そして、新たな朝の始まり
フリージアとアウストルがルト川で剣を交えてから七日後、両軍の将達はグランゲルド最北端の砦で相対していた。
ニダベリルもグランゲルドも、大軍の姿はない。ニダベリル軍には食糧を分け与え、五十名ほどの騎馬兵を残すことを許して後は国境まで下がらせた。一方、グランゲルド軍も本来の国境警備隊を連れ戻しただけで、残りはルト川北岸で待機させている。
今、砦の会議室では、ニダベリルからのアウストル、イアン、フィアルが、グランゲルドからのフリージア、ビグヴィル、スキルナ、そしてエルフィアのフォルスが顔を揃え、卓を挟んで向かい合っていた。バイダルとオルディンも砦に付いてきているが、会議室の外に控えている。
「では、休戦の条件は十年間の不可侵、これで良いのだな?」
すっかり傷も癒えたアウストルが、グランゲルドの面々に対して悠然とそう確認する。その言葉と共に、彼は署名した調印書をフリージアに向けて押しやった。
「うん、取り敢えずはね」
フリージアはコクリと頷くと、受け取った書類に記されているアウストルの名の隣に、フレイの代理として自分の名前を書き込む。そんな彼女に、アウストルは薄い笑みを浮かべた。
「十年もあれば、グランゲルドの周辺は全て我がニダベリルのものになっているだろうな。そうなれば、次は勝ち目がないぞ?」
挑発しているようにも取れる台詞だ。
署名を終えたフリージアは筆を置くと、アウストルを真っ直ぐに見つめる。そして、もう一つの『本題』を切り出した。実を言えば、彼女にとってはこちらの方が、叶うことをより強く望んでいる願いなのだ。
「そうかもしれないね。だから、実は他にも提案があるんだ」
「……提案?」
欲しいものがあれば力尽くで奪ってきたアウストルである。誰かに差し出された物を受け取ったことなどない。フリージアの口から出た耳慣れない言葉を、彼は繰り返した。
訝しげなアウストルに、フリージアは笑顔で答える。
「そう、提案」
彼女はもう一度その単語を口にし、フォルスに目をやった。そしてまた、アウストルを見据える。
「ニダベリルから、技術を提供して欲しいんだ」
「何?」
アウストルが更に怪訝な顔付きになる。笑顔を消したフリージアは、卓の上にわずかに身を乗り出した。
「ニダベリルに『物』がないのはよく解かってるよ。でも、その代わりに技術力はスゴイでしょ? それをこちらにも伝えてもらいたい――別に、武器とかのじゃないよ。色んな建築物の造り方とか、そういうのでいいんだ」
「戯言を」
アウストルはフリージアの依頼を一笑に付す。イアンとフィアルも同様の表情だ。だが、彼女はそれに構わず更に重ねて告げる。恐らく、彼らが決して拒まないだろうことを。
「その対価として、こちらからは、エルフィアの力を提供する」
ニダベリルの面々から、一瞬にして嘲笑が消え去った。交代で、フリージアの内心を窺おうとする光がその目に浮かぶ。彼女はその三対の眼差しを真っ向から受けて立った。
「そっちに引き渡すんじゃないよ。ニダベリルの大地を豊かにする為に、グランゲルドの国民として派遣するんだ。当然、グランゲルドの庇護下に置かれる。大事なグランゲルドの民だ。もしも前のようにひどい扱いをしたら、こちらもそれなりの手を打たせてもらう」
きっぱりと、フリージアはそう言い切る。戦いも辞さないという意志を込めて。
彼女の台詞を引き取って、フォルスが穏やかな声で告げる。
「我々はこれまで、この力をヒトに対して用いることを禁じてきた。そうすることで身を守っているつもりだったのだ。争いを避け、彷徨うことで身を守ってきた。だが、グランゲルドが我らに居場所を作ってくれた今、場合によってはこの力をもって抗うこともしよう」
つい先日桁違いのエルフィアの力を目の当たりにしたニダベリルの面々は、椅子の上で微かに身じろぎする。
「それにね、無理やり言うことを聞かせるよりも、お願いして、その気になってやってもらった方が、断然効果は上がると思うんだよね」
首をかしげたフリージアの台詞に、アウストルは微かに渋い顔になった。
「確かに、随分と出し惜しみはされていたようではあるな」
「多分、嫌々やってたんじゃ、半分も力を発揮してくれてなかったんじゃないかな。だから、エルフィアがいた頃もニダベリルの土地はあまり良くならなかったんじゃないの?」
「ニダベリルのあの大地が、グランゲルドのようになるとでも?」
「それは、やってみないと判らないけど……でも、今までしたことがないんだから、試してみる価値はあるでしょ?」
