北国の晩夏、牢内にて
この二月、藩の財政困難の救済目的で御用金の徴収が行われたのをきっかけに起こった盛岡藩の農民および漁民の蜂起は、気仙郡に終結した一万人近くの民の仙台藩への越訴という異常事態に発展。粘り強い話し合いの下でつい先月、伊達との和議で解決した。
しかし今後藩政の揺らぎに対する中央幕府からの処罰が下される可能性も十分にあり、緊張感が高まっている。
そんな中、傾いた男がフラフラしていては、易々と城下の検断役に捉えられるのは無理もない。
「右の者、あろうことか公家を騙り、藩武家屋敷に侵入の上、盗み食いと金品強奪、並びに婦女子への非礼…」
「おいおい、ちょっと待てっての」
構わず淡々と読み上げられる訴状。
「さらには、武家当主への甚だしき愚弄、これら極めて卑劣なること許すに堪へがたく…」
「だからちょっと待てって。いいか、俺はお殿様を愚弄なんかしちゃいねえっての。あのオッサンの服がダサいことはホントの事なんだから仕方ねえだろ…」
これほど大声なら聞こえているだろうに、表情一つ変えない。役人とは古今東西そんなものか。
「以上、述べたる科によりて公事方御定書に則りてその身預かりとす。いずれ人足寄場送りと心得よ」
お白州、といってもお江戸や京の遠国奉行の立派な佇まいとは比べるべくもない。古びて朽ちそうな柱、砂利敷には莚も無く、公事場の襖だって無地の質素なもの。
「一件、落着っ」
陸奥訛りのきついお奉行様の気分次第のお裁きも早々に、長髪、黒眼帯の「咎人」は後ろ手をしっかりと本縄に縛られて大牢に連れられて行った。
「さっさと歩け、無宿者」
「だから、俺は蝦夷守だって何回言ったらわかるんだ。名前くらいはちゃんと呼べ」
黙れとばかりに後ろから尻を蹴り上げる役人の険しい顔つきに肩をすくめて呟く蝦夷守。
「ちくしょう、乱暴に扱ったら人権侵害で訴えてやるからな…」
ここは陸奥の国、城下町・盛岡。
「しばらくここで反省しておれっ」
手荒く牢屋に放り込まれたのは蝦夷守龍鬼。
城下町から西へ十五里の村、遠野に棲むという伝説の妖怪、雪女に会うことが遠路美濃からやって来た目的だ。彼女が持つとされる光る石こそ、幻怪戦士たちが求める「願いの破片」の一つと睨んでの旅。
「おいこら、扱いが酷過ぎるじゃねえか。まともな弁護人を呼べっ、田舎役人のバカヤロウっ」
ひとしきり牢番に悪態をついた蝦夷守が背後からの冷たい視線に気づき振り返ると、そこには牢屋暮らしの「先輩」たちがずらりと並んで睨みつけている。
「あ」
総じて「これぞ悪人」といった風体のコワモテばかり。牢番が言っていたとおり、殺人犯に火付け、強盗から幕府転覆を画策したツワモノまでが揃っていると云うのはどうやら本当らしい。
「どうも、始めまして。あたくしは、ええと。美濃というところから参りまして…」
ひきつった笑顔で語り始めた蝦夷守、筋骨隆々の「角役」と呼ばれる先輩が言葉を遮った。
「こら新入り。ごちゃごちゃゴタクを並べてねえで、ほら。新入りなら早速やることがあるんだよ」
「えっ、だからその、自己紹介を…」
「てめえの名前なんかどうだっていいんだ」
牢の一番奥、薄暗がりの中から聞こえるドスの効いた声。積み重ねた畳みの上で横になり、子分たちが髪を整えたり爪を切ったり肩を揉んだり。どうやら彼がここの牢名主。
「五体満足で生きていたいなら、新入り。まずは詰之番からだ」
詰之番とは雪隠すなわち便所の番。俗世には俗世の、牢内には牢内の流儀、ヒエラルキー。カネかコネが無い限りは誰もが通る道。
「なにこの雑巾」
有無を言わさず体格のいい無頼たちが蝦夷守の両腕を掴み、牢屋の北の隅にある板の間の便器へ。
「ほう。新入りさん、かい?」
出迎えたのは顔に深い皺が刻まれた老いた男。
すでに便器をせっせと磨いている「新入りの先輩」だ。訊けば二日前に掴まったらしい。「これで便所掃除から解放される」と妙に笑顔の彼が言った。
「ははは、辛い仕事だが仕方ないのう。次の新入りが来るまでは。ときにお前さん、一体なにをしでかしてここに?」
