エピローグ
この北の地でも、春になればあちらこちらに緑が見られるようになる。
かつて、ここには灰色と茶色しかなかったと言っても、誰が信じるだろう。深く息を吸い込めば、辺りを漂う微かな花の香りが鼻孔をくすぐるというのに。
そっと頬を撫でていく風は、柔らかく、一年の半分は分厚い雪雲で覆われている空も、今日は薄雲を残すばかりで晴れ渡っていた。
ソルは目を閉じ天に向かって手を差し伸べる。この地を、この空を慈しむ気持ちを込めて、彼女は己の力を放出した。やんわりと温められた空気が、糖蜜が流れるように動き始めるのが感じられる。
急いではいけない。
ゆっくりと、じっくりと。
慎重に力を調節する。
動いた空気は、風を生み、雲を作り、雨を降らせる。
そうして、このニダベリルの地を潤していくのだ。
およそ百五十年前にニダベリルの各地に送られたエルフィア達は、火を、大地を、水を、風を操る力を駆使して荒土を変えていった。それには長い時間がかかったが、当時のニダベリル王アウストルは予想外に辛抱強かった。不満や不安を抱いた民を彼は揺らぎなく支え、グランゲルドの助けを借りながら、つらい時期を乗り切った。
やがて約束の十年が過ぎた時、アウストルは軍を南に送ることはしなかった。傍らで穏やかに微笑む妃と共に、民の安寧を見守るのみだったのだ。
サワ、と風がそよぐ。
ひとしきり力を行使したソルは再び目蓋を上げ、ゆっくりと辺りを見回した。
かつては荒涼とした、岩と砂ばかりだった大地には、今、確かな命の息吹がある。
自分達が立っている地が変わるにつれ、ニダベリルの民はいつしか手にしていた剣を鍬に替えていった。潤沢な、とは言えない。けれども、自らの土地で自らの糧を得られる誇りは、力で他者を制して得られるものを上回ったのだ。
そしてまた、以前ニダベリルと他部族とをつないでいた一方的な支配関係も、今では互いの利点を活用した持ちつ持たれつの間柄へと様変わりしていた。技術を、文化をやり取りし、互いにそれを高めていく。以前は『国』と呼べる規模のものはニダベリルとグランゲルドくらいであったが、ここ五十年ほどの間にそれに近いものがちらほらと造られ始めていた。
ニダベリルとグランゲルドの関係はと言えば、数代前のニダベリル王にグランゲルドの王女が嫁ぎ、今では両国の結び付きは揺るぎないものとなっている。
あの戦い以降、ちょっとした部族間の小競り合いはあるものの、大きな戦火はどこにも上がっていなかった。問題を解決する手段として、武力よりもまず言葉を交わすことから始めるようになったのだ。
――これは、あなたの望んだ未来になっているのかしら?
ソルは脳裏に浮かぶ深紅の髪、緑の瞳の娘に問いかける。彼女が喪われてからずいぶん経ってしまったけれど、記憶の中の面影は少しも色あせることがない。
ふと寂しくなって空を見上げた彼女は、南の空に浮かんだ小さな点に目を留めた。
「あら」
緩んだ唇から思わずフッと笑みが漏れる。
その点は彼女が見守る中で見る見るうちに大きくなって、じきにその形がはっきりする。
鳥ではない。もっと、大きなもの。
それは、彼女も良く知る姿だった。
今でも残されている、大事な人の思い出を共有できる、数少ない相手。言葉は通じないけれど、気持ちを通じ合わせることはできる。
飛来した巨大な翼竜が地面に足を着けるや否や、その背から小さな影が飛び降りた。
「ソル!」
毬のようにぶつかってきたその身体を、ソルはよろけながらも受け止める。
「もう……また来ちゃったのね?」
「だって、会いたかったんだもん」
ソルの腰にしがみついて、悪びれることなくそう言いながら見上げてくるのは、黒髪緑眼の少年だ。年の頃は、フリージアに会った頃のソルよりも、ヒトの年で言って二つか三つ上なくらいか。こうしてみると、彼女の目に自分がどれほど幼く映っていたのか、よく解かる。
「お母さん達には言ってきたの?」
「あはは」
「笑ってごまかさないの! だいたい、スレイプだって、もうおじいちゃんなのよ? あんまり無理させちゃ、可哀相でしょ?」
「スレイプがイイよって言ってくれたんだ。ね、スレイプ」
そう言って、少年は屈託なく笑う。スレイプはそれに答えてクルルと甘えるように喉を鳴らした。
翼竜の寿命は二百年弱だそうだから、百六十年以上生きているスレイプはかなりの高齢になる。それでも、大好きだったあの二人の末の少年に頼まれれば、喜んで応じてしまうのだろう。
「みんな、心配してるわよ?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ! ねえ、またあの二人のお話してよ」
そう言ってソルを見上げてくる目は、まるであの頃に戻ったかのような錯覚を彼女に起こさせる。
「もう、何度も話してあげたじゃない」
「だってさ、文書で読むより、ソルが話してくれるフリージアの方が、ずっといいんだもん。僕もフリージアみたいになりたいんだ。フリージアみたいに、みんなを護るの。だから、いっぱい聞いとかないと。もっと大きくなったら、ソルのことだって僕が護ってあげるんだからね」
「ふふ……」
両手を握って力説する少年が微笑ましくて、ソルの口からは笑みが漏れてしまった。当然のことながら、少年は鼻息荒く主張する。
「ホントだよ、僕、強いんだから!」
「ゴメンゴメン……ありがと」
ソルは囁き、彼女の胸ほどまでしかない彼を抱き締める。
「じゃあ、話してあげるね。わたしが彼女と出会った時から」
「うん!」
顔を輝かせて頷く少年。
この子どもも、あっという間に大人になって、あっという間にソルを置いていってしまうのだろう。エルフィアに比べてヒトの巡りはあまりに早い。
でも。
彼等を喪うことは確かに寂しいのだけれども、不思議とソルは悲しくはなかった。
クルクルと入れ替わりながらも、ヒトはその想いをちゃんとつないでいってくれるから。
フリージアが護りたいと思ったものは、ちゃんと、今でも護られ続けている。大事なものは失われずに、『次』へと渡されていくのだ。きっとそれは、絶えることはない。
――いつまでも、いつまでも。
『ジア戦記』、本編はこれにて終了です。
読んで下さった方々、お気に入り登録をしてくださった方々、評価を入れてくださった方々、ランキングをクリックしてくださった方々、ありがとうございました。
馴染みのない分野で暗中模索で書き進めたこのお話、目に見える形で「OK」を出していただけたことは、とても励みになりました。
重ねてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
ひとまず『完結』とさせていただきますが、ゲルダの物語など、忘れた頃に外伝を投稿するかもしれません。もしも興味がおありでしたら、ご覧になっていただけたら幸いです。
https://twitter.com/tourinsyosetu でキャラクターの名前の由来など呟いてみてます。




