

 ドシン、と一つ大きな波動を打ちこんだ。

 「ぐ、ぐふっ」

 脳天から爪先まで、さらに内臓まではじけそうな電撃痛に二、三度全身をびくつかせると、悦花から出る妖気は蒸発したように消え去った。視界も明るく、光が戻って来た。指先はまだ震えがとまらない。

 「こ、こんな恐ろしい力…」

 「ああ。人間と違って幻怪と呼ばれる生き物は波動の振幅が大きい、それゆえ闇に転じた時の破壊力も凄まじいのじゃ。なあ悦花、お前の中に流れる幻怪の血はとくに、波動の力が大きい。心して修行せねばならん」

 大きな瞳を潤ませながら、悦花はゆっくりと頷いた。

 表情の緊張の解けた幻翁はフウと息をもらすと、やや目をしかめながらその場に座り込んだ。よく見ると額から顔、着物に染みが出来るほどにびっしょりと汗をかいている。

 「お、翁っ。大丈夫ですかっ」

 思わず駆け寄った悦花が肩に掛けた手を、やんわりと払いながら幻翁は言った。

 「なんの心配無用じゃ。しかし老いたものよ。これしきの事は造作も無かったんじゃが…」

 言葉と裏腹にゼエゼエと肩で息をしている。顔面は蒼白。悦花が棚から薬草を取り出し茶を淹れて幻翁に手渡す。

 「はい、翁。こんな小さな体であれだけの力を出すんだからそりゃ若くたって堪えますって」

 「おお、すまんのう。いや身体の大きさは無関係じゃぞ。己の身体は自然の力を受ける器であるによってな。だがその器もいつしかところどころ欠け、ヒビも入るというものよ。情けないのう」

 肩を揉む仕草の悦花。

 「ふうん。もう千年以上生きてるんだっけ、翁。それでも永遠ってわけじゃないのね」

 「はは、当たり前じゃよ。物事のすべては流転する。始まりがあれば終わりがある。それはこの大宇宙とて同じ事」

 「そうか…なんだかちょっぴり寂しい感じね」

 「寂しい?ああそういった感情も波動。感情は大事だが、流されたり我を失ってはいかん。平常心のままに、そういった心の動きをうまく力に変えねば…」

 「もう、翁はなんでもかんでも修行に結びつけるんだから」

 翁の肩を揉む手にギュッと強く力を込めた悦花。幻翁は苦笑いしている。

 「まあ、それが師匠というものじゃよ」


 「師匠、と言えば…」

 悦花がふと真顔で尋ねた。

 「翁は私の父さんの師匠だったのよね…?」

 どうしても、その顔さえ見たことのない両親のことが気になって仕方がない悦花は矢継ぎ早に問いかける。

 「どんな感じだったの、一緒に戦ったんでしょ妖怪たちと。お母さんも一緒だったの、どんな顔だったの、背はどのくらい?あと…」

 「またその話かい」

 やれやれと苦い顔の幻翁。まるで布団にくるまって寝る前のお伽噺を聞かせて貰うかのように目を輝かせている悦花を見て「しょうがないなあ」という表情を浮かべる。

 「そりゃあひどい戦乱だったさ、ああ。残忍な妖怪たちと幻怪たち、永遠に戦い続けるんじゃないかってくらいにな」

 ゆっくりと立ち上がった幻翁は濃いめに薬草の茶を淹れながら話した。

 「幻界大戦げんかいのおおいくさ、もう今となっては絵草子の中のお伽噺じゃがな。もう毎日が命のやり取り、さ。お前の父親は強かった。とんでもなく強い戦士だった。勇敢で恐れを知らず…ああ、無鉄砲なところなんざお前さんにそっくりじゃよ」

 「ふうん、父さんが、ねえ」

 柔らかな笑顔を見せる悦花、それを見て幻翁の顔も心なしか緩んでいるように見える。

 「一番大変だったのは酒呑童子の軍勢とやりあった時だ。こちらの作戦が筒抜けで挟み撃ちの奇襲を受けたときはもうダメかと思ったさ。そうそう、琉球での戦いも壮絶だった…」

 いつしか昔話を語る幻翁は饒舌に。悦花も思わず身を乗り出す。

 「へえ、そんなに激しく」

 「いやもっと凄かったのは幻界の湖畔での奇襲じゃよ、わしもあいつもその時『願いの破片』を持つことを許されておったしな。今の若い連中に見せてやりたいくらいだ」

 夢や希望、理想を胸に生き生きと戦乱の世を闊歩していた若き日の幻翁、そして自分の父親。想像を膨らませればそこに使命感と生きる意味がハッキリと存在する世界が広がる。

 世の中は平和が一番いいに決まってる。だが、無数の犠牲を強いた上に命の意味さえ軽く思える「平和」なるものに安穏と腰掛けたまま、疑問さえ抱かぬ時代の生きざまが妙に薄っぺらくも思えた。

