死闘、無双瑞天流
すでに陽は落ち、鉄紺色の帳の中を通り抜ける風が葦を揺らすざわめきが、まるで決闘を見守る歓声のようにも思えた。
「速くなければ、意味が無い」
豪語したのは根尾倉団の首領、因部利照、その太刀をギリギリでかわすのは一刀彫の雅。
鏡石、そして伝説の剣という二つの秘宝を巡って倉敷は慇懃池のほとりで繰り広げられる無双瑞天流を極めた二人の斬り合いは、わずかに速さで上回るが因部が有利に進めていた。
「どうした先輩、まだまだ終わらすには惜しいじゃねえか」
因部が上段、天の構えに見据えた先の雅の着物はあちこちを切り裂かれ、その足元にはどす黒い血溜まりが出来ていた。
「そうだな」
下段の雅が踏み込む。振り下ろす因部の切っ先と斬り上げた雅の切っ先が交錯する。キーンと甲高い金属音が耳に残る。
「はあっ」
崇虎刀を握る雅の両腕が伸びた一時方向、そこから身をよじる様にして刀身に大きく反時計回りの弧を描かせる。
「天地巡掃っ」
無双瑞天流の奥義、しかし因部が一瞬だけ早く後方に逃れた。諸手突きで追う雅に、因部は逆刃の片手突きでカウンターを放った。青ざめる雅の耳元を、剣先が空気の粒子を切り裂いて進む冷たい音。
「な、あんた、遅いんだよ」
凍りついたように時間が止まって感じられる。不敵な笑みを残して因部がそのまま突きの手首を返し、体重を乗せた剣を引きながら下ろす。
「何っ」
雅の右襟を切り裂いて肌に達した冷たい刃の撫でる様な感触が、皮膚、そして鎖骨に届いた。メリメリと骨が軋むのが判る。
「ううっ」
雅は咄嗟に両手に持った崇虎刀を手放した。弾かれたように宙に舞う剣。力を抜き、自ら膝を崩して倒れ込み、因部が押しつける刀ごしの力をやり過ごした。
「ちっ」
致命傷を免れながら地に這った雅を見下ろす因部がトドメとばかりに大きく振りかぶって斬り込んだ。身体を丸めて転げて逃げる雅の脇を因部の剣がかすめる。破れた着物をだらりと下げたまま、雅は立ち上がった。
「そうか、お前の速さ…」
雅の目が光る。追い込もうと身を屈めて突進の体勢の因部に向かって雅は素早く脱いだ浪人笠を投げつけた。
「小賢しい真似をっ」
前のめりのまま因部は飛来する笠を上段から斬りつけた。切り口も鮮やかに真っ二つに割れた笠、しかしそのすぐ背後には崇虎刀を拾い上げて真上から振りかぶる雅がいた。全身がバネのように撓う。
「これしき」
因部は素早く剣を横一文字に構えてこれを受け止める。その時、耳をつんざくような高音が、痛いほどの手の振動に伴って空気を震わせた。
「えっ」
因部の剣は中ほどで無残に折れた。
「ぐっ…」
雅の切っ先は因部の肩口に深く沈んでいた。噴き上がる血が月光に照らされてキラキラと光る。
「そんな…そんな…」
血まみれの右腕をダラリと下げたまま腰から落ちて座りこんだ因部は狼狽しながら脇差を抜いてわめいた。
「嘘だ、嘘だっ。俺は見切っていたのにっ」
血糊を振り払いながら雅が言った。
「速いだけでは、意味が無い」
うろたえながら闇雲に振り回す因部の脇差を軽く蹴って飛ばした雅が言う。
「剣は己の鏡。お前の軽薄さが、剣までも軽くさせたのだ」
焦点の定まらない目で因部が首を横に振る。
「まだだ、まだ俺は負けちゃいねえ」
崇虎刀を鞘に収めながら雅が言った。
「腱を断ち切られたお前の右腕はもう使い物にならん。命まで奪うとは言わぬゆえ、立ち去れ。心を入れ替えてこれから生きるがよい」
憎悪をむき出しにした表情の因部がその言葉を受け入れるはずもなく、雅に食ってかかろうとしてはまた蹴り飛ばされた。
「そうだ、まだ俺には勝ち目がある…あの魔剣さえ手に入れれば…」
狂った笑いを残して因部は慇懃池に飛び込んだ。
「まだ、まだ解らぬのか…」
やがてズシンという衝撃とともに池の水面が一瞬、フラッシュを焚いたように光った。ほどなく真っ赤に染まった池に朽ち果てた骸が浮かび上がった。
「剣の道を踏み外すということは、命の道を見誤ること」
続いて、蒼い光を帯びた長い太刀が、ゆらゆらと浮かび上がっては漂って池の岸に辿りついた。
「信じられん。剣が水に浮く、など」
突如浮かんできた太刀の蒼い光は、鼓動の様に強まったり弱まったり。まるで何かを語りかけているように思えた。
「この俺に、握ってみろと云うのか…」
吸い込まれるようにして、雅はその太刀に手を伸ばした。柄を握る手に電流の様な衝撃が走った。目の前が真っ黒になる。
「あっ、あああっ」
激しい痛みが全身を貫いた。遠のく意識が、過去に手に掛けた者たち一人ひとりの顔を甦らせる。胃を掴まれるような苦しさに、思わず嘔吐してその場に倒れ込んだ。
「こんな、まさかっ」
皮膚と云う皮膚の毛穴が全て開き、真っ赤な血が滲んで噴き出す。手を離そうにも指に力が入らない。極限まで早まった心拍が徐々に弱まってゆく。息を吸う事さえ出来ないほどに身体中の血が沸騰して逆流する。
「俺は、俺は…」
真っ暗に閉じた視界の真ん中に、小さな光が見えた。ぐるぐると回りながらどんどん大きくなる。止まりかけた心臓が、ドクンと大きく脈打った。血が戻る。やがて全身がガタガタと震えながら、かつて経験したことの無いような力が指先、爪の先まで漲ってきた。
「俺は幻怪、一刀彫の雅」
すっくと立ち上がった雅は全身からうす蒼い光のオーラを放っていた。手にした伝説の太刀からはビリビリと小さく放電する紫色の稲妻が見える。
「これが…」
剣を真上に掲げると、大地を揺らす轟音に伴って剣先から一筋の電光が天に駆け上った。上空の雲が渦巻き、堰を切ったように雨が降り出した。
「伝説の力、か」
血が、汗が、雨に流される。
腰を抜かしてただ呆然と見ていた根尾倉団の手下たちに向かって雅は、池の骸を拾い上げ丁重に弔うよう言った。
「ただひたすらに剣に生きた男よ、闘いの中に命を全う出来たのは本望だったのか」
誰もいなくなった慇懃池のほとりで雅は、伝説の魔剣を鞘に収め、三つ目の「願いの破片」鏡石を手にした。
「なあ、因部。俺はまだしばらく闘いの中に己を見出さねばならぬようだ…」
葉月の雨は、全てを浄化するかのように激しく降りしきる。濡れるに任せて一刀彫の雅は、ゆっくりとした足取りで山陽を後にした。
つづく




