聖の君、それは伝説のひと
「封じ布」の替わりを求めた悦花は、阿波の山中にいた。
古びた屋敷の戸をくぐる。
「お久しゅうございます。悦花にございます」
奥の間に通され深々と頭を下げた悦花の前に鎮座する白頭巾。茶を点てるその手を止め穏やかな笑顔を見せた。
「立派になったな。お前がここへ来るということはただ事ではないな。どうした、悦花よ」
色とりどりの糸が絢爛に織り込まれた羽織をサッと払い、自らが点てた茶を悦花に差し出したのが「聖の君」。頭を下げたままの悦花が言う。
「幻翁さまから、封じ布のことは貴方様に尋ねよと言いつけられておりまして…」
ボロ雑巾のようになった布をそっと差し出す悦花。一瞥した聖の君が言う。
「この布が破れると云う事は、さぞや激しい戦いが…そうか、始まったか…」
聖の君は、その存在そのものがすでに伝説。幻翁からは「古の幻界大戦を知る数少ない者」と訊かされている。すでに滅びたとされる幻怪旧世代の生き残りにして、波動の極意を知る賢者。
第一線を退いて久しいが、漂うオーラは聖の君が歴戦の勇者であった事を雄弁に物語る。もはや男女の性別さえ超越した圧倒的な存在感は、しかし、退治するものに恐怖や威嚇ではなく、むしろ大地の如き雄大な優しさを感じさせる。
悦花は拳を握りしめながら言った。
「はい。暗黒の力が、動き出しました」
目を閉じて二、三度小さくうなずいた聖の君。
「ならばそなたも戦士、我の如き老いぼれに下げる頭など必要ない。面を上げるがよい」
立ち上がった聖の君は大きな葛篭から一枚の布を取り出して悦花に差し出した。
「こういう日が来るだろうと、織ってあったものだ。持ってゆくがよい」
華やかな色合いの美しいしじら織。だが一本一本丹念に織り込まれた糸が凄みを醸し出す。これがまさに、悦花の体内にあふれる波動を制御するこの世にただ一枚の布。
「あ、ありがとうございます」
布を握りしめ安堵と感謝の表情が溢れる悦花を見ながら笑みを浮かべる聖の君。
「あのやんちゃな小娘が、立派になったものだな」
そしてさらに、真新しい桐箱を悦花に手渡した。
「これもそなたに授けよう」
悦花は桐箱を開け中を覗き込んだ。
「こ、これは」
長さ二尺ほどの延べ煙管。大きさの割に思いのほか軽く扱いやすい。うっすら赤みを帯びた金属の光沢の中に繊細な彫金が見てとれる。
「知っておろう、化け狸を」
足を崩した聖の君が茶をすすりながら言った。
「この吉野川に昔から棲むモノノケだ。かつては悪さもしたが、今は我のよき友人。化け狸の一族は昔から悪戯に大煙管を使っておった。いつかそなたが来る日のために、と彼らに作らせておいたのだ」
「大煙管…あの、船をも沈めると云う」
「そうだ、その大煙管だ」
吉野川の青石瀬に古くから伝わる伝説の大煙管。聖の君はこれを特別に幻鋼で作らせ、戦士となった悦花の頼もしい武器として授けた。
「まるで自分の手と一体になったような…」
ぐいと握ってクルクルと振り回して見せる悦花、その軽さと手に吸いつくような扱いやすさに驚いた。
「ただ大きくて使いやすいだけじゃないぞ」
ゆっくり立ち上がった聖の君は障子を開けうす暗い庭を指差した。
「あそこに鋼玉と呼ばれる固い岩が置いてある。あれを砕いてみよ」
「ああ、あの小さい…」
立ち上がろうとした悦花を聖の君が制する。
「そのまま、そのまま其処に座っていなさい」
「えっ…」
眉月のうっすらとした光の中では標的の鋼玉はうすぼんやりとしか見えない。
「念じなさい。己の波動が周囲の空気と一体となりその流れを掴む。眼で見るよりも、よく見えるはず」
云われる通りに目を閉じる悦花。
「しかしこの距離では…ここから岩まで四間も…」
「考えるな、感じなさい」
硝子の曇りが晴れてゆくように、波動を通して景色が見えてくる。いや正確には俯瞰図のように立体的に感じる、と云ったほうが正しいだろうか。
「見える…見えます」
「念じなさい。大煙管の先が、あの岩を砕く様を、強く心に」
「この煙管の先端が、あの岩に。先端が…」
「そう。そうだ。身体中の波動を、気をその煙管に強く託せっ」
聖の君が叫んだ。思わず悦花が煙管を握る手に力が入る。
「あっ、ああっ」
悦花の身体がうっすら光を帯びた―続いて大煙管が青白く光る。
「ええっ」
握る手に鈍い振動を残しながら大煙管は真っ直ぐに伸び、薄暗い庭に置かれた鋼玉の岩にその先端を命中させた。小さな電光を発しながら岩は粉々に砕け散った。
「まさか」
「この大煙管、持ち主の意思すなわち波動と一体となる。念じる力が金属の粒子の結合を変え自在に伸縮する細工が施してある。幻鋼でなければ作れない、最強の武闘煙管」
もと通り悦花の手に収まった「究極の武闘煙管」をまじまじと見つめながら悦花が呟いた。
「これは…これなら誰にも負ける気がしない」
「ああ、そうだ。ただ伸び縮みするだけじゃない。波動を上手くコントロールできれば、右へ左へ、自在に曲げて使う事も可能なはず」
「すごい…」
溜息をつき感心しきりの悦花は聖の君を見上げて今一度深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。ありがたき幸せ。必ずやこれで敵を打ちのめし、私が味わった様な悲しみを、もう誰にも…」
ゆっくりと頭を上げた悦花、何かを思い立ったように力強い目で聖の君を見据えた。
「ひとつ、お訊きしたいのですが…」
「ん?」
聖の君の柔和な顔がやや引き締まった。
悦花は、胸のつかえを吐き出すように言った。
「あなたは、私が幼子の頃をよく知っておられる。ならば私の…」
つづく