悦花、阿波へ
四日市の宿で「第二の破片」を探す蝦夷守たちとは別に、花魁悦花は先の戦いで破損した「封じ布」の修繕のため単身阿波に赴いた。
―阿波の國、三好―
山間いの小路はどこか凛とした静寂に包まれている。東から昇った月が照らすせせらぎのぬる水、その清らかさに見入る。やがて吉野川に続くこのささやかな流れがつくる澄んだ柔らかい調べに聞き入れば、悠久の時とそれに対比して己の小ささを思わされるようだ。
「儚い…はかないねえ」
吉野川の辺で舞う源氏蛍の光に、自らの生きざまを重ね合わせてみる。
「封じ布」とは、悦花の体内から溢れ出る波動をコントロールする特殊なしじら織。作ることができるのは、この阿波に住む古い友人のみ。
「何年ぶりかしら」
山中にひっそりと暮らす、聖の君。悦花がまだ赤子の時分からひっそりと見守る聖者の屋敷は、さらに踏み込んだ森の奥にある。
「そろそろ見えてくる頃ね」
源氏蛍の光の波が作る美しいハーモニーを背に、せせらぎを上流に向かって進む。
「あら」
草むらの中で泣きじゃくる赤子を見つけた。この辺じゃよく見かける妖怪「児啼爺」に違いない。さしたる害はない。捨て置こうと通り過ぎたものの、まるで親を失い彷徨うが如き切ない声に思わず振り返り、抱きかかえる。
「え、えっ?」
赤子の身体だがその顔は老いた男。抱き上げた瞬間に岩の如く重みを増す。こうやって何百年もの間とおりすがりの人間たちをからかってきたのがこの妖怪。だが今回の相手はか弱き人間ではない。「幻怪」悦花である。
「さびしい、寂しいのよね」
のしかかる重みに動じることなくそっと微笑みかける悦花が、児啼爺を抱き上げた両腕から波動を与える。にわかに緩む児啼爺の顔。妖怪然とした恐ろしげな顔は、玉の肌をもつ真の赤子へ。
「ふふ、案外可愛いのね」
悦花は、ふと幼き日の自分にその赤子を重ねてみた。だが両親の顔は曇りガラスで隔てられたようにぼやけたまま、決して思い出されることは無い。
「わたしにもこんな日々が…」
悦花の幼い頃の記憶は岐阜の遊郭に始まる。山中で啼いていた彼女は遊女に拾われ育てられた。両親は悦花をもうけて間もなく、邪悪な妖怪の手に掛かって絶命したと訊かされた。
「ずっと。ずっと一人ぼっちだった…」
欲望渦巻く遊郭の中でたくましく育った悦花にとって寂しいなどという感情は「弱み」でしかなかった。強がる彼女の内面に潜む、愛情への渇望は閉ざされてきた。
「みんな行っちまったんだよ」
悦花が十六の春、その遊郭さえも失った。冷酷さで知られる暗殺団「尾張柳生一族」が花街一帯を焼き打ちにしたのである。その真相は定かではないが、当時から特殊な能力を持っていた悦花を「モノノケ狩り」を身上とする尾張柳生一族が抹殺しようとしたのが発端だとすれば、彼女の心はさらに傷む。
「わたしのせい…わたしがいなければ」
復讐心の塊となった悦花を制したのは幻翁だった。怒りが開花させた波動の能力をコントロールする術を教え、真の敵は現世を闇の波動で覆い尽くそうとする邪悪な妖怪たちだと知った。おそろしい暗黒の力を持つ妖怪たちとの闘いに明け暮れる中で、振り返る事さえ拒むようになった悦花の過去。
「今は、今は戦いの時…」
道端にそっと置いた赤子姿の児啼爺は、むくむくっと起き上がって元の小さな老人に戻り、ゆっくりと川下に歩いていった。
「あ、あっ」
振り返って悦花を見る目に見えた少しばかりの憐れみは、己の心がそう感じさせただけなのだろうか。波動を通じて、彼女の過去への募る思いが伝わったせいだろうか。
今一度脚絆の皮紐を締めて上流を目指した悦花に、森の葉に隠れるように建つ小さな屋敷にうっすら灯る明かりが見えてきた。
「聖さま…」
つづく




