悲しみの、その先へ
富士七合目で繰り広げられる壮絶な戦い。蝦夷守龍鬼は妖怪参謀・ヌラリヒョン相討ちの果てに溶岩流に落下。
からくりの裕は宿敵・美濃太右朗を道連れに塵と消えた。
一刀彫の雅は怪鳥・虞狸奔の討伐に成功したが、全身に毒を浴び、右脚を破壊されて戦闘不能に。
そして花魁・悦花は、河童の煤が見守る中、視線を合わせれば石化してしまうという恐怖の敵・目堂娑の攻撃にただ逃げ回るばかり。
背後でかすかに草が揺らめく音で我に返った悦花。
「後ろ…いや」
目堂娑は、その目が放つ波動で独特な重圧感を伴っているはずだ。
「上だっ」
背後の気配には目もくれず、飛び上がった。
「そうかっ」
目を閉じたままでも光を感じることは可能だ。
林の木々、その葉が作る木漏れ日の地図を遮る、まるで雲のような影が左下から右上へ一気に駆け上がるの光のコントラストの変化が見えた。
「そこ…」
煙管を突き出した瞬間、強い光に襲われた。すべてが真っ白に。
「えっ、どこ、どこ?」
目堂娑は携えた剣に陽光を反射させ悦花の目に当て、ホワイトアウトさせていた。一枚上手。
「うあっ」
煙管は空を切った。同時に内臓をよじられるような痛みに襲われた。ビリビリと痺れるような暗黒波動に満ちた固い鱗の感触が腹に触れる。
目堂娑は長い大蛇の下半身を悦花の胴体に絡ませ、ギリギリと締め上げてきた。
「ぐ、ぐううっ」
あばら骨が軋む音がやけに大きく響く。
「そのひ弱な身体、まっぷたつに千切ってやるっ」
何重にも巻き付いた大蛇の尾に一気に力がこもった。悦花は反射的に丹田を踏んばらせ、全身から光の波動を放つ。
「はっ」
しかし寸前で目堂娑は下半身をほどいて逃げ、消え失せた。
一気に疲労感が襲ってくる。悦花の息が上がってきた。
「うははは、もうお終いかい。お嬢ちゃん」
嵩にかかって目堂娑が攻め込んでくる。悦花はただ、空気の流れ、音、そして光を頼りに逃げ回るのみ。
「光と影を追わなければ…」
しかし目堂娑のスピードに対して視覚を閉ざさねばならぬ状況はあまりに不利。一つ、また一つと悦花の身体に傷が増えてゆく。
「光と、影…?」
悦花は思い出したようにそっと袂の手鏡を握った。
「これなら…」
鏡を傾け、辺りを動き回る目堂娑の下半身を探す。
「そこにいるっ」
左奥から右手前へ、悦花の前を横切るように、滑るように、大きな鞭のようにうねりながら高速で移動する影。
「右から来るかっ」
にわかに感じられる重圧感を右半身に感じた。引きつけて、十分に引きつけて…悦花は迫る気配に鏡面をサッと向けた。
自らの姿を鏡で見せれば、目堂娑自身を石化させることが出来るはず。
「お前が石に…うっ」
構えた瞬間に、弓のように撓った大蛇の尾の先が悦花の右手を強く打ち払った。手鏡は放り出されマグマの川の中へ。
「使い古された戦法だよ」
すでに目堂娑は悦花の背後に。その息づかいをうなじに感じた悦花は目をギュッと閉じて身を屈める。
「くあっ」
悦花の額に一筋の傷が刻まれ、花弁を散らすように鮮血が飛び散った。身体を精一杯伸ばして大煙管を振るが、その時にはもう目堂娑は姿を消していた。
「うふふ・・・悔しいかい。ああ、お前のその顔をゆっくりと切り刻んでやるよ、その美しい顔をね」
目堂娑は、かつて絶世の美女であったことが知られている。
「美こそ大罪…美に酔い、美に浮かれる者、いずれ美を失う苦しみを知る」
突然シュッと言う音。パンと弾ける音。
「あっ」
悦花の右頬に生温かい感触。拭ってみれば、それは流れ出た血。裂ける様な痛みがそれに続く。
「うふふふ…」
どこから…何処から聞こえるのか、マグマ噴出の轟音と木々のざわめきに紛れて方向が定まらないうちに、また金きり音。今度は左の頬がえぐられる。
