仲間を探して
川のあちこちから誘うような声が聞こえる。「ヤロカヤロカ…」その不気味な声をかき消すように、葉月の夕立と云うにはあまりの大雨。
暑い日々が続くこの時期には雨は天の恵み、しかし過ぎたるはなんとやら。木曽川は溢れんばかりの勢いに。
「この声…」
目を光らせたのは夫羅。
幻翁の密偵、そして幻怪衆の世話役でもある。使用人の政吉と、娘の仁美を連れだって海部の郡へ。
「気をつけろよ」
激しい濁流の上、ギシギシ揺れる橋の上を一歩一歩、向こう岸を目指す。
「ええ、気をつけなきゃ流されちゃう」
こわごわ足を繰り出す仁美はまだ数えの十二。幼い割りにはしっかりしたもの言い。だが父親の夫羅の懸念はそこでは無かった。
「いや、俺が気をつけろと言ったのは川にいる妖怪だ」
旅笠からボトボトと大きな雨粒が垂れ落ちる。
「ヤロカヤロカ…」
まだ聞こえる。
「ふんっ、人間がみな欲深いと思ったら大間違いだぞっ」
ブツブツ言う夫羅。
彼が恐れているのはこの地方で増水の際に出現する川の妖怪「ヤロカ水」である。道行く人々に「ヤロカ、ヤロカ」と声をかけるモノノケはこの地方に古くから棲む。
「いいか、絶対に、絶対に『あれ』を言ってはいかんぞ」
じっと川を見ると、その水面に幾つもの赤い目が妖しく光っていた。
「ああ、絶対に言っちゃだめだ。あの言葉だけは言っちゃいかんぞ、いいか」
言葉を途切れさせるほどの大雨の中、夫羅に手を引かれる旅装束の仁美が大声で父親に言った。
「念押しもほどほどにしてよ。何度も言われると逆に、つい喋っちゃいそうになる」
「だから油断は禁物、あの言葉はいかん、あの言葉は…」
二人の後をついて歩く政吉は、親娘を微笑ましそうに見ながら言った。
「そうですよ、絶対にだめです。いいですか、禁句はヨコサバヨコ…うぐっ、ぐあっ」
怒りの形相で振り向いた夫羅と仁美が政吉の口をがっちりと塞いだ。
「お前ってやつは」
「し、失礼…」
雨だか冷や汗だか、いずれにしろびしょ濡れの政吉。彼が思わず発しかけた「あの禁句」とは「ヨコサバヨコセ」これは「ヤロカヤロカ」と対になって、道行く人々の欲につけこむ妖怪の文字通り誘い水。
「な、仁美。昔っから言うだろ、知らない人がモノをくれるといっても断らなきゃダメだ、ってな」
木曽川に棲む妖怪「ヤロカ水」は、増水に乗じて出現し「ヤロカヤロカ」つまり「くれてやろうか?」と声をかける。うっかりとその声に反応して「ああ、くれるなら頂戴」つまり「ヨコサバヨコセ」と言おうものならたちまち酷い目に遭う。
「たった一晩、一晩で全滅して消えた村もあるって話だ」
ヤロカ水は「ヨコサバヨコセ」の声に反応して「欲しいなら幾らでもくれてやるわっ」と大量の水を人に浴びせる。欲に比例し水は増え、最悪は大洪水にまで至ると云う恐ろしい妖怪。
「怖いわね、ホント」
ぎゅっと父親の袂にすがりつく仁美。
「川の妖怪が、みんなすうちゃんみたいな優しいお友達だったらいいのに…」
無邪気な娘の一言にため息が出る。
「なんでみんな、大人は争ってばかりなんだろ…」
実際世の中とは、欲と欲のぶつかり合い。その修羅場に強く生きねばならないと、いつかこの幼子も気付く日が来るのだろう。橋を無事渡り終えると、夫羅は雨で緩んだ仁美の草鞋の紐を結び直してやりながら言い聞かせた。
