備中、暗殺剣士現る
高い日が、なまこ壁と虫籠窓を照らしだす美しい街並み。僅かばかりのセンチメンタリズムに身を委ねたくなるのは、夏と云う季節のせいか。
伝説の刀鍛冶、敷衍の洞窟を後にした一刀彫の雅は、西国街道は備中・矢掛の宿にいた。
「もう十年が経つ、か…」
乾いた空気が舞わせる土埃を、目深に被った浪人笠で避けるようにしながら雅が向かったのは、矢掛の宿から少し北にある大通寺。
天平以来の由緒あるこの梵刹の趣深い庭園の奥、ひっそりと人目を避けるような木陰に苔生して建つ墓石の前で雅は立ち止った。
汚れてすっかり判読も難しい墓碑銘には「田島鬼刀斎捨威院勝丸」、雅は笠を脱がないまま水桶に汲んだ湧水を掛けた。墓石に留っていたアオスジアゲハがふわりと羽根を広げて翔んでゆく。
「みんな、みんな飛び立っていっちまったな」
かつてこの近くには庭瀬藩ですら恐れる暗殺剣の巣窟「赤虎塾」が人知れず存在した。若き天才剣士、雅が血を吐くような鍛錬を積み重ねたその道場「舞久場」は天保十一年、雅の手により鬼刀斎が斬殺されたことで幕を閉じた。
「あれで、あれでよかったのか」
暗黒の力からの呪縛を解き放つため止む無くした事とは言え、己の師を斬るという過ちを犯した罪が消えることは無いのかも知れない。雅は笠を脱ぎ、墓前に野萱草を添え、目を閉じて手を合わせた。
「師よ、わたしは未だ相剋の渦中に在ります…」
いつしか赤い空に家路を急ぐ鴉の群れも消え、藍色の帳が乾いた空を閉ざした。鳴りやまぬ蝉の声が誘うノスタルジアは丁度いい肴。冷える夏の夜、櫻芳烈が五臓六腑に滲みわたる。見上げる星空に垂れさがって見える掛けた月は、己の未熟さと重なる。
「ああ。まだこの手を血に染めねばならぬ運命」
夜半に歌い出した邯鄲の声が、少しずつ季節の移ろいを感じさせる中、雅は浪人笠で月明かりを避けるように眠りに就いた。
やわらかく山の端を染める日の出を待たずして、雅は街道を東へ向かった。刺すような陽光を背に向かった先は倉敷。流通の要所として運河が入り組んだこの天領までの五里の道のりを急いだ雅、巳の刻には蔵屋敷の賑いの中にいた。
「決闘だ、またしても決闘だあ」
突如、昼時を前に賑わう市の中で怒号が響いた。山陽の屈託のない明るさには似つかわしくない血なまぐさい響き。
「ここんとこ毎日だ、また根尾倉団の連中か」
浪人笠の奥で、雅の耳がピクリと動いた。敷衍の云う刺客、根尾倉という名が、普段なら他人の揉め事になど口も手も出すそぶりも見せぬ彼の足をその喧騒に向けさせた。人垣の向こうに見えるのは、大きな刀を振り回すひどく癖毛のざんばら髪の男。
「ほら、立てよオッサン」
黒い蛇革の羽織に金糸の刺繍。細身の剣士が、古風な太刀筋の中年剣士を翻弄していた。野次馬と云う名の見物客にまるで己の強さを誇示するかのよう。
「貴様の鈍い剣なぞ、蠅が停まるわ」
ことごとく剣を弾き返される小太りの中年剣士は、身なりからしてそこそこ腕の立つ剣客であろうが髷まで切られて臍を噛むどころか半ば泣き顔になっていた。
憐れむように、しかし面白がってその様子に見入っている野次馬の一人が、隣に居合わせた雅に向かって鼻息を荒くして言った。
「見たか今の、いや、見えねえ。見えねえ速さだ。大した剣豪だな、因部って野郎はよ」
知らぬ顔のまま黙って決闘を目で追う雅の様子など気にせず、その野次馬は話しかけてくる。
「ん、知ってるだろ因部を、利照だよ。柳生利厳以来の剣豪って噂だ。なあに、自分から宣伝してやがる。あれを見なよ」
男が指さす先にはためく幟には「当世に於いて剣の強さ右に出る者無し」とある。
「なんでも、己が最強を天下に知らしめようってな、お宝を賭けて真剣勝負の相手を募ってるって話だ」
その間にも、中年剣士は身体中のあちこちを因部の剣にえぐられて、元は仕立ての良い着物はすっかり真っ赤に染まっていた。甲高い声で因部が笑う。