「確かに、な」
ふと、アウストルが口元を緩める。それを笑みと受け取って、フリージアはパッと笑顔を返した。
「あと、少なくとも十年間は同盟国になるのだから、その間の食糧問題は援助するよ」
「食糧を、か?」
「そう。その代り、周辺に攻め入るのも、止めて欲しいんだ」
「何?」
片方の眉を吊り上げたアウストルに、フリージアは真面目な顔付きになって、説く。
「グランゲルドもそうだけど、今回の戦いで、ニダベリルも失ったものがあるよね。それは少なくない筈だよ? これまでの分も入れれば、少なくない、なんて言えないくらいでしょ? もう、充分だと思うんだ。グランゲルドのことじゃなくても、もう繰り返して欲しくないんだよ。あたしはこの戦いで失ったこと以上のものを、手に入れたい。この戦いを、意味のあるものにしたいんだ。これからの十年間を、その為に使いたい」
フリージアは一度言葉を切り、アウストルを見つめる。
「あたしは、戦いのない世界が欲しい。誰かが生きる為に誰かが死ぬのなんて、嫌なんだ」
「……そんなことが可能だと思うのか? 料理の皿の数は、決まっているものだ」
「それも、やってみないと判らない。けど、やってみる価値はあるでしょ?」
「楽天的なのか悲観的なのか、判らん奴だな……ゲルダなら、できると断言するだろうよ」
「あたしは母さんじゃないもの。そんなに自信満々にはなれないよ。でも、やれるだけのことはやってみたい」
少々、拗ねたような口振りになってしまう。そんなフリージアをアウストルはジッと見つめ、そして、微かに笑んだ。
「賭けてみよう」
「え?」
アウストルの答えにフリージアは眉をひそめる。彼は肩を竦めると、続けた。
「これからのニダベリルの十年間を、貴殿の見ている夢に賭けてみるさ」
「じゃあ、条件を呑んでくれるの?」
「十年間は、な」
アウストルは頷く。
「ありがとう!」
思わず満面の笑みで返したフリージアに、アウストルは何故か目を眇める。まるで太陽をもろに目にしてしまったかのような所作だった。
「アウストル王?」
首をかしげたフリージアを彼はジッと見つめていたが、やがて首を振る。
「いや――では、話し合いはこれで終わりだな」
「うん。お互い、帰る準備をしないとね。色々準備しなくちゃ」
そう答え、フリージアはそそくさと立ち上がる。こうなれば一刻も早くフレイに首尾を報告したいところだ。さっそく早馬を送らなければ。
彼女が動いたのを皮切りに、他の者も次々と席を立つ。
「では、足の遅い我らは一足先に帰途に着くとしましょうぞ」
「あ、うん、ビグヴィル将軍。あたしはもう少し後始末していくよ。王様達に報告お願いね」
「承知」
「ロウグ将軍も、できるだけお早く王都に戻られますよう。サーガ様も心配しておられるでしょう」
相変わらず娘のことを他人行儀に呼ぶスキルナだが、ここで彼女の名前が出てくるということは、やはり一番に気に留めているということなのだろうか。そんなふうに思いながら、フリージアは彼に笑顔を返す。
「うん、取り敢えず、無事だって言っておいてね」
スキルナは会釈でそれに応え、ビグヴィル、フォルスと共に会議室を出て行った。ニダベリルの二人の将軍も、無言でフリージアに一礼すると彼らの後に続く。
静かになった会議室の中、不意に、皆を見送っていたフリージアの名が、呼ばれた。
「フリージア・ロウグ」
その声の主に、フリージアは振り返る。部屋にいるのは、アウストルと彼女だけだ。改まった呼び方に何事かと眉をひそめた彼女を、アウストルはその底の見えない緑の目で、ジッと見つめてくる。
彼の眼差しは、時折、フリージアの向こう側にいる誰かを見ているような気にさせる。何となく居心地が悪くて、彼女は少し顎を引いた。
と、それがきっかけになったように、アウストルの目がフリージアに戻ってくる。
今は、自分を見ているという感触があった。
「何?」
名を呼んだきり何も言おうとしないアウストルを、フリージアは促す。彼はふと視線を和らげ、言った。
「俺の妃にならないか?」
「はい?」
フリージアは思わず大きく瞬きをする。
「ニダベリルに嫁いで来い」
言い方を変えられても、フリージアには同じことだった。
「何で」
思わずそう返してしまう。アウストルは苦笑しながら、更に言葉を足した。
「ニダベリルの王妃になれば、エルフィアのことも近くで見張っていられるぞ? それに、婚姻で結ばれればニダベリルとグランゲルドが今後争うこともあるまい」