「誰も争いたくて争っているんじゃないんだ。だが生きるってことは常に誰かに犠牲を強いること。俺はお前を犠牲にしたくはないから、襲ってくるヤツを退治しなきゃならない」
「う、ううん…」
もしかしたら大人でさえ出せない答えかも知れない。
「ともあれ、今は俺たち人間全員を抹殺しようと企んでる妖怪たちが力を増しているんだ。平和を守るために、戦う。残念だが戦わずして死んでゆくのを指をくわえてみているわけにはいかないんだ」
「そうね…」
三人は夕立ちをやり過ごそうと、中般若村から少し下った街道沿いの茶屋に立ち寄った。とびきり甘い三喜羅まんじゅうに下鼓を打つ。
「今から行くとこに、その戦う仲間がいるわけね」
お茶をすすって元気の回復した仁美が夫羅に尋ねた。にっこり笑って答える。
「ああ、津島の港に住む剣術使いに会いに行く。妖怪を斬るという伝説の刀を持った男に、な」
幻翁の指導のもと、妖怪たち暗黒帝国の侵略を阻もうとする幻怪衆は、閻魔卿の「暗黒の怨球」に対抗して「願いの破片」を集めるとともに、妖怪退治に協力してくれる仲間を探して奔走していた。
「さあ、もうすぐだ」
海部の郡、津島。雨上がりの尾張平野、その西の空に大きな半円を描き出した七色の線。
「うわあキレイね。あんな鮮やかな虹、初めて見たわ」
夏空の美しいグラデーション。美しい自然はいつも純粋な心を思い出させてくれる。その隣で微笑む夫羅に、政吉が話しかけた。
「どんどん聡明になられて先が楽しみな娘さんですね。ゆくゆくは立派な戦士に…」
ポカリ、と政吉の頭を叩く夫羅。
「あほっ、あの子は戦士になんかさせん。当たり前に女として幸せに一生暮らさせるんだ。今だって好んであいつを引きまわしてるんじゃない。一人にゃ出来ないから」
パンと手を打つ政吉が笑顔で声を上げた。
「確かにっ。残念ながらお母さまが…」
再び頭をポカリとやられた政吉は頭を抱えてシュンとした。怒鳴る夫羅。
「もうお前は黙ってろ。その減らず口を閉じて道中の確認でもせいっ」
肩をすくめて地図を開く政吉。
「ええっと、これが天王川だから、この先が佐屋川。ああ、津島の港はこの方向、もうすぐっスよ」
歩を進める三人。少しずつ日が傾いてきた。
「あっ、可愛いっ」
仁美が佐屋川のほとりにしゃがみこんだ。何匹ものメダカが群れをなして泳いでいる姿に見入っている。
「ほら、見て」
袖を引かれた政吉が隣にしゃがんだ。楽しそうに川を自由に泳ぐメダカ。それを眺める仁美も楽しそう。
「人間も妖怪も、こんな風にみんなで仲良く過ごせればなあ」
「そうだね」
「悦花おねいちゃんみたいに、悪いヤツと戦うっていうのもかっこいいなあ」
「えっ、仁美ちゃんが?」
「うふふ、お父さんには内緒ね。こんなこと言ったら絶対怒られちゃう」
ふと、日が陰った。空を見上げる仁美と政吉。夫羅は土手の上で地図とにらめっこしている。
「あれっ」
川のメダカが見えなくなったのは曇って川底が暗くなったからではない。
「ちょ、ちょっ…」
メダカが慌てて逃げ出した川に、にわかに黒ずんだ泡が噴き出した。
「と、とうさん…ああっ」
思わず上げた悲鳴に気付いた夫羅、恐ろしい光景に肝を冷やした。
「た、助けてえっ」
川から半身を露わにした巨体のオニが、仁美の足をガッシリと掴んで水の中に引きずり込もうとしている。救出に飛び出した政吉はオニの頭突きをくらってあえなく倒れ込んだ。
「外道め」
