交錯
踵を返したフリージアは、驚愕に満ちた皆の視線を受け止める。
彼女からしたら、まるきり勝算なくオルディンに挑んだわけではない。勝つのは必然、とまでは言えないが、少なくとも五分以上の勝利を確信していた――それなりの実績を伴って。
もっとも、オルディンが本当の本気を出していたら、結果は微妙なものになっていたかもしれないが。
最後の最後で彼が何らかの躊躇いを見せるのは、フリージアの予想の範囲内だった。
ニダベリルを放置するわけにはいかない。フリージアは、何としても、ここで決着をつけたかった。だが、全軍で突撃すれば、双方とも途方もない損害が出ることは容易に推測できた。
では、どうすれば兵を失わずに戦いを終わらせることができるのか。
思い付いたのは、一気に『頭』を叩き潰すことだった。
アウストルとフリージアの一騎打ち。
どう考えても不釣り合いなそれを認めさせるには、フリージアの力を見せなければならなかった。だから、オルディンが力を出し切れないのを承知で、彼をダシに使ったのだ。オルディンに勝利したなら、反対の声も封じられるに違いなかったから。
王都グランディアを出てからも、フリージアは彼との手合せを続けていた。
だが、隙間の時間を使い、他の者がいない場所で行っていたから、彼女がどれほどの動きを見せるのか、知る者はいなかった。唯一の例外は、時折その場に居合わせたバイダルだけである。フリージアとオルディンの闘いが予想外の結末となったことに目を丸くしている男たちの中で、バイダルだけはいつも通りだった。
「どう? まだ心配?」
自信に満ち溢れた声に聞こえるように意識して、フリージアは腰に両手を当てて皆を睥睨する。
「どうって……」
「いやはや」
グルリと彼らを見回したフリージアの眼差しに、ロキスとビグヴィルは互いに目を合わせ、スキルナは微かに眉をひそめ、バイダルは肩を竦めた。
結果を見せても男どもははっきりしない。焦れたフリージアは足を踏みかえて言葉を重ねる。
「ニダベリルの王様に、あたしは負けないよ。勝って、ニダベリル軍をグランゲルドから蹴り出してやる」
「まあ、そりゃアウストル王が負けるようなことになれば、ニダベリルも退くしかないだろうけどよ」
「あなたが、全ての責を負うおつもりか? そのようなことをせずとも、あちらが痺れを切らして退却を始めたら追撃すればいいのでは?」
ロキスの台詞を引き継いで、スキルナが首を振った。彼に向けて、フリージアは努めて冷静な声音で反論を口にする。
「けど、それじゃ無駄な死人が増えるよ。これまではニダベリルも多少なりとも先を考えながらやってただろうけど、追われてるとなると捨て身でかかってくるよね、きっと。手負いの獣は手こずるよ。グランゲルド軍も、かなりの損害を覚悟しなきゃいけない。何とか追い払ったとしても、ニダベリルが諦めるとは思えないよ。こっちが態勢立て直す前に戻って来られたら、今度は勝てないかもしれない。でも、あたしとアウストル王の一騎打ちなら――もし万が一あたしが負けても、兵は無事だ」
「では、黙って去らせればいい。追わぬと宣言すれば、あちらも動き始めることでしょう」
「でも、ここで勝ち負けをはっきりさせとかないと、ニダベリルは態勢整えてまた来ちゃうでしょ? グランゲルドは長期戦には向かないよ。二回目、三回目までは防げるかもしれない。でも、戦いを重ねる毎に、どんどん、こっちが不利になっていく。少なくとも今のグランゲルドの兵力じゃ、三年も五年も戦い続けることは無理だ。違う?」
今度はスキルナからの抗弁はなかった。代わりに、バイダルが口を開く。
「しかし、条件は何とする? あまり譲歩すれば、こちらの足元見られるぞ?」
バイダルのその言葉は、一騎打ち自体は否定しないと受け止められる。フリージアは彼に向き直り、言う。
