別れの時――――…………の筈だった。
グランゲルドの東方。
そこそこに活気のある街で。
フリージアの手を引いたオルディンは、街一番の有力者の家の前に立っていた。
彼はムスッと膨れっ面をしている子どもを見下ろし、もう何度も繰り返してきた台詞をもう一度口にする。
「いいか、これは最初から決まっていたことなんだからな? お前を預かった時から、一年だけって約束だったんだからな?」
フリージアは肯かない。
キッと彼を睨み付けている緑の目は、微かに――いや、はっきりと、潤んでいる。
――クソ。
何故か、みぞおちの辺りがシクシクと痛む。オルディンは無意識のうちにそこをさすりながら、扉を叩いた。
「こんにちは――?」
扉を開けて姿を現したのは、四十路と思わしき女性だ。
黒髪と赤毛、全く似たところのない青年と幼女の組み合わせに、浮かんでいた笑顔がいぶかしげに曇る。
「あの……?」
「ああ、すみません。俺はオルディン、こいつはフリージアと言います」
そう言って、オルディンは笑顔を作って見せる。
フリージアと過ごすようになって、一年。
陰に身を潜めるようにして生きてきたオルディンも、この一年のうちにすっかり『普通の遣り取り』が身に付いた。今の彼を見て、暗殺を生業にしていたと思う者はいないだろう。
「実は、俺は雑用を請け負いながら旅暮らしをやってるんですけど、ここから西の方の森でこいつを拾ったんです」
言いながら、彼の脚にしがみついていたフリージアを前に押し出す。
「どうもこいつの親は獣に……」
そこで曖昧に言葉を濁すと、人の好いグランゲルドの民は簡単に騙されてくれる。女性は浮かべていた表情を一気に同情に転じ、身体を引いて扉を大きく開けた。
「まあ、可哀相に。どうぞお入りなさいな」
「――どうも」
見も知らぬ他人を何の疑いもなく家の中に招き入れるこの国の人々に、オルディンは未だに呆れてしまう。
居間に通されお茶を供され、オルディンは神妙な顔で話を切り出した。
「――それで、こいつを拾ったはいいですが、俺も旅暮らしなんで落ち着いた生活を与えてやれないから、できることならこの街で誰か引き取り手を探してもらえないかと思うんです」
「そうよね。こんな小さな女の子に旅暮らしなんて、無理ですものね。大丈夫よ、きっと良い家庭を見つけてあげるから」
彼女はフリージアに慈愛に溢れる目を向け優し気に微笑んだ。
本当に、この国の人間は人が好い。
組織に属していた頃、オルディンは東西南北様々な地域に赴いたが、この国ほど御し易いところはなかった。
やれやれと息をつく彼に、女性がさらにお茶を勧めてくる。
「この子はここで預かりますけど、あなたはこれからどうなさるの?」
「ああ、俺は――」
正直言って、何も考えていない。
「もう少し東の方に行ってみます」
思い付きでそう答えると、彼女は小さく首をかしげる。
「ここから東は、もうあまり何もないと思うけど……」
「まあ、気ままな一人旅に戻るんで、あちこち見て回りますよ」
「それも良いわね。若いうちに経験できることはしておいた方がいいものね」
「はい、ようやくまた身軽に動けるようになりますし」
そう答えて、オルディンは茶を飲み干した。
「じゃあ、俺はこれで。……こいつのこと、頼みます」
見下ろしたフリージアはうつむいたままだ。
子どもは、この家に、いや、この街に着いてから、一言も発していなかった。いつもは姦しいのが黙りこくっていると、何となく不安になる。
「ジア?」
呼ぶと、顔は上がった。膨れっ面が。
「俺は行くからな」
返事がない。
――サヨナラの一言くらいは言えよ。
そうは思ったが、フリージアを置いてけぼりにするのはオルディンなのだ。
彼は赤い巻き毛をクシャクシャと掻き混ぜて、その家を後にした。
*
ブラブラと街の中を歩くオルディンは、さてこれからどうしようかと考える。
――じきに夕方だし、取り敢えず今晩はこの街に泊まっておくか。
太陽はまだ真上を少し過ぎた辺りに居座っていることは無視して、彼は、宿屋を探す。
一泊……いや、もしかしたら二泊か三泊くらい、フリージアがこの街に馴染んだのを確認できるまで、いてもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、オルディンは歩く。
じきにこじんまりとはしているが居心地が良さそうな宿を見つけ、そこに部屋を借りた。
