決着の幕が開く
汗か、涙か。
濡れる頬はマグマの川に照らされて紅に上気している。
悦花は言った。
「ここからは、わたし一人でゆく」
対岸に取り残された河童の煤は為すすべも無く、力なく座り込んだ。
戦いが生み出すものは―それはたとえ如何なる大義名分や正義の冠を掲げようと―最終的には悲しみ、憎しみ、そして無力感でしかない。
しかし、その先に僅かでも光明が見出せるならば、それを手にするため屍の荒野を乗り越えねばならぬ宿命を背負った者が、存在し得る。
生きるために戦うのか、戦うために生きるのか。
この二つは必ずしも対立するテーゼではない。
「我、戦う。ゆえに我在り」
幻怪衆と暗黒帝国、苛烈を極める霊峰富士での決戦。
送り込まれた最強の刺客たちと刺し違えた仲間たちの遺志を胸に悦花は、ただひたすらに走った。悔しさに噛み締めた唇を真っ赤に染めて。
両親や故郷、仲間を次々に失った彼女は、その元凶、閻魔卿を倒すことでしか生を全う出来ない。そう感じていた。
「違うわ」
ふと、誰かが呼びかける声がした。
「怒りや憎悪によって誰かを殺めたところで、互いの魂は浄化されない…」
思わず振り返ったが人影は見当たらない。
「戦いは過去のためじゃなく、未来のために」
柔らかな木漏れ日が差し込む中、かすかに木々の葉が風にそよぐだけ。
「戦いに身を投じ、全うしたものは、自らも命を捧げる運命なのだから…」
辺りをぐるぐる見回す悦花が叫んだ。
「だ、誰っ。誰なの」
だが一切の気配も、感じられない。
耳に聞こえるのではない、心に直接、声が響く。
「わたしは、あなた…」
「…あんたが、わたし?」
スウッと涼やかな風が通り過ぎていった。もう、声は聞こえない。
「一体、一体誰が…」
にわかに、山頂から熱風が吹き降ろしてきた。
思い出したように山頂への道を、悦花は急いだ。
切り立った崖、赤茶けた岩場を登りきる。山頂の雪はとうに溶けて消えうせ、熱せられた岩盤が剥き出しになっている。
「やっと、ここが…」
冥界の旗が、熱風にはためいていた。
「来た、か」
黒鬼たちが周囲を取り巻く中、黒いローブの男が座している。閻魔卿に間違いない。
悦花はひるむことなく、足を止めずに近づいてゆく。
「待ってたみたいじゃないの、あ?」
閻魔卿も、その視線を悦花から外さない。
「ああ、待ってたさ」
返答を待たず、悦花は閻魔卿を目掛けて猛然と飛び出した。それを見た閻魔卿親衛隊の黒鬼たちも金棒を掲げ上げて飛び出した。
「はあっ」
悦花は飛び上がった。手に持った大煙管がうっすらと光を帯びたまま幾つもの弧を描き出す。黒鬼たちは次々に倒れて塵と化した。
「相手になんないよ」
彼女に一層の強さを与えたのは、幾多の戦いとそれを通じて仲間がくれた勇気なのかも知れない。
ゆっくりと閻魔卿が立ち上がった。
「俺が確かめてやる」
眉間にぐっと皺を寄せた悦花が、身を屈めて地を這うように、一気に距離を詰めた。閻魔卿の金属製の右脚の蹴りが迫る。
「ふんっ」
前進する力を上昇力に変え、気付けば閻魔卿の頭上。振りかぶった大煙管が打ち下ろされる。
ガキン、という音。
今度は閻魔卿の右腕の義手が悦花の一撃を阻んだ。
「他愛ない」
大煙管を受け止めると同時に義手はあちこちの噴出口から蒸気を漏らしながら、内蔵の回転鋸を飛び出させて悦花の首筋に迫ってきた。
