いつの間にか
――そうか、もうそんなに経つのか。
フリージアと旅立ってからおよそ二ヶ月。
いつものようにふらりと姿を現したラタがもたらした手紙を指先でつまむようにして眺めながら、オルディンは胸の中でため息をつく。
それは手紙というより紙切れで、記されている文字もほとんど殴り書きのようなものだ。
内容はと言えば。
『四歳の誕生日を祝ってやってくれ。あの子は黒イチゴのジャムが好きだ』
――それだけ。
届いたのは二日前のことだが、まだ何もしていない。
「……黒イチゴのジャムが好きだったって、どうすりゃいいってんだよ」
オルディンはガシガシと頭を掻きむしる。
そもそも、彼はジャムというものを目にしたことがない。食生活に、『嗜好品』というものが存在したことがなかったのだ。
だから、どこで手に入るものなのかも判らない。
基本、日用品やら仕事に必要なものやらは組織から支給されていたし、仕事に出向いた時の食料などは現地調達――そこらを走る野の獣や何かだった。
それでもたまには店に立ち寄ることもあったが、必要に迫られ実用的な物を求めるくらいで、ジャムなどというものには目もくれたことがない。
「取り敢えず、食いもんが置いてあるところに行ってみるか……?」
確か、雑貨屋のようなものがあったはずだ。
今回立ち寄ったこの鄙びた村では品揃いはたかが知れているだろうが、他にさっぱり手を思いつかないのだから仕方がない。
背を預けていた樹からよっこらせと身体を起こし、フリージアを捜しに行く。
二十戸ほどの小さな村だし、危険の欠片もないところだったから、村を囲う柵からは出ないようにと重々言い含めたうえで、子どもには好きにさせていた。
転がるようにどこかへ駆けていってから、もう半刻ほどにはなる。やたらに人懐こい奴だから、どうせ村の子と遊んでいるのだろう。
フリージアがいるのは、中央の広場の方か、外れの空き地の方か。
まずオルディンは、ぶらぶらと中央の方へと行ってみた。
いない。
――空き地の方か。
広場を一瞥し、捜す姿がないことを確認して踵を返した時だった。
「うぁああああん」
次に向かおうとした方角から突然響いてきたのは、子どもの泣き声――叫び声だ。
フリージアの声ではない。
即座にそう聞き分けたが、あの子どもが無関係だとは思えなかった。
オルディンは考えるよりも先に走り出す。
すぐに見えてきたのは、犬と、フリージアと、四、五人の子どもたち。
村の外から紛れ込んできたのだろうその犬は、フリージアの倍以上の大きさがある。頭を低くして今にも跳びかからんばかりに唸り声をあげている獣の前で、こちらに背を向けたフリージアは、何の役にも立たなそうな木の枝を持って仁王立ちになっていた――背後に、明らかに彼女よりも年長の子どもたちを庇って。
ちょっと待てなんでお前が前に立っているんだむしろお前は普通庇われる側だろう――などなど一瞬にしてオルディンの頭の中をよぎっていく中で、彼の身体は思考とは別に動き出していた。
「ガァアッ!!」
吠え声と共に地を蹴った犬との距離を三歩で詰め、通り抜けざまにフリージアの襟首を引っ掴んで脇に抱える。同時に歯を鳴らす犬の鼻面に狙い違わず回し蹴りを叩き込んだ。
「キャゥン!」
「オル!」
小山のような図体から情けない悲鳴が上がるのと、腕の中から歓声が上がったのとは、ほぼ同時のことだった。
もんどりうって地面をのた打ち回っていた犬は、四肢をバタつかせながら立ち上がると、悲愴な悲鳴を上げながら尻尾を巻きこんで走っていく。
その声も姿も消え去るのを待って、オルディンは肩の力を抜いた。
走った所為ではないだろうに、未だに心臓がバクバクと激しく打っている。小脇に抱えた子どもを見下ろすと、彼女は犬が逃げていった方を見つめていた。細く柔らかな身体に回したままの腕に、何故か無性に力を籠めたくて仕方がない。
――なんだ、これは……?