「確かにそれは魅力だけど……」
「だろう?」
アウストルは誘うようにそう頷く。
確かに、彼の言う通りかもしれない。フリージアの一部は、そう思う。
けれど。
「やっぱり、無理」
「何故だ?」
今度は、アウストルがそう問うてきた。フリージアはそれに笑顔で返す。
「だって、あたしがずっと一緒にいたいって思う人は、もう他にいるもの。あたしはみんなに幸せになって欲しいけど、あたしも幸せになりたいんだ。自分を犠牲に……とか、できないよ」
「そうか。それは残念だな」
そうは聞こえない口調で、アウストルは肩を竦めた。そんな彼を、フリージアは何となく励ましたくなる。
「アウストル王も、国のことと関係なく一緒にいたいって思う人ができるよ、きっと」
彼女のその台詞にアウストルは一瞬わずかに目を見開くと、微かな笑みを浮かべた。
「そう、かもな」
呟くような彼のその台詞に、フリージアは深く頷いた。そして、ふと呼びかける。
「ねえ、アウストル王」
彼はその深緑の目を彼女に向けた。それをしっかりと捉えながら、フリージアは訴える。
「あなたのその命を助けたのは、あたしじゃない。エイルなんだ。あの子は、ニダベリルでひどい目に遭っていたけど、それでもあなたを助けた。そのことを忘れないで」
もしかしたら、エイルにはそもそも恨むとか憎むとかの感情がないのかもしれない。けれど、辛かった記憶はある筈だ。それをおして、エイルはアウストルを助けた。過去ではなく、未来を見つめたから、そうしたのだ。
ニダベリルが再びエルフィアを粗雑に扱うようなことがあれば、エイルのその気持ちは無に帰してしまう。
底光りするフリージアの眼差しを、アウストルはしばし無言で受ける。やがてアウストルは小さく頷くと、あとは振り返ることなく会議室を出て行った。
*
いよいよ明日、王都グランディアに還る。
オルディンはフリージアの姿を求めて砦の中をうろついていた。
砦の周りの落とし穴をきちんと埋め直したり、放置された投石器の残骸を居残ったニダベリル兵と共に片づけたりと、戦いの後片付けもようやくケリがつきつつある。投石器はそのままでは無理だったので、ソルに頼んで燃やしてもらい、残った鉄屑をニダベリル兵が荷車に載せて運んでいった。
この一帯は、戦が始まる前の姿を殆ど取り戻した。完全に元の姿、とはいかないが、戦いの傷跡は目立ちにくくなっている。皆めまぐるしく立ち働いて、ようやく帰れるめどが付いたのだ。
これでフリージアを戦いの臭いの残る地から遠ざけられる。
オルディンは何よりもそのことにホッとしていた。
元々、後片付けなど他の者に任せてしまえば良かったというのに、フリージアは頑迷に居残ることを主張した。彼女がこの地に後ろ髪を引かれる理由は、オルディンにも何となく解かっていた。だから、彼女の望むようにさせた。
フリージアが発つ気になるのをオルディンはジリジリしながら待ち続け、ようやく迎えた出発の日だった。
皆の前では以前と変わらず朗らかな彼女だが、兵達の目が無くなると伏し目がちに何かを考えていることがしばしばあった。
そんなフリージアを見かける度に、オルディンは即座に彼女を掻っ攫って国も兵も戦も何も関係ないところへ連れ去ってやりたくなったものだ。その欲求を堪えるのは、一苦労だった。
その我慢の日々も、ようやく終わりを告げる。
だが、明日の朝は早いというのに、いつもの習慣で先ほどフリージアの部屋を覗いてみたら、彼女の姿は寝台になかったのだ。
「あれ、オルディン、こんな時間に何してんの?」
廊下を歩くオルディンにそう声をかけてきたのは、ロキスである。
「ジアを見なかったか? まだ寝てないんだ」
「ああ……見納めだからって、物見櫓に上るって言ってたぜ?」
彼は肩を竦めてそう教えてくれる。
「そうか」
片手を振ってロキスと別れると、彼の言葉に従って物見櫓を目指した。
到着してみると、確かに、彼女はそこにいた。オルディンが来たことは判っているだろうに、下ろしたままの赤毛を強い風になぶらせながら、身じろぎひとつせずに地平の彼方を見つめている。
オルディンは風よけ代わりに後ろからフリージアを覆うように立ち、彼女を挟んで両手を欄干についた。それでも、フリージアは振り返らない。
しばらくの間、オルディンも黙って、フリージアと同じものを見つめていた。
どれほどそうしていたかは判らない。不意に、フリージアがポツリと呟いた。
「いっぱい、死んじゃったね」