夫羅はギラリと目を光らせ、ぐいと腰をかがめた。懐から取り出したのは匕首。その柄にサッと鋼弦を巻き付けるとオニめがけて思いっきり投げつけた。
「まだ腕は衰えちゃいねえぜ」
狙いを外すことなく、仁美を川に引きずり込もうとするオニの左腕に匕首が深く突き刺さった。
「ぐああっ」
けたたましく響くオニの悲鳴。顔色を変えずに夫羅はすかさず手元の鋼弦をぐいと引っ張り上げで再び振り下ろす。今度はオニの右腕を掻き切った。
「妖怪斬りの匕首の切れ味、思い知ったか」
鋼弦をくいっと引っ張ると、オニの両腕を見事に切り落とした匕首が真っ直ぐに引かれて夫羅の手元に収まった。
「大丈夫かっ」
仁美の元に駆けつけた夫羅。川の中から娘を引き上げて抱き上げると、倒れて気を失っている政吉の顔を数回張って叩き起こした。
「まだ来るぞ、お前も構えろ」
修行中だが政吉は夫羅の弟子。両手に鋼弦を持ち構え、辺りを見回す。
「なにいっ」
一斉に川の中からたくさんのオニが飛び出した。大きな棘の生えた金棒を抱えてジリジリと三人に詰め寄る。
「ぐふふ、今日も獲物にありつけるぞ」
薄笑いを浮かべながらにじりよる巨体のオニたち。夫羅は低い声で言った。
「ほう。だがお前ら、今日は相手が悪いぞ」
オニが振りおろしてきた金棒に匕首を合わせる。ガキンという鈍い音。仁美の頭をぐっと抑えてその場にうずくまらせ自分の身を前に出してかばいながら、オニの腹を蹴り上げた。
「ぐうっ」
ひるむオニの首元めがけて匕首が飛ぶ。グサリという音とともに真っ黒い血液が吹き上がった。
「目をつぶってろ」
仁美にそう告げると夫羅は鋼弦の先を持って匕首を自由自在に振り回す。三人を取り囲むオニの円がさっと広がる。
「トロいんだよ、木偶の坊のオニどもめ」
予想以上に素早く宙を舞う夫羅の匕首が、ぐるりとオニが囲む円に沿って一周すると、次々に黒い飛沫を上げながら一つ、また一つとオニの首が地面に落ちてゆく。
「俺だってっ」
政吉は鋼弦をオニに投げつけ、足元に絡みつかせて次々に引き倒してゆく。
「さあ、そろそろお遊びもお終いにしようか」
川の水面が急に盛り上がった。ザザーッという音とともに出現したのはトカゲのような顔をした武士の怪物。滴る水を一気に蒸発させるほどの素早さで近づき、長い刀を一閃。夫羅と政吉の鋼弦をたちまち断ち切った。
「お前っ」
ピンと張った鋼弦を切られてバランスを崩して倒れ込んだ夫羅の目の前にトカゲの侍が立ちすくんでいた。
「大守宮っ。なぜここに…お前は確か越前の」
黄緑色のウロコが光沢を放つ口から、先が二本に分かれた舌をぺろぺろと出し入れしながらトカゲの侍が言った。
「よく知ってるな。さてはお前達が幻怪の手先か…これで俺も閻魔卿さまの覚え目出度く出世ってことか」
守宮は越前国湯尾が住処とされる妖怪。もとは戦場で命を落とした武士たちが小さな爬虫類にその魂、怨念を宿して闇の力で変異したとされる。その大将格が大守宮。
「俺たち守宮族の共通の思い、それは人間憎し、だ。ぐふふ、身を切り刻まれる痛み、悔しさ、お前にも味わってもらおうか」
縦長の黄色い目が夫羅を見据える。武器を失い取り囲まれた三人。夫羅はとっさに仁美に覆いかぶさって守ろうとした。
「くそったれが。他の動物やモノノケを平気な顔して殺しておいて、いざ自分たちの身にふりかかるとそのザマだ」
大守宮が不快そうに鼻息を荒らげて、ウロコに覆われた手が握る長太刀を袈裟がけに振り下ろした。
つづく