「く、くそっ」
苛立ちは募るばかり。次々に襲っては消え、襲っては消え。傷だらけの悦花は意を決して目を見開いた。
「尻尾かっ」
気配無く襲ってきたのは鞭のような目堂娑の尾。悦花が瞬時に両手で掴み、力いっぱい引っ張ると目堂娑が身体ごと浮き上がった。
「今だっ」
大煙管を振りかざして目堂娑に飛び掛る。
「…ん?」
悦花の脳内に直接話しかける声がした。
「待ちなさい、慌ててはいけません…」
「お、翁…いや、違う」
優しさを含んだ女性の声。
「苛立ち、怒り、焦り。お捨てなさい。己を真っ白にせねば、そこに描く絵は濁ってしまいます…」
「しかし、しかし…目堂娑はもう目の前なんだ。この一発さえ当てることが出来ればっ」
悦花はしっかりと目堂娑の姿をとらえ、煙管を波動に光らせて突き出した。
「まだ…まだその時ではない…」
脳内にこだまする制止の声にも関わらず、勝負に出た悦花。
もうすぐそこ、もうすぐに届く。思いっきり手を伸ばす。
その時、うつむいていた目堂娑が顔を上げカッと目を見開いた。
「うっ」
悦花と視線が合う。
「うあっああっ、うあああっ」
目の奥を突き刺されたような重い痛み、そこから全身に電流が流れたように鈍い痺れが走る。頭のてっぺんからつま先まで強く締め付けられるような感覚。
「目を閉じてっ」
悦花の脳内の声が叫んだ。
「早くっ」
言われるがまま目を閉じる。
「今すぐありったけの波動を身体に満たして」
さらに悦花の脳内に大きな声が響いた。
「波動の壁を作りなさい」
「はああっ」
指先から、足先から、背中から、大気中に漂う波動を集めるように。両手両足を広げ、身体と心を空にする。
そして丹田に溜まった波動の光を全身から放出し、悦花の回りをぐるりと取り囲む光の壁を作った。
「なにっ」
目を見開いたままの目堂娑に、光のバリアに包まれた悦花がもろに衝突した。
「ううっ」
バチバチと激しい火花を散らして目堂娑は吹っ飛んだ。あわや溶岩流に落ちるかという岸のギリギリで大蛇の下半身を岩に巻きつけて踏みとどまった。
「ふふふ…面白いじゃないの。お嬢さん」
ますます目を輝かせて微笑む目堂娑。
悦花は着地してからも目を閉じたまま、光のバリアを張り巡らせ、周囲の気配の変化をうかがう。
どんどんマグマの噴出は激しくなり、足場は崩れ、失われてゆく。
轟音の中の静寂。
一向に気配は変化しない。
「うふふ…いつまでそうやってるのかしら」
目堂娑のあざ笑うような声が聞こえた。右か、いや左か。
確かに、悦花はバリアを維持するため全身から波動を放出させ続けている。蓄積する疲労、いつか体力が枯渇してしまう焦燥感に襲われた。
「あはは、さっきから守ってばかり。それではあなた、永遠にこのまま。いや、いつか疲れ果てて波動が途切れるわねえ」
悦花が呟いた。
「確かに…時間が無いというのに、このままでは何も打開できない…」
同時に、またしても悦花の脳内に声が響く。
「いえ、挑発です。ここは待たねばなりません…」
「いいや、もう十分待った。待ってもただ時間が無駄になっただけ」
「慌ててはいけないのです、波動は…」
「もう待てない。そして、今なら目堂娑のすぐ後ろは溶岩流。あいつに逃げ道は無い。これ以上の機会はないっ」
悦花は飛び出した。
渾身の力で光の壁を保ったまま、真っ直ぐ突き進む。この壁ごと押し切れば…。
「うふふ、来たね」
目堂娑のかすかな笑みが聞こえたその時、地中から大蛇の尾が飛び出した。
「しまったっ」
光のバリアは地中までは行き届いていなかった。予め尾を地面の下にもぐらせていた目堂娑があざ笑う。
「お嬢ちゃん、終わりだね」
悦花の身体を這うように尾が、あっという間に巻きついた。手も足も絡め取られた悦花の首に、尾がぐるぐると巻きついて締め上げる。