そこに含まれているのは、悔恨だ。
オルディンは黙って、両腕を彼女の細い身体にまわす。
グランゲルド側の戦死者は、結局八名だった。ニダベリル相手に、驚くほど少なくて済んだ数に違いない。対するニダベリル側は、数十人に及んでいる筈だ。フリージアの言う『死者』は両軍併せてのものだろう。彼女にとっては、皆同じ『命』だ。
フリージアは慰めの言葉を受け入れないだろう――そう思ったが、オルディンはそれを口にしてしまう。
「お前は、よくやったよ。もっと死んでもおかしくなかった」
オルディンのその言葉に、予想通り、クルリと振り返ったフリージアは彼を見上げて激しくかぶりを振った。
「全然、やってない。一人でも死んだらダメだったんだ。戦がなければ、死ななくて済んだ人だったんだから! 死ぬ筈じゃない人達だったんだよ! みんな、誰かの大事な人だったのに」
フリージアはオルディンの胸倉を掴んで、きつく額を押し付ける。
「あたしは今のあたしにできる範囲で、頑張った。これ以上のことはできなかった。でも、それなら、あたしじゃなかったらもっとうまくやれたんじゃないかって思うんだ。もしかしたら、一人も死なせずに済んだんじゃないかって」
フリージアのその慟哭と共に、オルディンの胸元はジワリと湿ってくる。小刻みに震える肩をしっかりと片腕で包み、もう片方の手で何度も髪を撫で下ろす。
フリージアの言葉は正しくない。命を惜しむ彼女だからこそ、多分、この被害で済んだのだ。確かに、母親のゲルダはもっと巧く戦ったかもしれない。だが、伝え聞く限り、彼女はどちらかというとアウストルやスキルナに近い。戦いは巧いかもしれないが、それが即ち被害を最小限に食い止めることを優先するとは限らない。
しかし、そう告げてみたところで、フリージアの気持ちを宥めることはできないのだ。
だから、オルディンはただ彼女を温めることだけに終始する。
「あたし、もう戦はイヤだ。二度と戦いたくない――戦わせたくない。でも、またニダベリルが攻めてくるようなことがあったら、また戦わなくちゃいけないんだ」
「そうならないように、色々やるんだろ?」
オルディンは頭を下げ、彼女の頭のてっぺんに顎を載せて穏やかにそう問い掛ける。
フリージアがエルフィアを巻き込んで成し遂げようとしていることは、オルディンも聞いた。ニダベリルがどれほど豊かになるのか、そして、どれほど豊かになれば満足するのか、判らない。だが、うまくいって欲しいと、オルディンは切実に思う。ニダベリルの為にではなく、フリージアの為に。
「うまく、いくかな」
心許なげな声に、オルディンは彼女の背をポンポンと叩いてやった。
「いくさ」
「……あたし、思うんだ。人が戦うのはなくならない。だって、見え方も考え方も違うんだから。でも、休むことはできる。その間に、近寄ることもできると思うんだ。近寄って、手を握り合ったら、ケンカなんかできなくなるでしょ? 手をつないで、言葉を交わした相手なら、問答無用で殴り掛かるなんて、できなくなると思うんだ。ずっとは無理かもしれないけれど、あたしの子どもか――できたら孫くらいまでは、戦いのないようにしたいんだ」
「ああ……そうだな」
オルディンの低い声での肯定に、フリージアは震えるような息を吐いた。そして、彼の胸に腕を回してしがみついてくる。
「もしも――もしも、十年後にあたしの望むカタチになってなかったら、また戦うよ。グランゲルドを護りたいから。戦うのはイヤだけど、戦う」
きっぱりと断言したフリージアの声は、もう震えていなかった。しかし、オルディンは服の背中が引っ張られるその感覚に、小さな手に強い力が込められていることを知る。彼は細い身体をしっかりと抱き締めて、その耳元で囁いた。
「やりたいようにやればいい。俺は、ずっとお前の傍にいる。お前の涙は、いつでも、こうやって俺が隠してやるよ」
彼女は無言だった。ただ、オルディンの胸元だけが濡れていく。
やがて、それは乾くだろう。
そしてまた、濡れる時が来るのかもしれない。そんな時、彼女が独りで涙をこらえることのないように、彼はいるのだ。
「お前は、俺の生きる理由だよ。初めて会った時に、そう決まったんだ」
そう呟いたオルディンの胸の中で、小さな頭が上下するのが、感じられた。彼は抱き締める腕に力を込めて、祈る。
この世界が永久に平穏であることを。
他の誰でもない、腕の中の少女の為に。
誰よりも愛おしいこの少女が二度とつらい涙を流さぬように、祈るのだ。




