暗黒の思惑
深海に棲む海老が地上と云う世界を知らないように、高山に棲み一生を終える山羊は海を知らない。進化という名のもとに多様化を義務付けられた宇宙にあって異界との分離隔絶は必然なのかも知れない。
百三十七億年前に二つの宇宙が衝突することによって混沌の中から生じた宇宙は、後の人々の云う「神々」の争いによって三つの次元宇宙に分裂した。この現世と、それを支配する幻界次元宇宙。そして僅かな地下の次元孔の彼方に封殺された次元世界。
現世界の人々が「冥府」と呼ぶ、暗闇が閉ざした世界。
「人は汚れたものを、不要なものを、塵穴に捨て蓋をする。二度と見ずに済むように」
冥府の宮殿「暗黒の間」に座す閻魔卿が言う。
「誰がそれを決めることができるのか」
フードの下の鋭い眼は、大理石のテーブルに広げられた現世界の地図の上に置かれた報告書を眺めている。
「そうか。崇徳卿も、鬼の皇子も殺られたか…」
傍らに立つ参謀にして妖怪の長、ヌラリヒョンは探るように言葉を選んだ。
「油断、と申しますか。いずれもあと一歩まで追い詰めつつも…」
言葉を遮った閻魔卿。
「もういい言い訳は。失敗はいずれにせよ死を以て償うべきもの」
冥界のナンバーツーたるヌラリヒョンでさえ、閻魔卿のオーラに冷や汗を滲ませる。閻魔卿は低い声で言った。
「慈悲、そんなものが世界を堕落させてきた。怠惰な幇間が生き延び、力ある者の足を引っ張る。そんな現世とは違うのだ」
「お、仰せの通りに御座います…」
「優しさと云う名のまやかしが、幸せと云う名の幻覚に、一体どれだけ多くの者が搾取され去勢されてきたことか。かくも不平等な世は衰退の袋小路に迷い込んだと言わざるを得ない」
閻魔は立ちあがって声を張り上げた。驚いたようにその足元にすり寄って来た番犬・ケルベロスに人肉を与えながら、テーブルをドンと叩いた。その思いの源泉は憎悪か、あるいは哲学か。
「持てる者の怠惰な富を引き剥がし、持たざる者の有能を世に生かすためには、一度全てを破壊せねばならぬ。それが出来るのは…」
「閻魔卿さまで御座います」
ヌラリヒョンはじめ帝国幹部の妖怪一同が姿勢を正し右手を高く突き上げた。
「帝国、万歳!」
喝采を浴びせる全ての者が思想的に同調しているかは定かではないが、理想の実現のためしばしば圧倒的な力が使われる場合があることは歴史が証明している。閻魔卿に異を唱える者はなく、描かれる未来への希望をそこに見出すことで無意識に己の残虐行為を正当化しようとしているのかも知れない。
「ときにヌラリヒョンよ」
大きく一息ついた後、座した閻魔卿は血のワイングラスを傾けながら尋ねた。
「誰だ、誰が我らに立てついておるのだ?」
「崇徳卿、鬼童丸いずれも幻怪を名乗る者たちが殺害したとされております」
「幻怪だと?」
閻魔卿が軽蔑したような笑みを浮かべた。
「笑止。幻怪とはかつて三界を制した伝説の戦士たち。だがすでに絶滅した種族だ」
「し、しかし、あの四天王の一角、崇徳卿でさえ命を落とすほどの」
ヌラリヒョンの言葉をさえぎる閻魔卿。
「いや幻怪の事なら誰よりこの俺が知っている。真の幻怪がまだ存在するとは考えられぬ。誰が黒幕だ」
「おそらく、幻翁」
ヌラリヒョンは閻魔卿の顔を覗き込むようにして言った。目を合わせニヤリと笑った閻魔卿。
「そうか、やはり幻翁か。自らは老いたゆえ弟子を使って我らに歯向かおうというわけだ」
「左様かと…」
「幻怪の亡霊など恐るるに足らず。だがヤツらが血眼になって探している光る石、願いの破片には気をつけねばならぬ」
ふと険しくなった閻魔卿の表情を覗き込むヌラリヒョン。
「願いの破片…」
「ああ。かつて幻怪大戦で冥界の軍を壊滅に追い込んだ超波動兵器」
「幻翁たちはすでに四つの破片を手にしている様子、残りあと二つ…」
声を荒らげる閻魔卿。
「先に我らが見つけ出し奪え。そして我が軍の究極兵器『暗黒の怨球』の完成を急げ。生贄がまだ足りぬわ」
深々と頭を垂れるヌラリヒョン。
「御意に」
閻魔卿の黒く光る金属性の義手が、胸元で揺れる勾玉をゆっくりと掴んだ。
「幻翁よ、決着をつけようではないか」
つづく