「うふふふ…ああ、いい気味だ。その目をこじ開けて、わたしの姿を、私の視線をその目に焼き付けてやる」
もがいても、暴れても、尾はますます締まるばかり。
「しまった…」
「石像になったお前の悶え苦しむ姿、楽しみだよ…」
目堂娑が勝ち誇ったように笑う。
「あははは、あははは」
だが急に、目堂娑の思わぬ悲鳴が聞こえた。
「あわっ、ああっ、きゃあああっ」
「何、何が起こったの?」
悦花の全身を呪縛していた大蛇の尾はスルスルと力なく、一気に後退していった。
「い、一体何が…」
意を決して目を開いた。
「えっ」
ほんの一瞬、目堂娑の狼狽しきった、恐怖にひきつった顔が目に入った。
そしてその姿を隠すように、目堂娑に向かって飛び込んでいく男の背中が見えた。
「あとは、頼んだぞ」
一刀彫の雅。
右脚を砕かれつつ、左脚で力いっぱい踏み切った雅が愛刀・紊帝を前に突き出して目堂娑めがけて一直線に飛んでゆく。
「くたばれっ」
剣先から発せられる稲妻が、目堂娑の動きを止めて逃がさない。
裾を、袂を、マグマの熱風にはためかせながら真っ直ぐに目堂娑を見据えて視線を外さないままに突き進む。
苦悶に顔を歪める目堂娑は、稲妻を浴びながらも真っ赤に充血した目を大きく開いて雅を睨みつけた。
「おのれえっ、石にしてやるっ」
「雅っ」
叫ぶ悦花の眼前で、目堂娑の視線を浴びた雅は、刀の先、ついで指、腕、と次第に石化してゆく。
「これでいい」
巨大な石の塊と化しつつ、飛び込んだ雅の勢いは衰えないままに目堂娑にぶつかっていった。
「ぐ、ぐはああ」
雅の剣先はぶれることなく目堂娑の喉元を刺し、貫通させた。
「う…、・・・」
目堂娑は言葉を発することも出来ぬまま、その目の輝きを消した。
ほぼ全身がすでに石化した雅は、衝突の勢いもそのままに、串刺しにした目堂娑とともにマグマの川にゆらりと落ちてゆく。
「お…おれを、ふ、踏み台に…」
硬化して殆ど動かなくなった唇が、かすかな言葉を発した。
「は、はやく…悦花、はやく」
泣き叫ぶ悦花。
「雅っ、雅ああっ」
目堂娑と、石化した雅がマグマの流れに沈んでゆく。
「こ、これで向こう岸に…」
雅は完全に石に変わり果てた。
「そんな、そんなあっ」
首を横に振る悦花。しかし、この死を無駄にすることは出来ない。前に進むより、道は無い。
「うっ、うんっ」
湧き出る感情を押し殺し、嗚咽を飲み込み、悦花は走った。走り抜けた。
「ええいっ」
マグマの川の中央に横たわり、沈み行く雅。石像となったその背中に着地した。
「忘れない…」
すでに完全に石化したはずの雅の目から、一筋の涙が流れ落ちたように見えた。
「忘れないよ…」
大きく跳び、溶岩流の対岸にたどり着くことに成功した。
「雅…」
振り返ると、もはやマグマの流れは全てを呑みこんでいた。景色が歪み、揺らめくのは陽炎のせいだけではない。
「あっしも…あっしも行きます…」
ぐにゃぐにゃになった視界の向こう、溶岩流の向こうで茫然と、煤が立ち尽くしていた。
「煤…」
しかしその時、大きなマグマの噴出が起こり、煤の足元の岩場を崩し流しだした。
「うあっ、ああっ」
木々を、大地を溶かして呑み込むマグマを前に、煤は後退するより他はない。
「あっしも、あっしだって…」
悦花は首を横に振った。そして言った。
「ここからは、わたし一人でゆく」
噛み締めるように、力強く。
「後を、残ったみんなを、頼んだよ」
未練を断ち切るように背を向けた。決して振り返ることなく、山の頂を目指して走り始めた。
「ああ、もう誰も死なせやしない」
崩れ落ちるように座り込んだ煤。
揺れて霞む悦花の背中は、どんどん小さくなっていった。
つづく




