枷から放たれ飛び立つ蝶
ニダベリル軍は、沈黙したままだった。
エルフィアの力で投石器を破壊してから、二度目の朝が来た――不気味なほどの静寂と共に。
今日こそは何か動きがあるだろうと思っていたグランゲルドの面々の予想を裏切り、橋の向こうは未だシンと静まり返っている。
「何してんのかな」
黒鉄軍の隊列の前に立ち、呟きながらフリージアがニダベリル陣営に目を凝らす。その隣でオルディンも彼女と同じように彼方の様子を窺ったが、見えるのは、橋を塞ぐように並んでいる弓兵ばかりだ。彼らが物理的な障壁となっていて、その先を見通すことはできない。
「もしかして、あの人たちを置いて撤退しちゃったとか?」
オルディンを見上げてフリージアが首をかしげる。その推測にかぶりを振ったのはスキルナだ。
「いえ……昨晩私の手の者にあちらの様子を窺わせてみたところ、それはありませんでした。その代り、戦闘準備をしているふうでもなかったとのことですが」
「わっからないなぁ」
フリージアのボヤキも頷ける。徒に時間を食い潰すのは、ニダベリル軍にはむしろ不利になる筈だ。総攻撃か、撤退か。そのどちらかしかないだろうに、いったい何をしているのか。
「ねぇ、ロキス」
「何だ?」
名を呼ばれ、ロキスはフリージアと同じように対岸へ向けていた深紅の目を彼女に移す。
「時間差で進軍してくる援軍とか補給部隊とかを待ってるってこと、ある? 先発隊より、ちょっと遅れて出発して、とか」
フリージアのその問いかけにロキスは一瞬考え込んだが、すぐに否定した。
「ないな。部隊を二つに分けて進軍させたことは今までねぇよ。アウストル王まで到着してんだろ? 今回の出征に連れてきてんのは、今橋の向こうにいるあれだけの筈だぜ」
「うぅん……でも、形勢不利だからって伝令送って呼んだところで、そんなに悠長に待ってはいられないよね。それが着くまでには何十日もかかるんだから。撤退始めてもっと北で合流するならまだしも」
くしゃりと前髪を掴んでニダベリル軍の考えを読もうとするフリージアに、ふと思い立ったようにビグヴィルが声をかける。
「そう言えば、あのニダベリルからの逃亡兵達はどうでしょうな。何か知っておるのでは?」
「あ、そっか。確かに」
彼に言われて、フリージアは拳で手のひらをポンと打つ。ロキスが『転向者』と呼ぶ彼らのことを、フリージアは失念していたようだ。確かに、つい先日までニダベリル軍内にいたのだから、何か答えをくれるかも知れない。だが、期待に目を輝かせたフリージアに、またもやロキスが水を注した。
「『転向者』はニダベリル軍の中の最下層だぜ? 作戦やら内情やらなんざ知りゃしないさ。オレらは単なる捨て駒だって、言わなかったっけ?」
言外に「訊くだけ無駄」と一蹴されて、フリージアが声をあげる。
「もう! それじゃ、八方ふさがりじゃないか!」
「オレの所為じゃねぇだろ」
「そうだけどさ」
二人のやり取りをよそに、オルディンは再び橋へと目を向けた。その上には未だ投石器の残骸が放置されており、それが通行を妨げている。突撃をかけても一気に総攻撃、とはいかないから、先に動いた方が痛い目に遭うであろうことは明らかだった。いくら猪突猛進なニダベリルでも、流石にそれは判っているらしい。
当然、こちらから橋を渡るわけにはいかない。そんなことをしたら、あっという間に全滅するだろう。そもそも、これまでの戦いでグランゲルドが優勢だったのは、あくまでもあちらから突っ込んでくるのを迎え討っていたからだ。
どちらも相手の出方を窺って、膠着状態に陥っている。
「『動けない』のか」
ふと、オルディンはそうこぼした。唇を尖らせたフリージアが、眉根を寄せて彼を見る。
「え?」
訊き返した彼女を見下ろし、オルディンは繰り返す。
「だから、あっちも『動けない』んじゃないか?」
顔に疑問符を浮かべたフリージアに、オルディンは更に言葉を付け加える。
「奴らは撤退したい筈だ。ここに留まる利点は、何もないからな。お前が言ったように、時が経てば経つほど不利になっていくのは、あっちの方だ。睨み合ったまま『動かない』んじゃなくて、『動けない』んだろ」
「動けない……そっか、獣と同じかな。目を逸らせないんだ」
フリージアが納得したように頷く。だが、理解したのは彼女ばかりの様で、他の面子は怪訝な顔でオルディンとフリージアを見ていた。そんな彼らに、フリージアが説明する。
「獣を相手にするとさ、目を逸らしたら襲ってくるでしょ? 背中を見せるなって言うじゃない。あれと同じで、撤退しようと思っていても、追い打ちをかけられることを心配して行動に移せないんじゃないかな」