 「ええ、是非見てみたいわ。ほら、波動の力とかで何か見せてくれる術とか無いの?」

 「はは、流石にそれは無理というものじゃ。幻魔鏡という伝説の鏡があればそれも可能だろうがな、まあわしもお目にかかったことのない代物じゃ」

 「そっかあ、会ってみたいなあ、父さん。おっきな背中だったのかな。もし生きてたら、翁みたく厳しくって、私いっぱい怒られたりするのかな」

 「まあ硬派で生真面目な男じゃったからなあ。しかし、いつのまにかぬえ姫と恋仲になっていたとはな。ちゃっかりしてやがる」

 「鵺…お母さん、ね」

 「ああ、そうじゃ。美しい人間の娘じゃったが素晴らしい潜在能力の持ち主でな。幻界に呼び寄せられ、鍛え上げられ有能な女戦士となった。もう大戦末期の頃のこと」

 少し、幻翁の顔が曇った。

 「戦乱が二人を結びつけ、同時に戦乱が二人を引き裂いた…」

 悦花はうな垂れた。

 「そんな…」

 「出会いも別れも、それはいつの世も己の力だけではない、何かが呼び込むもの。それは運命と呼ぶもの」

 黙って唇を噛みしめる悦花。幻翁がその肩を叩いて言った。

 「その戦乱の運命の下に命を授かり、お前は今また戦乱に立ち向かう。これは宿命と呼ぶもの」

 「ええ、そうね…」

 小さく、だがしっかりと悦花は頷いた。宿命を背負うものの真上で今、運命の歯車が少しずつだが確実に噛み合って自分と世界を動かしてゆく。そんな漠然としたイメージがぼんやりとだが見えてくる。


 気付けば辺りはもう暗くなっていた。夏の夜の独特の匂いを風が運んでくる。風鈴の音がまるで運命の鐘のように聞こえてくる。

 「ああ、そうか今日は」

 立ち上がった幻翁は窓から長良川のほとりを見下ろした。たくさんの提灯に火が灯され人々の賑いが聞こえてくるようだ。

 「見てみなよ、今年もずいぶんキレイじゃないか」

 ドーン、ドーンという音を周囲の山にこだまさせながら藍色の空に極彩色の光が大輪の花を咲かせる。恒例、水無月の花火の饗宴。

 「ああ、素敵ね」

 悦花も立ち上がる。賑やかな音に誘われ屋敷を出た二人は百々ヶ峰の南の崖の上に立ち、夜空に描かれる光の輪に見入った。河川敷に並んだ地元の名産品の屋台、そして浴衣姿の人々。

 「美しいものを美しいと思えるうちは、心も美しい。そういうことじゃな」

 大きな川の水面に映る花火の煌めきに思わず目を奪われる。

 腹に響く花火の音。地鳴りのように山麓の屋敷にまで振動が伝わる。

 「ん?」

 いや、明らかに今までと違う爆裂音。明らかに違う軌道。バリバリと空気を引き裂く音は次第に大きくなる。赤みを帯びた光球の一つがみるみる大きくなって近づいてくる。

 「えっ」

 「こっちに向かってくるっ」

 二人は咄嗟に身を伏せた。

 「そんなっ」

 光球は屋敷に着弾、大きな破裂音とともに粉々に砕いて火柱を上げた。屋敷の中にいたらどうなっていたか考えるのもゾッとする。

 「花火じゃないっ、爆裂弾じゃ」

 この一発だけではなかった。次々に打ちあげられる河原の花火の音に紛れるように、次々と幻翁の住む百々ヶ峰に向かって砲弾が撃ちこまれている。

 「ね、狙われてるっ」

 麓に何かうごめいている。火花を背に浮かび上がったその無数の影から今度は火矢が飛んできた。ヒュウヒュウという風切り音の奏でる不協和音が妙に不安をかき立てる。

 「火の手がっ」

 乾いた夏の夜の風が炎を煽る。あっと言う間に山の中腹は猛火に包まれた。

 「何、いったい何なの?」

 悦花、そして幻翁は焼け出されるように崖っぷちへ。両掌を前にかざす。

 「忌々しいっ」

 どんどん撃ちこまれる火矢と砲弾を、悦花と幻翁の掌から飛び出す波動弾が粉砕する。

 「こりゃキリがない、どれだけ撃ちこめば気が済むんだっ」

 幻翁が叫んだ瞬間、大きく地面が揺れた。いや正確には彼らが立っている崖が激しく揺れた。

 「ぐああっ」

 一発の砲弾が彼らの立つ崖を直撃した。チャートの岩盤は細かな火花を散らしながら一気にバラバラに砕け、燃え盛る木々とともに崩落してゆく。

 「あっ、ああっ」

 急に失われた足元の支え。身体の芯を風が突き抜けていくようだ。悦花はがむしゃらに手を伸ばす。どちらが上でどちらが下か、落下してゆく無重力の中では容易に判別できない。景色がぐるぐると回り光が交錯する。