胸の辺りが焼けるような奇妙な感覚が、彼の内側を舐めていた。
痛みに近いその感覚に、オルディンは胸元を握り締める。
「オル? どこか、ケガした?」
彼のその仕草に気付いたフリージアが、首をかしげて案じる眼差しで彼を見上げてきた。
「何でも……ない」
「でも――」
「何でもない」
ぴしゃりと遮ると、子どもは一瞬目を丸くして更に言い募ろうとした。
が、そこでようやく騒ぎに気付いたらしい村人たちがわらわらと集まってくる。
「どうしたんだ?」
「何事?」
姿を現した大人たちに、しゃくりあげていた子どもたちが一斉に駆け寄っていった。
「おがぁざぁん」
「どうざぁん」
ほとんど悲鳴のような子どもたちの泣き声が響く中で、オルディンはやれやれとため息をつき、彼が抱えた子どもを見下ろした。
その視線に気付いたのか、深紅の巻き毛に包まれた頭が上がる。
彼と目が合うと、フリージアはニッと笑顔になった。
「オル、すんごいね」
――緊張感の欠片もない。
思わず、特大のため息がこぼれた。
「お前な、何やってんだよ」
「? なにって?」
きょとんと見返してくる新緑の瞳。
「ああいう時はさっさと木にでも登れよ。お前なら余裕だろ? あんなバカでかいのとまともに遣り合おうなんざ、お前はバカか?」
オルディンの台詞に子どもはムッと唇を尖らせた。
「でも、ほかの子は? のぼれない子はどうすんのさ」
「そんなのお前には関係ないだろ」
「かんけいなくないよ」
「ねぇよ」
「ある!」
黒い瞳と緑の瞳が火花を散らす。
と、そこへ。
「あんたがこの子ら助けてくれたんだって? ありがとうよ。なんかあっちの方で柵が壊れてたみたいなんだ。ほんと、助かったよ。ありがとう」
「別に、そいつらを助けたわけじゃ――」
ぞろぞろと集まってくる老若男女に、オルディンは気まずげに目を逸らす。
「いやいや、あんたが間に合わなかったらどうなってたことか」
「ホント、ホント。ああ、考えただけでも泣けてくるよ」
「命の恩人だよね」
気まずい。
非常に気まずい。
重ねて言うが、彼の基本は隠密行動だ。
加えて、こんなふうに感謝の言葉を浴びせられることなどついぞなかったことだ。
所在無くまた小脇に抱えた子どもを見下ろすと。
「よかったねぇ、オル!」
――返ってきたのは輝かんばかりの満面の笑みだった。
*
「ねえ、オル。ホントにこれ食べていいの?」
何やら黒々しいものが詰まった瓶を抱えたフリージアが、緑の目を一層煌めかせて問うてくる。
「? ああ。それ、黒イチゴのジャムなんだろ?」
「うん!」
頷く子どもは、この上なく嬉しそうだ。
犬を追い払った礼をしたいと言う村人に、ものは試しで黒イチゴのジャムを要求してみたら、出てきたのはフリージアの頭ほどもありそうな瓶だった。
それを抱き締め、オルディンの前で子どもは期待と喜びに顔を輝かせている。
「だったら食えよ」
「かあさまは、これだけで食べちゃダメって、いつも言うの。あますぎだから、ダメって」
――そうなのか。
しまったと思った時にはもう時すでに遅し。
フリージアは瓶の蓋を開け、さっそく中に指を突っ込んでいる。
「あまぁい。おいしぃい」
パクリとやった瞬間、子どもの顔が幸せこの上ないといわんばかりに綻んだ。
釣られて彼の顔まで緩んでしまいそうになる。
それを引き締め、オルディンはさっき中断されてしまった遣り取りをまた持ち出した。
「なあ、ああいう時は、さっさと逃げるのが筋なんだからな」
「え?」
「自分が敵う相手かどうか、見極めろよ。お前はガキなんだから、基本は逃げ一択なんだよ」
「にげるの?」
「ああ」
「でも、みんながいたし」
「他の奴がいようがどうしようが関係ねぇの。大事なのはお前なんだよ」
眉間にしわを刻んでオルディンが頷いてみせると、フリージアはしばし瓶の中に視線を落としていたが、唐突にパッと顔を上げて巻き毛を揺らしてかぶりを振った。
「ムリ」
「はぁ?」
「ムリ。にげられない」
「できるだろ」
「できるけどにげない」
きっぱりと言い切る。
そうして子どもは、それでおしまいとばかりにまた瓶の中に指を突っ込み始めた。
ジャムを貪りご満悦なフリージアを前に、オルディンは大きく息を吸い、止め、そして――吐き出した。
もっと何か言ってやろうと思ったが、やめた。
何をどう言っても、指一本で弾き飛ばせそうなこのちっぽけな子どもに勝てる気がしないのは何故だろう。
言葉の代わりに手を出して、丸い頬に付いたジャムを親指で拭う。
オルディンは束の間その黒い物体を眺め、舐めてみる。
甘い。
甘くて少し、酸っぱい。
なんだか視線を感じて顔を上げると、大きな緑の目が興味津々な様子で彼を見つめていた。
「何だよ?」
ムスッと言うと、子どもはニパッと笑った。その頬には、また、ジャムが付いている。
「おいしい?」
開けっぴろげな笑顔に美味しい筈だと言わんばかりの眼差しでそう問われて、否と答えられる者がいるだろうか。
「……ああ」
仏頂面でそう返せば、子どもはまた笑う。
「はい」
差し出された瓶に、オルディンは束の間眉間にしわを寄せ、そして指を突っ込む。
甘酸っぱいそれを口に運び、彼の倍の速さで手と口を動かす子どもを眺めながら、思った。
行動を共にしている間に、せめて自分の身を守れるだけの術は教え込んでおこう、と。
――あと一年足らずの間にできることなど、たかが知れているかもしれないが。
いや、さしあたって、別れた後もこいつが何事もなく生きていけるようになるくらいまでは、一緒にいてやってもいいのかもしれない、と、少しだけ――ほんの少しだけ思った、オルディンだった。
いつの間にか、こうやって段々と洗脳(悩殺)されていくのですよ……