グランゲルド軍も時折村を荒らす獣を狩りに出ることがあるが、大人数で仕掛けるからあまり実感したことがないのだろう。だが、凶暴な野生の獣と一対一で対峙した時には、背を見せてはならないのが鉄則だ。一番、無防備になる。
ロキスが納得したように声をあげた。
「ああ、なるほど、確かに。それにニダベリルは逃げる敵は徹底的に追いかけて叩きのめしたからな。自分達も同じことされると思ってるんだろ」
「今回見逃したら、もう来ないと思う? ニダベリルはグランゲルドに手を出すのを止めるかな」
呟くようにそう言ったフリージアに、ロキスが肩を竦めて答えた。
「無理だな。狙った獲物は手に入れるまでは諦めねぇよ、ニダベリルは」
フリージアが唇を噛む。
「いつまで繰り返したらいいんだろう」
その囁きに近い問いへの答えは、明らかだった。
どちらが勝って、どちらが負けたのか。
それがはっきりとするまでだ。
勝敗の決着が不明瞭なまま、ニダベリルがグランゲルドの要求を聞き入れてくれるとは到底思えない。こちらの言い分は突っぱねて、我を通そうとするだろう。
自問をしても、フリージアにもその答えは判っていたのだ。
「白黒、着けないとだよね」
顔を上げ、フリージアが断言した。その眼差しの強さに、オルディンの胸中には嫌な予感が込み上げてくる。
ニダベリル軍の行動の基盤は『力』だ。
力で圧倒しなければ、フリージアの声に耳を傾けようとはしない。
では、その『力』を見せ付けるにはどうすべきか。
それには戦いを続けなければならないが、無謀にニダベリル陣営に突っ込んでいくことはできない。
巨大な獣を倒すには。
少しずつ肉を削ぎ、血を流させて力を奪っていく。
――あるいは、狙い澄ませて一撃で頭を潰す。
フリージアはオルディンが育てたのだから、彼女がこんな状況でどんなことを言い出すのか、判りたくはないが――判ってしまう。
「ねぇ、オル」
フリージアの緑の眼差しが、オルディンに向けられた。そして、彼の目を真っ直ぐに見つめながら、問う。
「あたしって、強いよね?」
オルディンはフリージアを見つめた。
その通り、彼女は強い。ゲルダから譲り受けた天賦の才に、オルディン自身が磨きをかけたのだ。特に、戦うことを決意したこの数ヶ月で、その力は飛躍的に伸びている。
フリージアの強さを封じる最後の枷は、彼女がヒトを傷付けることを厭う『気持ち』だ。それを外すことさえできたなら、多分、彼女の強さはオルディンですら凌駕するだろう――かつて、ゲルダがいとも簡単に彼をいなしたように。
フリージアの問いかけに肯定を返せば、恐らく彼女はオルディンが予想している手段を提示してくる筈だ。だから、彼は口をつぐむ。
だが、フリージアは、何よりも雄弁なオルディンの沈黙に、晴れやかな笑みを浮かべた。そして、クルリと彼に背を向ける。
「ねえ、ロキス。アウストル王とオルディンって、どっちが強い?」
唐突なフリージアの質問に面食らいながらも、ロキスは少し考え、一片の迷いなく答える。
「五分五分かな」
「そう。じゃ、決まりだ」
「おい――!」
慌てた声でオルディンが口を挟もうとしたが、先んじてフリージアは宣言する。
「アウストル王に一騎打ちを申し込むよ」
一瞬、その場を沈黙が支配した。オルディンには予想された結論でも、常識と良識を持っている他の連中には突拍子もない発言だ。
絶句して見つめてくる面々を、フリージアがぐるりと見返す。皆、自分の耳か頭がおかしくなったと思っているに違いない――あるいは、フリージアの頭か口が、か。普段表情を変えることのないバイダルですら、その隻眼を微かに見開いていた。
そんな中で、ロキスが真っ先に我に返る。
「ちょっと待てよ。オレはオルディンと五分五分だって言っただろ!? ……って、あ、そうか。オルディンにやらせるんだな?」
「まさか。戦うのはあたしだよ。オルじゃ受けてくれないかもでしょ? こんな弱っちそうなのが相手と思ったら、これはイイやって喰い付いてくるよ。それに第一、この中で一番エライのはあたしなんだから、あたしが出なきゃ」
「駄目だ」
いとも平然と述べるフリージアを、オルディンは軋む声で遮った。
「オル」
「何と言おうと、駄目だ。そんな真似はさせられない」
「ううん、やる。そして、勝つ」
きっぱりと、フリージアは言う。だが、オルディンは頑強に首を振った。
「絶対、駄目だ。お前にやらせるぐらいなら、俺が戦う」
オルディンとフリージアは無言で睨み合う。どちらも一歩も引かない構えだった。
周囲の者は、口も挟めずただ黙ってそれを見守っている。
先に動きを見せたのは、フリージアの方だった。彼女の口から小さな息が漏れ、諦めたのかと、オルディンは一瞬期待した。だが、それは当然のように裏切られる。