「どこの師範台だか知らねえが、生兵法はケガの元ってな」
因部の笑顔が消えた一瞬、因部の姿も消えた。いや、その速さに目が追いつかないだけのこと。すでに因部は中年剣士の懐に潜り込んでいた。
「貴様に剣を持つ資格は無え」
振り上げた刀は、すでに血みどろの中年の右腕を付け根から切断して跳ね上げた。真っ青な夏空にどす黒い血飛沫と、剣を握ったままの腕が舞う。
「ぐあああっ」
地面を転げ回る中年の叫びをかき消すように因部はその頭を、鉄の鋲が幾つも打ち込まれた革の洋靴で踏みつけた。
「なあ、オッサン。あんたの負けだ。刀も腕もどっかに飛んでいっちまったもんな。ククク」
靴で口を塞がれて息も苦しげな敗北者を見下ろしながら因部は悪戯っぽい笑みを浮かべて囁いた。
「なあ、命が惜しかったら土下座して見せろよ、あ」
顔面蒼白の中年男、顔の土埃と血を涙で流しながら因部の足元で額を地に押し付けて懇願した。
「お願いします、命だけは」
「聞こえねえな、オッサン。聞こえねえって言ってんだよっ」
狂気に目をヒクつかせて因部が怒鳴った。ワナワナと震える土下座の中年男。
「命だけは、命だけはあっ」
「ダメだ」
真上から振り下ろした因部の刀は、這いつくばる男の体躯を真っ二つに切り裂いた。手を叩いて囃したてる因部の手下たち。いずれも無頼漢の体。
「がははは、ザマねえな。くそじじいが。身の程知らずもいいとこだ」
野次馬の男が呟く。
「ああ、ひでえもんだ。今月に入って十五人目だ。陣屋の代官所も手が出せねえ、黙認しちまってる程だからな。あんたも見たところ…」
男は雅の出で立ちを舐めまわすように見回して言った。
「腕が立ちそうだが、悪いことは言わねえ。あれと勝負しようなんて、ゆめゆめ考えねえこったな」
もの言わず立ちつくす雅、その視線の先に因部利照。鋭い視線のせいか、剣士の放つオーラゆえか、群衆の中の雅を見つけた因部。蛇のような目で見据えながら声を上げた。
「おいこら、そこの浪人笠。なに見てんだ。文句でもあるのか、あ?」
雅の隣で説明好きの野次馬が慌てた。
「ほうら、言わんこっちゃないっ。お前さん目立つんだよ。でかい図体で睨んでたら、まるで喧嘩売ってるみたいじゃないの。ほら、まだ間に合う、今すぐ土下座でもなんでもして許してもらいなよ」
聞く耳持たぬままの雅は、ゆっくりと一歩前へ出た。
「いや、ただ、見ていただけだ。貴殿のお遊戯を」
「お遊戯、今お遊戯、と言ったか?」
眉をひそめた因部がゆっくりと近づいてくる。微動だにしないままの雅。
「余所者かあっ、なに気取ってんだよ」
因部の手下が数人、抜き身で取り囲んだ。なお、不動の雅に苛立った無頼漢たち。
「身の程知らずがあっ」
雅に向かって一斉に斬りかかった因部の手下たち。傾奇者を気取ってはいるが、因部に劣らず速い太刀筋。だがものの数秒後、意気込んだはずの傾奇者たちは全員、刀を弾き飛ばされて地面に倒れ込んでいた。見下ろすように。わずかに腰を下ろした雅が表情を変えぬままに、笠に付いた埃を手で払い落す。
「えっ、あっ」
一斉に襲いかかった因部の手下たちの刀を、ごくわずかな体裁きで空振りさせると同時に、脱いだ浪人笠を手に持ち、盾よろしくクルクルと回しながら無頼漢たちを吹き飛ばしていたのだ。笠の内張りの鋼の筋板が陽を反射して時折輝きを放つ。
「くっ、て、てめえっ」
慌てて刀を拾いあげて再び斬りかかろうとする手下を、因部が制した。
「待て待て、お前らが適う相手じゃないようだ」
因部は笠を外した雅の顔、いや額を見て言った。
「お前、その傷跡は…」
「ほう、どこかで会ったか」
ニヒルな笑みで返す雅。因部も不敵に笑いながら言う。
「俺はかつて島田鬼刀斎という男を師としていた。無双瑞天流の使い手の、な。舞久場の兄い、と呼んでいたお方だ。だが師は不貞の弟子に斬り殺された」