「うん。あっちが勝った時は、後を追わないって約束するのはどう? ニダベリルにしたら無傷で出直す猶予が手に入るわけだけど、こっちは現状から変わらないだけ。ニダベリルは自分の強さに自信を持ってるんでしょう? この場さえなんとかすればやり直せると思ってるだろうから、この条件でも乗ってくると思うんだけどな……まあ、あたしが相手となると勝つ気満々で来るだろうし、もう少し上乗せを要求してくるかもだけど」
「応じるのか?」
「まさか。そんなことしたら、つけ込まれる。屋台の値切りと一緒だよ。折れたら負け」
「相手が徹底抗戦の構えだったらどうする?」
「そうしたら、相手が飢えるのを待つか、退却するところをやっつけるしかないよね。もう二度と来る気が無くなるように、叩きのめす。こっちも無傷じゃ済まないだろうけど、見逃してまた来られるよりは、マシだ」
それは、フリージアも気乗りしない展開だった。だが、仕方がない。今ならまだグランゲルドの方が有利だ。
フリージアの眼差しからその決意のほどを見て取ったのだろう。バイダルもそれ以上は続けようとしなかった。
「お前が勝ったら、あっちには何を要求するんだ?」
背後からそう問いかけてきたのは、オルディンだ。フリージアはクルリと彼に振り返る。
「それは、もう決めてある」
そう言うと、彼女はニッと笑みを浮かべた。
*
ニダベリル側。
橋を守る弓兵達の間に、微かなどよめきが走る。
対岸から、一つの騎影が近付きつつあった。馬上にいるのは、赤毛の少女――グランゲルドの将軍だ。
「おい……グイ将軍に報せて来いよ」
「あ、ああ」
一人が頷き、身を翻して伝令用の馬に飛び乗ると、後方へと走る。
他の者は弓に矢をつがえて前方へ向けた。狙うのは、少女一人である。その背後に兵はいない。
弓を構えてみたものの、橋の上に転がる投石器が邪魔で、かなり近付いてこないと実際に射抜くことは難しい。彼らが控えているのは、あくまでも牽制の為だ。それに加えて、単騎でやってきた敵軍の将を射殺してよいものかどうか、雑兵には決め兼ねた。
引き金に指をかけたまま、彼らは少女の動きを見守る。ずらりと並んだ二十名の矢が狙っているその先で、少女は堂々と馬を進めてくる。
少女が橋の向こう岸から三分の一辺りで立ち止まるのと、イアン、フィアルそしてアウストルが到着するのとは、ほぼ同時のことだった。
少女の眼差しがニダベリルの面々に真っ直ぐに注がれているのが、遠目にも見て取れる。
しばしの静寂。
彼女の目がアウストル一人に向けられる。
やがて、戦いの火蓋が切って落とされた時のように、澄んだ少女の声が響き渡った。
「アウストル王!」
彼の名を呼ぶその声は、朗々として自信に満ち溢れている。それは瞬時にアウストルを十六年前に舞い戻らせた。あの時の彼は、まだ『王』ではなかった。そして、対峙したのは、今目の前にいる少女の母親で。
「ゲルダ・ロウグ……」
呟きは小さく、アウストル自身の耳にしか届かなかった。
「王?」
彼女の声に引き寄せられるように馬を進めたアウストルを、イアンが呼び止めた。王は肩越しに武骨な将軍を振り返る。
「話を聞く」
そうして、将軍たちの反応を待たず、馬を更に彼女へと近付けた。
少女をヒタと見据えながら進み、橋の中ほどのところで立ち止まる。どちらも馬上に留まったまま、対峙した。
「フリージア――と言ったか。ロウグの娘だな。用件は何だ?」
その距離まで近づくと、彼女の顔かたちがはっきりと見て取れた。母と娘は、まるで双生児のように良く似ている。声は、母親の方がやや低く――もう少し軽い響きがあった。
思わず食い入るように見つめてしまったアウストルのその視線に気付いているのかいないのか、フリージアと名乗った少女は、ここが未だ血臭の残る戦場とは思わせぬにこやかさで続ける。
「お互いにとって、悪くない話を持ってきたよ」
「どんな?」
「あなたとあたしで、ケリを着けたい」
「俺と、お前で、だと?」
予想外の申し出に、アウストルは眉を上げる。過去がなければ、小娘の戯言と嗤っただろう。だが彼は、人を見かけで判断すると痛い目に見ることを、その身を持って思い知っていた。
赤毛の少女が続ける。