 「落ちるっ、落ちるううっ」

 血の気が引く中、ふと胸元にキラリと光るものが見えた。燃えさかる火を反射して懐から顔を出した大煙管。今は亡き恩師、ひじりの君から授かった形見の武器。

 「ふんっ」

 反射的に握って目の前の崖の岩肌に突き刺す。だがすでに亀裂の入った岩盤は思ったよりも脆く、突き立てた煙管が岩を左右に裂きながらそれでも落下は止まらない。

 「ここで終わってたまるかあっ」

 煙管が光を放つ。窮地にして冷静、悦花は全身の波動を大煙管から岩盤に送り込んだ。制止する岩の崩落、そして悦花。だが高い崖の中ほどでたった一本の煙管にすがるようにぶら下がっているという危機的な状況に変わりは無い。

 「くっ…」

 眼下の街道は毛糸ほどの細さに見える。先程の波動で力を使い果たしたのか、もはやぶら下がる手は震えている。足を伸ばそうにも傾斜のきつい苔生した岩肌は支えにもなりそうにない。思わず天を仰ぐと崖の上から物騒な声が聞こえてくる。

 「見つかったか」

 「いや、ここにはいない」

 「落ちたやも知れぬ」

 闇夜に黒装束。月の光を逆光に崖から覗きこむ視線は計ることが出来ないが、間違いなく自分を探している。疲労が、汗が、大煙管を握る手を離させようとする中、息を殺して耐えるしかないのか。

 「おい、いたぞっ」

 大きな声が耳に届いた。ついに見つかってしまったのか。

 「くっ…」

 だが崖の上から聞こえる声は少し遠のいていった。

 「いたぞ、ジジイの方だ。手間かけさせやがって」

 「ふっ、老いぼれめ」

 思わず叫びそうになった悦花だが、こらえるより他は無い。どうやら幻翁は捕えられてしまったようだ。どうする、どうすればいいのだ。

 「あと一人、いるはずだが…」

 「どうやら崖から落ちたようだ。さすがにこの高さではいくら人外といえど助かるまい」

 黒装束の男たちの怒号はやがて遠ざかり消え去った。喧騒の後には息詰まるような静寂と孤独が残された。切り立った崖に刺さる大煙管を握る手は徐々にしびれ感覚が失われてゆく。満点の星空は黙して何も語らない。

 「力が欲しい、もっと力が…」

 どれほど時間が経ったのだろう。もう指がしなう煙管の先端に引っかかっているに過ぎない。月を覆ってゆく黒雲は絶望の暗示か。遠い星空を見上げる悦花の目には涙が溜まっていた。

 「父さん、母さん…運命って一体なんなの…」

 見た事もない両親の顔を夜空に描いてみる。ああ、嘘でも構わない。悦花が理想と思い抱く父母を、温かく幸せな日々に身をゆだねる時がわずかばかりあっても罰は当たらないじゃないか。

 「ああ、あああ」

 指先の力さえ抜けてゆく…その時、夜空に描いた父親の顔が、悦花に語りかけた。

 「おい、しっかりしろ、おいっ」

 「えっ」

 ガッチリとした手が伸びてきて、悦花の腕をぐいと掴んだ。悦花の潤んだ目は、まだ虚ろに夜空に語りかけている。

 「と、父さん…?」

 「おい、しっかりしろって、ほら」

 悦花を抱え上げながら、片方の手で軽くその頬を叩いた男。悦花が夜空に描いた虚構の父親に重なるように、その男の顔が次第に現実のものになっていった。

 「あ、あっ。あなた…」

 黒装束の覆面の隙間からのぞく優しげな目。節ばった腕が片方に悦花の身体を、もう一方が命綱を支えている。

 「ちょっと苦しいかもしれないが我慢して下さい」

 自分と悦花を縄でくくり付け、命綱をつたって、時々足袋の先から飛び出た金属製の棘を岩盤に突き立てながら崖を上ってゆく。

 「あなたは、あの時の…」

 その目が、匂いが、感触が覚えていた。阿波で出会った男、柳生鴎楽やぎゅうおうらくであると悦花はすぐにわかった。

 「ど、どうして…」

 「何も言わないで」

 

つづく

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