寝台に寝転がると、外の喧騒が窓から入り込んでくる。
通りで交わされる話し声。生活する人々がたてる、様々な物音。
普段は気に留めもしないそんなものが、今日はやけに耳につく。
――いつもは、あいつの声の方がやかましいんだよな。
オルディンは寝台の上でごろりと寝返りを打った。
そうすると必ず視界に入ってくる姿も、今はない。
……落ち着かない。
一人で動いてきた年月の方が遥かに長いというのに、あの子どもと共に過ごしたのはたった一年のことだというのに、この静けさが落ち着かない。
お互いにとって、これが最良の道だ。
そもそもオルディンは子どもの相手など向いていないし、フリージアだっていつまでもその日その日の旅暮らしを続けさせるわけにはいかないだろうし。
「だから、これが一番だ」
声に出して、呟く。
枕を被って目を閉じる。
寝台から下りて部屋の中をウロウロと歩き回る。
窓から人の動きを眺めてみる。
――……落ち着かない。
ちょっと、様子を見てこようか。
別れ際にもろくに目を合わせようともしなかったフリージアの態度が、気にかかっているのかもしれない。
屈託のない彼女のことだから、きっと、もうケロリとしている筈。
楽し気にしている姿をみれば、腹に居座る変なしこりも消え失せるだろう。
そう決めれば動くのは早い。
部屋を出たオルディンは宿屋の主人にひと声かけて、フリージアを置いてきた家へと向かう。
駆け足に近い歩みで通りを急ぐオルディンだったが、道を半ばほど進んだところで横合いから声をかけられた。
「オルディンさん?」
そちらに顔を向けると、立っていたのはフリージアを預けてきたあの女性だ。
駆け寄ってきた彼女は、眉を曇らせた。
「あの、フリージアを見かけませんでした?」
「え?」
「あの子、あなたについて行ってしまったみたいで……あなたが帰ってからしばらくして、いなくなってしまったんです」
「あのバカ」
思わず舌打ちを漏らしたオルディンに、女性が一層申し訳なさそうに肩を縮める。
「ああ、いや、あなたの所為じゃないですから。俺も探します」
そう言い置いて、すぐに走り出した。
オルディンは、すれ違う人に片っ端から赤毛の子どもを見なかったかと訊いて回る。ちらほらと現れる目撃証言を集めてみると、どうやら東に向かう街道につながる街の出口へと向かっているようだ。
――まさか、俺が言ったからか?
女性の家にいた時、特に深い意味もなく東の方へ行ってみるとこぼした記憶はある。
あれを、鵜呑みにしたのか。
フリージアがいなくなってから、結構時間が過ぎている。
もう、街の外へと出てしまったのだろうか。
平和な国ではあるが、街から出れば獣もいる。それに、道に迷うかもしれない。
「あのバカ」
もう一度呟いて、オルディンは本格的に走り出した。
*
道の向こうに、小さな影。
緑の平原に、深紅の髪が映えている。
活発とは言え所詮は子どもの足で、街からそれほど離れることなくオルディンはフリージアに追いつくことができた。
「ジア!」
名前を呼ばわると、一心不乱に歩いていた子どもがピタリと止まる。
振り返り、オルディンの姿に気付いたのが判った。刹那、彼めがけて放たれた矢のように駆け出してくる。
「オル!」
飛び込んできた小さな身体を抱き留めると、ギュウと首にしがみついてきた。
「ジア……この、バカ……」
頭に拳骨を食らわしてやりたい気持ちとこのまま抱き締めていたい気持ちとがオルディンの中でしばし戦い、そして、後者が勝った。
彼は柔らかな温もりを抱き締め赤毛に頬を埋める。
途端、あれほど落ち着かなかった気持ちが、すとんと治まった。
「置いてっちゃ、やだぁ」
ワンワンと泣き出したフリージアを揺すりながら、オルディンはため息をつく。
「……悪かったよ」
しゃくりあげる背中に、彼の胸も痛んだ。
こんなに小さいのだから、仕方がない。
まだ、時期が早過ぎたんだ。
胸の中にすっぽりと納まってしまう身体をいっそう深く包み込み、オルディンはそう自分に言い聞かせる。
せめてあと一年、一緒にいてやろう。
そうすれば、フリージアももっとものの道理が判るようになる。
きっと、それでも遅くはない筈だ――彼女を手放すのは。それからでも、フリージアは平凡で幸せな人生を歩めるようになる。
……その一年が二年になり、三年になり、やがて十年を過ぎることになるとは、この時のオルディンは夢にも思っていなかった。