「そう、一対一で。これ以上、無駄死に出したくないでしょ? そっちが勝ったら、退却しても後を追わないよ。手出ししないで黙って見送る」
「それだけか。あまりこちらに利があるとは言えんな」
「そうかな。そっちは結構困ってるでしょ? 食べるものもそろそろ無くなっちゃうんじゃない? ここで粘ってても、あんまり意味ないよね」
図星だ。ニダベリルとしては、可及的速やかに補給部隊と合流したいところである。無表情に無言を通すアウストルに、少女は微かに首をかしげた。
「もしもこの申し出を受けないのなら、徹底的に追いかけるよ。国境を越える前に、もう二度とグランゲルドに手を出す気にならないように、やっつける。こっちがそれだけの力を持っていることは、もう判ってる筈だよね」
あどけない顔立ちの中で、少女の眼差しは鋭い光を放つ。彼女が宣言通りの行動を取ることは、火を見るよりも明らかだった。
それは、エルフィアの力のことも含めているのだろうかとアウストルは思案する。確かにあの力を兵に向けて使われれば、壊滅的な被害を受けるだろう。
完全なる敗北――それだけは避けたい。
一方、これ以上兵を減らさず国境まで下がることができれば、再戦はかなり有利になる。
では、アウストルとフリージアが剣を交えたとして、勝算はいかほどだろうかと彼は頭を巡らせた。
フリージアのその声は鈴を振るような軽やかなものだったが、真っ直ぐにアウストルに向けられた視線は彼を射抜かんばかりだ。
まともに考えれば、アウストルとこの少女の一騎打ちなど、話にならない。フリージアに勝ち目などある筈がなかった。
だが、彼女の母は、あのゲルダ・ロウグなのだ。
十六年前に交わした刃を思い出し、アウストルは微かに身震いする。三度相見え、三度とも勝利することができなかった。あの当時、彼の剣に敵う者はいなかった――数多の戦場で並み居る猛者どもを切り伏せてきたのだ。だが、ゲルダはそんな彼を難なく凌駕した。
その娘は、どれほどの腕前か。
一見したところ、普通の少女だ。だが、ゲルダもそうだった。飄々とした態度で彼に向き合い、切っ先を突き合わせた途端に、身にまとう空気がガラリと変わったものだ。
「どうする? 受ける? 受けない?」
無言のアウストルに、フリージアが決断を迫る。彼の思考は現在に舞い戻り、改めて目の前に立つ少女の目を見つめた。母親は深い青だったが、フリージアのその色は鮮やかな緑だ。姿かたちはうり二つだが、そこだけが異なっている。しかし、色は違えど潜む輝きは同じだった。
「グランゲルドが勝った時の条件は?」
アウストルは問う。フリージアは一度大きく息を吸い込み、答えた。
「向こう十年、グランゲルドに攻め込まないこと」
「十年? それだけか?」
面白そうな声でそう問い返したアウストルに、フリージアが頷く。
「そう、十年だけ。多くは望まないから」
「ふむ……」
アウストルは鼻を鳴らしてフリージアを見やった。確かに、ニダベリル軍は煮詰まっている。彼女の提案は、さほど悪くないもののように思えた。
そして何より。
この取るに足らない華奢な少女と剣を合わせたいと熱望する自分がいることを、アウストルは無視することができない。母と同じ目をして彼を見る彼女を捻じ伏せたいという衝動を、抑えきれなかった。
『王』のアウストルを、『個』のアウストルが押し潰す。
「よかろう」
「受けるの?」
「ああ」
答えて、アウストルは馬から降りる。
「今すぐ?」
彼のその動きに、距離があっても、少女が微かに戸惑った気配を発するのが感じられた。アウストルは唇を歪めるようにして笑い、揶揄する声を彼女に浴びせる。
「止めたくなったか?」
「まさか。こっちだって、さっさと終わらせちゃった方がいいもの」
そう言うと、フリージアも馬上からヒラリと身を翻す。
地面に降り立った彼女は、思った以上に小柄だった。近付いてみれば、アウストルの胸ほどまでしかないに違いない。
足を進めながら、二人はほぼ同時に剣を抜き放つ。
一歩距離を縮める毎に、緊張はいや増していった。




