妖怪の夏、始まる
嘉永六年、モノノケたちが蠢きはじめた。
花のお江戸は「黒船」に上へ下への大騒ぎと伝え聞きます。
けれども此処、美濃は静かに、あたかも悠久の時が流れているかのよう。
蒼き水を湛えゆったりと流れる長良川、見上げれば白亜のお城。
幾多の戦乱が通り過ぎていった岐阜城を取り囲む木々の緑が美しくそよ風に揺られています。
思わず目を細める程の七月の強い日差しを避けるように、川辺の石や茅萱の下に隠れていた地蜘蛛がふと一斉に這い出した。長良川の水面に現れた影が彼らを驚かせたのであろう。
やがて水面から、ぬるりと男が顔を出した。
「暑い…いや、むしろ熱いな」
ゆっくりと河原に上った男の菅笠が陽の光を受け浅葱色に光る。
「ふう」
腰を下ろし、溜息を漏らした。
「めっきり少なくなっちまったな、『こども』ってヤツが」
焼け付くような河原、揺らめく陽炎の中に蝉の声ばかりが耳につく。
「ああ、しばらく尻子玉にありついてねぇ」
真上から照りつける太陽を眩しげに見上げた男の顔からは、緑色を帯びた粘り気のある汗が滴っている。
「危険な暑さ、ってヤツか。ふっ…」
苦笑は菅笠の影に隠れている。
「ま、近頃のガキゃひ弱だ。なんて事ぁ口が裂けても言えねえな。んなこと公言しようもんなら袋叩き間違いねえ。暑い中さらに『炎上』なんてまっぴらだ」
思えば去年も同じセリフを吐いたかな、などと思い巡らす男の後ろからそっと忍び寄り、ドンッと突き飛ばしたのは年端もいかぬ女の児。
「だめえッ」
「な、何っ」
「河童のくせに」
転げた拍子にズレた菅笠の下、黄ばんだ目が鋭く光った。
「お前ッ」
ジロリ睨む視線の先、女児の大人びた横顔に一筋の汗。
「暑い中、陸に上がったら干上がっちゃうでしょ」
「チッ…」
男は顔を緩ませた。
「なんだい、仁美ちゃんか…今どき珍しいな。外であそぶコドモ、なんて」
川原の石の熱を紛らすように裸足をバタバタ動かしながら女児は身構えた。
「あれ、もしかして、アタシの尻子玉を取って喰おうとしてない? それはしない約束よ、スウちゃん」
「まさか。仁美ちゃんみたいな大事なトモダチにそんな真似はしねえよ。だいいち、俺は約束を守る男だ。ニンゲンなんかと違って、な」
菅笠の男、名は「煤」。
河童族の末裔、つまりはれっきとした妖怪なのだが、美味い鮎に事欠かないこの長良川に棲み着き、こっそり人間社会に紛れ込んで暮らしている。
「今日は何やって遊ぼうってんだい?」
「鬼ごっこ!」
「またかい、仕方ねえな。どうせオイラが鬼の役ってんだろ」
「そりゃスウちゃん、妖怪だから当たり前ね」
「言えてる…ようし、早速行くぞっ」
蝉の合唱に割り込む二人のはしゃぎ声。
「おおい。こらあッ」
遠くから少ししゃがれた叫び声。
「あんまり大声出すなっての。また見つかって面倒な目に遭うぞ」
近寄るほどに眉間の皺が目立つコワモテ、名は夫羅。仁美の父親である。
「なあ煤よ、いつも言うが気をつけろってんだ。お前さん、妖怪なんだぜ。我を忘れて遊んでるとほら、また五月蝿い岡っ引きに見つかっちまうっての」
口から唾が飛び散りそうだ。
「仁美も仁美だ、河童なんぞとトモダチだなんて知れたら村八分になっちまうっての」
確かに、何時の世も人外は恐怖の対象。
恐れるものに対して人間という生き物は、驚くほど残虐な仕打ちをしかねない。
「ん?」
夫羅が振り向いた。何かの気配に気づいたようだ。
飛び立つ無数の鴉たちはガサ、ガサっと不気味な音を残していった。