「ほう、左様か。偶然だな、俺も瑞天流は知っている」
「その不貞の弟子は、師の命を奪う代わりに、額に深い傷を受けた」
「それがどうした。貴殿は物語を聞かせるために俺を呼びとめたのではなかろう」
表情ひとつ変えぬ雅をきつく睨みながら因部は言った。
「ああ、態度のでかい流れ者を見逃しちゃ沽券にかかわるからな」
「沽券、貴殿にそんなものがあるとはな」
「それだけじゃあ無え。師の仇を討たぬとあっては侍の名が廃る。なあ、わかるだろ貴様も二本差しなら。一刀彫の」
雅は腰の鞘を握って言った。
「生憎、今の俺は一本しか持っておらんがな」
因部は「ふっ」と鼻で笑いながら言った。
「なんだそりゃ、落ちぶれたもんだな。まあいい、いつもは賞金百両だが、貴様が勝ったら倍の二百両くれてやるぜ。さあ抜け」
目を合わすことなく、再び浪人笠をかぶりながら雅は答えた。
「金には興味などない、だが…」
浪人笠の奥の目が因部をとらえた。
「お前さん、吉備津で盗っ人を働いただろ。奪った鏡石を返してもらおう」
ゆっくりと瞬きをした因部、口元をニヤリとひん曲げて答えた。
「ほう、どこで訊いた、そんな話を。この俺が盗っ人だと…?」
両者の間に沈黙が流れる。
「仮に俺が持っていたとしても、貴様にゃ渡さんがな…」
煙管を咥えて火を付け、目を逸らす因部をじっと見ながら雅は言った。
「ならば仕方あるまい。お前さんが躍起になって探してるっていう幻の剣の在り処を俺は知っている。鏡石と引き換えにそれを教えてやろうと思ったんだが…」
振り向いて立ち去ろうとする雅を慌てて呼びとめたのは因部。
「待て一刀彫の。待てって」
「持ってないんだろ鏡石を。じゃあお前さんにゃ用は無い」
因部は軽く咳払いをした後、大きな声で言った。
「なあ、いいだろう。その剣の在り処、教えて貰おうじゃねえか。鏡石は後で届けさせる。さあ、どこだ、どこに有るんだ伝説の剣は」
「バカ言うな因部。誰がお前なんか信用すると思う。鏡石を受け取ってからだ、場所を教えるのは」
苛立つ因部が雅ににじり寄りながら言った。
「いい加減にせいよ一刀彫の。石持って逃げるつもりだろうが。いいか、俺が鏡石を持ってくる、そしてお前は剣の在り処に俺を案内する。それでどうだ」
「わかった、いいだろう…ただの取引じゃ済みそうにないがな」
「当たり前えだ。俺は貴様を切り刻みたくてしょうがねえんだ。その憎たらしい面の皮を一枚一枚剥がしてやる」
因部は足元の石ころをポーンと蹴り上げると、手に持った刀を鮮やかに振った。風圧で雅の着物の裾が揺れる。二つに割れた石が同時に地面に落ちる前に、因部の刀身は鞘に収まっていた。
「決闘は今日の暮れ六つ。使いの者を迎えに行かせる。それまで宿で首を洗ってまってろ」
配下の傾奇者たちを引き連れて、市井の人々が道を開ける中を肩で風切って去ってゆく因部一味。雅が着物の肩口がザックリ切れているのに気付いた頃には根尾倉団は遠い彼方の影になっていた。
「お、お前さん…」
先ほどのお節介の野次馬がまた近寄ってきた。
「バカだなあ、なんでまたあんな事を…しかし悪いがな、旅の人。俺も因部の野郎の方に賭けさせてもらうぜ、悪く思わないでおくれ、恨むなよ」
言い去ってゆく野次馬を横目の雅に、今度は小汚い身なりの低い背の男が不作法に近寄って来た。
「旦那、ちょいと寸法を測らせてもらいますぜ。ああ、こりゃ結構大きなのが要るな。あ、あっしは棺桶屋でございます、へへへ」
遠巻きに見ている博打の胴元は早速勝敗の倍率を決めようと算盤とにらめっこ。無言の雅は、無残に散った名もなき剣士の亡骸を集め、無縁仏の墓へと向かった。
日暮らしの鳴き声が相変わらず響いている。すこし長くなった影を無邪気に追いかける子供たちのはしゃぎ声が遠くから聞こえてくる。
暮れ六つまであともう少し。
つづく