「冗談じゃねえっての。何にもしてねえんだよ、それが。ただ見た目が怪しいから、ってんだから、まったく。役人ってのは全くもって信用ならん」
「ほう、そりゃ災難じゃったな。だがご時世がら止むを得んことじゃな。何せ黒船やら異人やらでここんところ皆がピリピリしておるよってな。あ、これこれ、そんないい加減な拭き方ではいかん。牢名主さまに大目玉を食らうぞ。ほれ、しっかりと力を入れて。どれどれ貸してみい、こうやるんじゃ」
温厚な表情のままで便器を拭く男の額に汗が滲む。
「ほれ、こうやってピカピカにすると、気持ちがええもんじゃ」
「…ありがとうよ、爺さん」
蝦夷守は「あとは俺が」と雑巾を手に持ち便器磨きをしながら、その老いた男に尋ねた。
「ところで爺さんは何故こんなところに?」
「わしか。ああ、コソ泥じゃよ。お役人様が茶屋で一服しなさっている時にちょっと財布をくすねようとして、な」
「そんな風には見えねえがな、あんた。いい人じゃねえか。それともあれか、盗癖ってやつかい」
便所掃除を続ける蝦夷守の横に腰かけながら男が答えた。
「ははは、そりゃ面白い」
「なんか深い事情でもあったんだな、爺さん。しかしまあコソ泥なら十日もあれば墨入れくらいで外に出られるだろ。あんたならシャバでしっかり生きていけるさ」
相変わらずの穏やかな笑顔のまま、男が答えた。
「いや、わしなんぞ生きていてもしょうがない身」
ため息をついて少しだけ寂しげな顔の男を横目にしばらく便器を磨いていた蝦夷守。
「そんな事あねえだろ」
「いや、内緒だがな」
老人は言った。
「わしらは浦百姓、つまり漁師じゃ。久慈の港のな、だがわしはもう歳でな」
「なにも漁に出なくたって網の手入れとか、ほら。仕事はあるだろ。あんたくらい真面目なら…」
「まあ、訊け。例の御用金騒動ですっかり暮らしは苦しくなったんじゃ。おまけに息子は海で鮫に襲われて、身体の自由が効かんようになった。船を売って食いつないだがもう売るものが無い。内職の稼ぎなんざ知れちょる」
「それで盗みを」
「まあ、上手くいくとは思ってなかったがな。だがいい口減らしになった。わしがここにいるうちは不味かろうが飯は出る。娘を売らずに済んだのよ」
蝦夷守は思わず雑巾を止めて老人の顔を見た。目を逸らすようにして老人は言った。
「いっそ死んだ方が…」
聞こえないふりをして掃除をする手に力を込めた蝦夷守。
咎人の割に手狭な牢内、新入りの寝床は北の隅、便所の横と決まっていた。ときどき牢内の住人が用を足しに来る真横に蝦夷守。その隣に老いた男が布団を並べる。
月明かりも入らない真っ暗な牢内、何人ものイビキが珍妙なハーモニーを奏でる中、ゴソゴソと寝付けない様子の老人に向かって蝦夷守が小声で言った。
「内緒だがな、爺さん」
「ん?」
寝付けないでいた老人に蝦夷守は話しかけた。
「あんたはいい人だ。それを見込んで話がある」
きょとんとしている老人。
「いい人ではないが、昼間にわしの話を訊いてもらったお返しだ。聞いてやろう」
「俺はな、ちょっとしたわけがあって、遠野に棲む若い女に会いに行ったんだが、その女は忍びの連中にひっ捕えられてここに連れてこられたって噂なんだ。ところが城下じゃ誰もそんな話を知らねえと云う。そこで忍びこんだんだが、爺さん何か訊いてねえかい?」
「女…?」
少し考え込んだ老人だったが、思わず大きな声を発した。
「若いオンナだってえ?」
慌てて蝦夷守は老人の口を塞いだ。
「静かにっ、みんなが起きたらマズイじゃねえの」
「わかったわかった。だが、その、便器を拭いた布で口を塞ぐのはやめてくれんかのう」
「あっ」
少しばかりムッとした表情の老人は、蝦夷守の袖で口の周りを拭きながら答えた。
「あのなあ。若い女なんかここに来るわけねえだろが。見てみろ周りを。獣みたいな男ばっかりじゃねえか。まあどっちみち座禅ころがしで酷い目に遭うのは一緒だが、女囚は揚屋って云うもうちょっと立派な牢に入るんだ。ここにはそんなもんは無い」
「じゃあ、忍びの噂は?」
「バカだなお前さんも。わしみたいな者が知ってたら忍びは失格じゃろうに。だれかにかつがれたんじゃよ、そんな話は」