「ほれ見ろ」
地鳴りのような音が次第に大きくなる。
「足音…岡っ引き連中か、やけに大勢だな」
岡っ引きならマシだった。
ドスン、と下から殴られるような地面の揺れ。あっという間に河川敷に地割れの穴があちこち出現した。
「こりゃマズいぞ…」
真っ黒な煙が立ち上る穴、そこから何やら這い出てくる。
「で、でけえッ」
身の丈七尺超え、隆々たる筋肉の塊を赤黒い肌で包んだような怪物たち。頭の天辺には黄ばんだツノが生え、ゴツゴツした手指の先には鋭利な爪が湾曲している。
「オ、オニだあッ!」
叫ぶ夫羅。
仁美も目をまん丸に見開いている。
「まあ、ホントの鬼ごっこになっちゃった…」
「呑気なこと言ってる場合じゃねえっての」
サッと抱きかかえたのは煤。血相変えて追ってくるオニから逃げる、逃げる。
次から次へと這い出すオニ、総勢十匹はくだらない。
「あッ」
ふと、風向きが変わった。
「さあ、また遊んでやるよ。あいも変わらず下衆な連中さね」
張りのある声。
ふかした煙管の紫煙を揺らせ、凛と立つのは花魁姿。
艷に輝く金色の髪、包むは極彩色の布。
「行くよ」
そっと微笑む。
間を置かず、その薄桃色の薄い唇に似合わぬ激しい咆哮が繰り出された。
「ハアッ!」
咆哮、というより衝撃波。何匹かのオニはこれで吹っ飛んだ。
「あら、この程度で終わっちゃつまんないじゃない」
革の脚絆で包まれたしなやかな脚が二閃、三閃するうちまた別のオニたちが地に這っていた。
「もうちょっと遊ぼうじゃないの」
鋼の煙管を脳天に叩きつけられたオニは、まるで花瓶が割れるように粉々に散った。
「こうも手応えないなんて、オニの名が泣くっての」
つまらなそうに腰掛け、煙管をふかしてみる。
「危ない、悦花ッ」
草むらに身を潜めていた夫羅が叫んだ。
そう。この花魁姿、名は悦花。ニンゲンの姿をしてはいるものの、正体は「幻怪」と呼ばれる人外つまりモノノケ。遊郭で小唄の師匠をしながら時折妖怪退治。世話役の夫羅の娘、仁美のことをまるで妹のように可愛がっている。
「おねえちゃんッ」
仁美が泣きそうになって叫ぶのも無理はない。
悦花の背後で巨大なオニが金棒を振り上げているのだから。
「ん?」
金色の後れ毛を風に揺らし、悦花が振り返った。
「ハあああッ!」
脳髄を直接殴られたような衝撃波が同心円に広がった。悦花の周囲では、空気の粒子までも押しつぶされているようだ。もちろん眼前のオニは跡形もなく蒸散した。
「しかし、懲りないヤツらねえ」
オニは恐怖など感じないのか。これだけやられてまだ怯むことなくオニたちは悦花めがけて襲いかかってくる。
「ふう、毛むくじゃらが一匹、二匹、三匹、四…」
数え終わる前に、一筋の閃光が悦花の目の前を横切った。
「あらら…」
四つのけむくじゃらは、八つになって地面に転げた。
噴き上がる青い血飛沫の向こう、怪しげに光る長刀をゆっくりと鞘に収めたのは深編みの浪人笠の男。ニヤリと浮かべた笑みに向かって悦花が不満を漏らす。
「あのねえ、一刀彫の。しゃしゃり出なくたって、あたし一人でやれたんだよッ」
「そう言うな。俺にも楽しむ権利がある」
この男、一刀彫の雅。
彼も幻怪の一人であり、普段は木彫師としてひっそり生きているが、実は暗殺剣術「無双瑞典流」の免許皆伝、と嘯く。
「この腕、鈍らせたくないんでね…」
黒の着流しに引っ掛けた南蛮羽織がフッと揺れた。再び抜かれた刀が薄ら青く光るやいなや、飛び込んできたオニは縦に真っ二つ。