「くっ」
身を反らして避けた悦花はそのまま身体を丸め回転させ、閻魔卿の懐に飛び込んだ。
「機械のオモチャみてえな武器に頼るなんて、情けねえじゃねえの」
かざした掌に、悦花の全身から肩、腕を通って光の波動が満ちてゆく。
見下ろす閻魔卿。
「違うぞ。機械に頼らなければ、お前を一瞬で殺してしまうんだ」
閻魔卿が生身の左手を悦花の肩にあてがった瞬間、稲妻を伴った真っ黒な波動が放たれた。
「ぶうわあっ」
地面をえぐる深い線条の跡をひきずって悦花は一気に吹き飛ばされた。
「この程度、か…」
「いいや、まだまだ」
身体の土埃を手で払いながら、悦花が閻魔卿に歩み寄る。
「このくらいじゃ、まだまだあたしの強さは確かめられないよ」
いきなり手をかざして光の波動を撃ち放った。カッと景色が一気に白む。だが閻魔卿はいとも簡単に、受けた光の波動を手で握りつぶすように消し去った。
「ん?」
だが同時に悦花は閻魔卿の胸元まで飛び込んでいた。
「たあっ」
もう一発、至近距離から顔面に向けて波動弾。首を傾けて避ける閻魔卿の足元を刈るように大煙管が横から一閃。甲高い金属音は幻鋼の煙管と魔鋼の義足がぶつかり合う音。
「まだまだっ」
光と闇、双方の波動を宿した金属同士の激しい衝突に火花が散り、激しい衝撃が周囲に広がる。
「はああっ」
悦花は大きく口を開け、腹の底から叫んだ。声に乗せて全身から絞り出す波動が閻魔卿の胸元を直撃した。
「チッ」
閻魔卿の割れた腹筋がぐっと膨隆するとともに、丹田の辺りから黒いオーラが漂い、それはまるで風船を膨らますように急激に大きく広がった。
「う、うああっ」
闇の波動のバリアは、悦花の光波動を打ち消しただけでなく、悦花の身体ごと跳ね飛ばした。
這いつくばった悦花が唇を噛みながら、また立ち上がる。
「まだ、まだまだだ…」
「ふっ」
ため息をつきながら軽く首を横に振った閻魔卿が目を見開いた。
「小娘よ」
気付くと、すでに閻魔卿は悦花の目の前にいた。
「速い…」
閻魔卿の膝が悦花の下腹をえぐる。反吐を散らしながら宙に舞い上げられた悦花が態勢を整えようとする間もなく、黒い残像を残しながら閻魔卿も飛び上がり悦花の横にぴったりとつけた。
「強さ、などと。お前ごときが口にできる言葉ではない」
魔鋼の義足がさらに悦花を蹴り上げる。
「ぐはっ」
その激しさに悦花の身体は空中でくるくると不規則に回るほど。
閻魔卿は容赦なく、悦花の頭をむんずと掴んだ。
「俺が確かめたいのは、お前の強さなどではない」
頭を割れんばかりに握られたまま真っ逆さまに落ちてゆく。閻魔卿の囁きがだけが耳に刺さる。
「くぐり抜けてきた修羅場の数が違うんだよ」
聞こえた言葉の意味を反芻する暇もないままに、閻魔卿に掴まれた頭は地面にめり込んだ。
「ぶはあっ」
全身の血管が破れそうだ。血の味の反吐が腹の奥から込み上げてくる。
反射的に全身に張り巡らせるように光の波動を放ったことで一命は取りとめたが、すぐには立ち上がれそうにない。
「う、うう…」
「よいか」
立ち上がった閻魔卿が見下ろしている。
「俺が確かめたいのは…」
起き上がるのも容易ではない悦花に向けられた閻魔卿の掌。
巨大な漆黒のオーラがモクモクと湧き上がった。
逃げられない。悦花の顔が恐怖に引きつった。
つづく