「…」
「さ、ここの朝は早い。お前さんも早く寝な」
蝦夷守はため息をついて布団をかぶった。
しばらくしてから、老人が思いだしたように呟いた。
「まあ、女と言えるかはわからんが…イカレた気味の悪い婆さんが地下の病人房にぶちこまれた、って噂は訊いたがな」
「ちっ、婆さんか…」
「はは、そのイカレばばあ、自分は妖怪だから祟ってやるだなんてバカみたいに叫んでたらしいぜ、ほんとどうかしてるな」
蝦夷守の目が輝いた。
「妖怪?」
「自分でそう言ってるらしい。毒が頭にでも回ったか知らんが、恐ろしい流行り病だってんで医者も近寄らず引き取るあても無く、可哀想だが近々処分されるって噂もある」
「処分、ってことは…」
「ああ」
老人は手で首を掻き切る仕草をしてみせた。
「ちょ、ちょっと爺さん、頼みがあるんだが」
蝦夷守は老人に耳打ちをした。
翌朝。入り口の方から牢内にわずかな朝日が漏れ入る。
衣類や布団はじめ身の回りの物品の管理をする四番役の囚人が、一人だけ未だ布団にくるまる蝦夷守を蹴り飛ばした。
「こら、新入りが一番最後まで寝ててどうする」
「うっ、うぐ。ぐふっ。げほっ」
咳き込む蝦夷守。
「ゴホっ。ゴホゴホッ。へ、へいっ、どうも身体が…」
「いい加減にしろっ」
四番役が強引に布団を剥ぎとると、真っ青な顔で横たわる蝦夷守。布団は血で真っ赤に染まっている。
「ろ、労咳だっ、労咳だあっ」
隣の老人が大声で叫んだ。
「労咳だとおっ」
牢内が一斉に色めき立つ。フラフラと立ち上がった蝦夷守はこれ見よがしに真っ赤な液体を口から吐きあげてみせた。
「喀血だっ。前にも見たことがあるから間違いない。労咳だ、労咳だあ」
慌てた表情で叫びながら半狂乱で走りまわる老人。囚人たちは咳をしながら歩き回る蝦夷守から逃げるようにあっちへ、こっちへ。
「まずい、まずいぞっ」
たまらず牢名主が牢役人を呼んだ。
「おおい牢番、来い。早く来い。昨日の新入り、ありゃ労咳だ、早く隔離せいっ」
当時、労咳とは不治の病。麻疹やコレラと並び恐れられた伝染病である。
蝦夷守は囚人たちの群れに思いっきり飛び込んだ。
「何をするっ、殺す気かっ」
もみくちゃになりながら、おしくらまんじゅうのように人波に揉まれる蝦夷守を、やっと到着した牢番がつまみ出す寸前に、フラリと倒れ込むように例の老人に抱きついてニヤリと笑ってみせた。
牢番は蝦夷守に触れぬよう、長い棒で押し出すように牢の外に連れ出した。
「お主、労咳を隠しておったとは最低のヤツ。どうせ長いことはない命、ずっと病人房にぶちこんでくれるわっ」
眉間にしわを寄せる牢番、それ以上に険しい表情で怒鳴りつける牢名主。
「こらバカ牢番、労咳を入れるなんて不手際をしでかしてタダで済むと思うなよ」
牢名主になるくらいの者は大概、シャバの有力者―表、あるいはウラ社会の―と結びついている場合が多く、かなりの権力を有していた。
「直ちに草の汁と、あさ開の焼酎を持って来い。解毒だっ。モタモタしてたら蝦夷地に左遷させてやるからな」
ほぞを噛む牢名主の影で、老人は蝦夷守の血糊を演出した西洋手品の小道具の残りをこっそり便所に投げ捨てた。
「ん?」
老人は、労咳騒ぎのドサクサに蝦夷守が抱きついてきた時、懐にねじこまれた袋に気付いた。もみくちゃになりながら蝦夷守が牢の「穴隠居」―牢内の金品管理役―から盗み取った小判が何枚か、入っていた。
「これは…」
驚いて顔を見上げる老人。
蝦夷守は連行されながらニヤリとウィンクしてみせた。
「さあ、ここだ。イカレ婆さんと労咳の二人きりだ」
牢番役人たちは蝦夷守の背中を思いっきり棒で突いて地下牢に放り込んだ。
「想像するのも吐き気がするが、男女が二人きりで牢内なぞ滅多にないことだ、二人とも残り少ない命、せいぜい楽しめ」
一瞬想像してブルっと自分も身震いさせた蝦夷守。
薄暗い病人房の奥から背筋が凍るほどの冷たい風が吹いてくる。ゆっくりと近づくと、暗がりの中からしゃがれた声が聞こえてきた。
「誰じゃ」
つづく




