闇を狩る者たち
「やつらが来たんだ」
もはや伝説の幻怪、聖の君が血相を変えていることに悦花は驚いた。
「やつら、って…聖さままでがこんなに慌てるなんて」
立ち上がった聖の君が荒々しく障子を開けた。闇夜を紅く染める火の手が屋敷を取り囲んでいる。
「手強い相手だ、このところ我の周囲を探っていたのは知っておったが…うっ」
ぶーんと唸りを上げて火の球が飛んで来る。屋根に柱に、次々と突き刺さる。
「焼き打ちかっ、逃げるんだ、逃げなさい、悦花」
それまでの柔和な聖の君が一転、険しい表情に。悦花に裏口の隠し通路を指し示すと、自ら屋敷の戸を開け放ち、腹の底から響き渡る声で叫んだ。
「我はここだっ、何用か知らぬが訳も言わず焼き打ちとは無礼なりっ」
すでに中庭にまで侵入していたのは何十という黒装束の忍たち。ゆらめく炎に屈強な肢体のシルエットが無数に浮かび上がる。
「なにゆえ我をっ」
縁側に身を乗り出す聖の君。黒装束たちの中央で微動だにせず悠然と構える男が答えた。
「もののけ狩り、だ。俺は柳生雲仙。貴様には死んでもらう」
「もののけ狩り…」
聖の君の背後で様子をうかがっていた悦花の脳裏に忌まわしき過去がフラッシュバックした。
「あ、あれは…」
旗印はまさしく尾張柳生の紋章。
「おのれえっ、お前達かっ」
悦花は髪を振り乱しながら、聖の君の制止を振り切って飛び出した。大きく跳び上がり、早速手にした大煙管を振る右腕がうっすらと光を帯びた。
「はああっ」
伸びた煙管の先が狙うは中央で構える男。ぶうんと空気を切り裂いて煙管が伸びる。
「ふぬっ」
僅か二寸、首を傾けてかわした柳生雲仙が鼻で笑う。狙いを外した煙管は後ろにいた雲仙の配下の喉元を突き刺した。
「嬢ちゃん、あんたも死にたいか」
雲仙が伸びた煙管を掴む。悦花はその手をパシっと跳ね上げて煙管の先を手元に戻し、もう一度振りかぶる。
「今度はあんたの脳天に突き刺してやる」
困った子だ、とばかりに周囲の手下に苦笑の表情を見せた後、雲仙は右手をサッと上げ合図した。
「ガキめ」
悦花にむかって周囲から一斉に投網が襲いかかる。細い糸だが奇妙な粘り気があって容易には断ち切れない。
「こんなもの、はああっ」
悦花は全身の気を放出した。波動に身体が光る。
「え、えっ」
通常なら悦花の波動は岩をも砕く。だがこの網の糸は一切の波動を跳ね返し、ダメージは自らの肉体に返ってくるではないか。
「ぐあっ、ああっ」
思わず倒れ込んだ悦花を見て眉をピクリと動かした雲仙。
「ほう、お前もただの人間じゃねえな。ならば、死を」
さらに無数の投網、次々飛んでくる手裏剣。悦花の柔肌はあちこち切り裂かれて鮮血が飛ぶ。かわそうとするが、もがけばもがくほど糸が絡みつく。身体の自由だけでなく波動の力も吸い取られるようだ。
「忍術、もののけ殺しの蜘蛛の糸、だ。さあ息の根止めてやる」
顔を上げた悦花は、自分にむけられた何十という毒矢の矢先を見た。弓手はすでに狙いを定めている。
「あ、ああ」
びゅんという音が一斉に悦花を取り囲んだ。視界を埋め尽くす矢、一つ一つの点が一気に大きくなり悦花に迫る。
「うあああっ」
悦花の視界が突如、闇に閉ざされたのは彼女が目を閉じたからでも、目に矢が突き刺さったからでも無い。
「に、逃げなさい…」
豪奢な刺繍も鮮やかな羽織を豪快に振り乱しながら縁側から飛び上がった聖の君が両手を大きく広げ、悦花の盾になっていた。
「さあ、今すぐ…あの縁側の下の通路へ…」
怖々目を開けた悦花、その真上で聖の君が震える唇から血を流しながら言った。
「逃げなさいっ」
聖の君から見る見る血の気が失せてゆく。まるで剣山の様にその背中には毒矢が深々と突き立っていた。思わず悦花が叫んだ。
「聖さまあああっ、なぜ、なぜっ」
悦花を匿うように両手を広げたままの聖の君は、諭すように言った。
「よいか、この世を救うのがお前の運命、お前を守るのが我の運命」
「そんな、そんな…」
遮るように聖の君。
「誰にも運命がある。お前は特別な運命の星の元に生まれた、いつか解る。だから今は黙って逃げるのだ」
「いや、いやですこんな…」
「忘れるな、お前の背負った運命こそ天の意思っ」
聖の君は悦花を突き飛ばして隠し通路に放り込んだ。
「あっ、あっ」
這い出ようとする悦花。
「いいか、走れ。右へ、右へ。中はからくり細工がしてある故、追手を振り切ることができる、よいか、お前が我らの最後の望みっ、ゆけっ」
聖の君は隠し扉に鍵を掛けた。
「開けて、開けてっ」
「ばかものっ、くだらぬ情に惑わされるでないっ。お前は何が何でも使命を果たせ」
扉の向こうから漏れ出る悦花の嗚咽をかき消すように、聖の君は尾張柳生忍者軍団の方を振り返りながら叫んだ。
「小賢しい人間どもよ。我も幻怪のはしくれ、そう簡単には死なぬっ」
すでに猛火に包まれた屋敷、無数に飛び来る矢を匕首で叩き落とす。
「さあ来い、雑魚ども。ああ久々の戦、いい気分よ」
羽織の袖を振り乱し、大柄な体で華麗な殺陣を繰り広げながら聖の君は、群がる黒装束たちが構える刃の中に消えていった。
隠し通路の中を走り逃げ切った悦花が吉野川のほとり、岩場の隠し扉から外に出た頃にはすでに聖の君の屋敷は完全に焼け落ちていた。
「討ちとったぞおっ」
遠くから歓喜の声が聞こえる。
「うっ、うっ」
湧き上がる嗚咽を隠すように、悦花はただ走った。森の中を、がむしゃらに走った。いつしか噛みしめた唇にうっすら血が滲むほどに。
「なぜ…なぜわたしなんかが」
気付いた時、悦花は森を出て静かな田園の中にいた。相変わらず、源氏蛍たちが切ない光を灯してゆらゆらと舞っている。
「聖さま…」
こぼれる涙も、流れる血も、湧き上がる嗚咽もそのままに、満身創痍の悦花は崩れるように座り込んだ。
聖の君が遺した真新しい封じ布のしじら織は、悦花が何も知らなかった頃の幸せな時代を思い出させるような美しい色彩にあふれていた。
つづく