「これなら返り血も浴びずに済む」
太刀さばきのあまりの速さゆえオニの切り口は焼け焦げ、シュウと煙っていた。
「ぎゃああああッ」
激しい叫びに悦花と雅が振り返った。
草むらに隠れていたはずの夫羅と仁美が三匹のオニに囲まれていた。逃げ場はない。
「怖いいいッ」
今まさに金棒が振り下ろされんとしている。仁美は泣き顔で目を閉じた。
その時、ヒュッと吹いた一陣の風。続いて衝撃音一つ、二つ、三つ。
「えっ」
恐る恐る目を開いた仁美の前には、首根っこに深々と矢を突き立てられたオニの亡骸たち。やがてどす黒い体液を垂れ流しながら融解していった。
「ほう」
煙管を咥えた悦花が見上げているのは、長良川に掛かる大きな橋の欄干。
「狙いは完璧だねえ、いつもながら」
視線の先には長弓を携えた男、こちらに向かって親指を立てながら嘯いた。
「あと一里離れたって、狙いは外さんよ」
からくりの裕、と名乗る彼もまた幻怪の一人。
手製の弓矢の威力はご覧の通りだが、人間界では知られていない薬草を利用した薬師として日々を送っている。
欄干に踏ん張った裸足にサッと草履を履き込み、やや派手な意匠の羽織を抱えて河川敷に降りてきた。
「なんだい、もうお終いか。オニといっても手応えねえな」
スーッと邪気が遠のいていくのが感じられる。
「さあ、さあ」
甲高い声が生ぬるい風に漂ってきた。
「オニどもめッ」
薄汚れた烏帽子の下、黒い眼帯に右目を隠したアイヌ服の男が、草むらから飛び出した。
「どこだ、どこに隠れやがったッ」
南蛮拳銃をあちこちに向けつつキョロキョロあたりを見回すたびに、身体のあちこちにくくりつけられた装飾品がジャラジャラと音を立てる。
「俺さまが来たからには…」
微妙に目を合わせないようにしながら、悦花たちに近づいてきた。
「あのな、蝦夷の」
「んあ?」
「遅いっての、今頃。もうあたしらが全部倒しちまったっての」
呆れ口調の悦花。
わざとらしく申し訳なさ気な顔をするこの男も幻怪の一人、蝦夷守龍鬼。
妖怪退治の武器は短筒でも刀剣でも何でもあり、それより策士と自負している様子。普段の生業、ホネツギの技術は南蛮流と言い張っているが真偽の程は定かでない。
これ見よがしに龍の刺繍があしらわれた黒羽織をたくし上げ、真っ赤な裏地を顕にさせながら皆の顔色を見て回る。
「ああ、ほんのちょっとだけ、遅かったのねえ」
バツが悪そうにしているようで、実は全く悪びれていないようにも見える。
「ほら、すぐそこの。伊奈波のお社近くに団子屋でご馳走になってて、ね。そりゃすぐにでも飛んで来たかったが、なにしろ残すのも申し訳ないだろ?」
引きつったように笑顔を作ってみる。
「いや、これでも一個は残してきたんだ…あ、そうだ。今度みんなで行こうよ、一緒に」
無表情のまま、一刀彫の雅がボソッとつぶやいた。
「ああ、お前のおごりで、な」
「…」
固まる蝦夷守。仁美が駆け寄ってその肩を叩いた。
「やったあ、あたしにもおごってね」
「……」
少し薄気味悪い笑顔を作った夫羅も。
「じゃあ、あたくしも便乗して」
「………」
オニの襲撃に成功した幻怪戦士たちであったが、近年では天変地異が続き、妖怪絡みと思しき不可思議な事件も相次ぎ、黒船来航にとどまらず、人々の不安と恐怖は日毎増してゆくばかり。
「ともあれ、今回は一件落着…んッ」
胸を撫で下ろす一行の目の前、長良川がにわかにザザッと波立った。
「ま、またかッ」
つづく