百々ヶ峰へ
大衆文化の発展に沸く元禄の世はさながらにバブルの時代。しかし驕れるものは久しからず。行き交う人々の笑顔が少しずつ曇り始めたのは元号が嘉永に変わった頃。度重なる天災や黒船来航、あちこちに現れては人々を襲う恐ろしいオニたち。不安をかき立てる事象が露わになり始めたからに他ならない。
戸惑いを隠せないままに人々は終末を意識した行動を始めた。義勇軍を率いてオニ退治に乗り出す者や自暴自棄になって連夜のドンチャン騒ぎに興じる者、終末に怯え神頼みに明け暮れる者など。責任者探しの不毛な議論の果てに生贄を捧げるべきだ、など鼻息を荒げる人々までが出現した。どこかで見た様な光景。
人は己の小ささを忘れる生き物。しかし、いつの世も希望は子供たちの中にある。ここ美濃の國、札売りの夫羅の愛娘、仁美は初めて見た幻怪戦士とオニたちの戦いにすっかり興奮した様だ。
「お姉ちゃん本当に凄いんだね。あんな大きなオニをあっと言う間に倒しちゃうんだもん。怖いのを忘れて見入っちゃった」
幻翁が住む百々ヶ峰への道中、夏の強い日差しを遮るように右手を額にかざしながら仁美が悦花を見上げて言った。振り返って煤にも一言。
「そうそう、すうちゃんも凄いよね。あたし一刀彫のおじさんに斬られちゃったかと本気でびっくりしたよ。すうちゃんも『げんかい』なの?」
「おじさん、てのは余計だな」
浪人笠を目深に被ったままの一刀彫の呟きを横目に見ながら煤が答えた。
「河童さ。幻怪でもなけりゃ人間でもない。人間の出来損ないってとこだ。だが俺はただの河童じゃねえぞ。これから幻怪さんたちと一緒にオニどもと戦う河童戦士だ。昔みたいに河童が幸せに暮らす世の中を取り戻してやる、って前から思ってたんだ」
「ええっ、昔は河童が普通に人里で暮らしてたの?」
「ああ、親父がそう言ってた。ずっと昔の話だ。人間に味方した河童一族をオニの帝国が滅ぼしたそうだ。かろうじて生き残った河童たちもオニにそそのかされた人間たちに次々と殺された、って言い伝えだ。以来、人間と仲良くすることが掟によって禁じられたんだ。人間を心底恨んだこともあったよ。でも仁美ちゃんみたいな優しい子に会って考えが変わったのさ。元凶はオニたちだ、ってな」
「だから掟を破ってこうしてわしらと一緒にいる。という事だな」
煤特製の几帳面に作られた金属製の防具をまじまじと眺めながら夫羅が呟いた。確かに良くできている。優秀な鍛冶職人と言えどもここまで精巧なものは作れまい。ましてや人間では加工不可能と云われる最高の硬度を誇る伝説の幻鋼造り。一同は煤の本気ぶりをしっかりと感じ取った。
「わあ、綺麗。あたしもこんなお花みたいに綺麗になれるかなあ」
深刻な話と裏腹に唐突に声を上げたのは仁美。道中にある小さな沼、松尾池に咲いた一面の蓮の花が神々しい雰囲気を醸し出していた。
この池を通り過ぎると険しい山道が続く。一人通るのがやっとの細い獣道は一歩間違えば奈落の底。その先に暗く湿った山あいの沼地。さらに急斜面の滑りやすい岩盤を登らなければならない。
人もオニも寄りつかない難所は齢十二の女の子には酷な道中のはずだが、上機嫌の仁美は辛さを感じていないようだ。水筒に入れた長良の川水を少しずつ頭のお皿にかけつつ歩く煤の横で時折立ち止まっては天を仰ぐ夫羅はさずがに疲労困憊の様子だが。ちょっとした木陰の湧水で一休み。さあ、ここを抜けて切り立った崖を登ればもうそこは幻翁の住処である。
「翁に会うのも久しぶりだな」
笠の下で汗を拭きながら言う一刀彫に仁美が尋ねた。
「ねえ、『オキナ』ってどういう人? 今から会うんだよね」
「幻翁ってのは仙人だ。わかるか? 何でも知ってる長老、すべてお見通しさ」
「オキナさん、とっても強いの?」
「はは、翁はもうご老体だからな。でもな、強さってのは何も腕っぷしの事だけじゃないぞ。俺たち幻怪は皆、翁に戦いを教わった。修業したんだ。ああ、たっぷり鍛えられたさ」
「鍛えられた、というよりイジメられた、って方がもっと真実に近い」
横から茶化す蝦夷守に苦々しい顔をしながら一刀彫は続けた。
「翁はもう何百年もここで生きている。ゆくべき道は翁に教えてもらうしかない」
つづく