「あたしが戦えることが信じられない?」
「フリージア、そういうことじゃない。解かっているだろう?」
オルディンは、ただフリージアの身を案じているだけだ。アウストルの勇猛さは、近隣に鳴り響いている。彼女の強さは知っているが、それでもアウストルと真剣勝負をするなど、認めることはできなかった。
宥めるようなオルディンの言葉に、しかし、フリージアはかぶりを振った。
「ううん。そういうことだよ。オルはあたしがニダベリルの王様には勝てないと思ってるんでしょ?」
「負けるかもしれない可能性がある限り、俺は認めない」
「……じゃあ、あたしが戦えるってことを証明するよ。今、この場で」
そうして彼女は一歩下がると、スラリと腰の剣を抜き放つ。
「フリージア……」
「オルも剣を抜いて」
緑の目を煌めかせたフリージアは、ほんのわずかも引く気はなさそうだった。きっと、自分の考えを押し切りアウストルに挑むだろう。ニダベリルの王は、彼女を殺す気でかかってくるに違いない。
それを阻止するには、どうすればいいのか。
オルディンは背負った鞘からゆっくりと大剣を引き抜く。
「ちょ……っと、待てって、何でそんなになるわけ?」
慌てた声でそう言いながら間に割って入ろうとしたロキスがバイダルに引きずられていくのが、視界の隅に映った。
この場で、フリージアの考えに同意する者はいない。
だが、それでも、彼女は全く気にしたふうもなく剣を提げてオルディンの前に立った。まるで、いつもの手合わせを始めようとしているかのように。
オルディンが教えた剣の型は、紅竜軍の兵士達のような定まったものではない。
オルディンもフリージアも、無造作に剣を握り、対峙する。
「あたしが勝ったら、好きなようにさせてもらうからね?」
朗らかに、言う。
そして。
先に動いたのはフリージアだった。
一つ、二つと地面を蹴り、一気にオルディンに迫る。
白銀の閃光が走った。オルディンの胴を狙って下から上に斬り上げられたフリージアの剣を、彼は叩き折らんばかりの力を込めて弾く。
鼓膜をつんざく耳障りな音。
すかさず手首を返したフリージアが繰り出す剣を、オルディンはことごとく打ち払う。
フリージアに戦う術を教えたのはオルディンなのだ。彼女の動きは全て読める。
上からの攻撃も、下からの攻撃も、右からの攻撃も、左からの攻撃も。
どこからどう狙おうとも、全て、オルディンの身体にはかすりもしない。
以前であれば、そろそろ勝機を焦ったフリージアの動きに粗が見え始める頃であった。だが、今の彼女の眼差しは冷え切っていて、淡々とオルディンの動きを追ってくる。
彼女の剣を阻みながら、オルディンは自問する。
無傷でフリージアを制圧することは可能か。
その答えは『否』だった。
かつては容易にできたが、今の彼女に手加減はできない。骨の一本や二本を折らない限り、彼女を止めることはできないだろう。
フリージアを傷付けることは、我が身を斬られるよりも痛い。
だが、オルディンは覚悟を決める。
一際鋭く繰り出されたフリージアの刃を弾いた刹那。わずかに空いた彼女の胴を、伸ばした脚で蹴り払う。もろに当たれば、あばらの数本は折れるだろうという、勢いで。
彼の脚を食らい、吹き飛ばされるフリージア――傍目にはそう映っただろう。だが、オルディンの脚には何の手応えも感じられなかった。
「チッ」
思わずオルディンは舌打ちを漏らす。完璧な間合いで、彼女は自ら横に跳んだのだ。
一転、二転してすぐに起き上がったフリージアは、その場で一つ息を吐く。荒くはない。全く乱れず、ただ、一つ息を吐いただけだ。
そして、間髪を容れずに距離を詰めてくる。
再び、激しい打ち合い。
オルディンとフリージアの間にある明らかな腕力差は、彼女の動きを見切る目と、微妙な間合いで力を逃す技と、彼を上回る素早さでもって相殺される。
――弱いままでいさせれば良かった。
彼女の剣を受けながら、オルディンは改めて後悔の念を覚える。
フリージアが言い出したことは無謀な衝動に駆られたものではなく、確かな自信に裏打ちされたものなのだ。
確かに、今の彼女であればアウストルにも勝てるかもしれない。
だが――
ほんの一瞬、オルディンの気が逸れた。
直後。
フリージアの姿が掻き消える。
横に跳ばれた。
そう思った時には、遅かった。
膝裏に強烈な回し蹴りを食らい、オルディンの足元がふらつく。すかさず身を翻したフリージアは、低くなった彼の側頭部めがけて続けざまに蹴りを繰り出した。
『敵』であれば、迫る脚など斬り落としていただろう。
だが、オルディンはとっさに手を動かすことができなかった。
脳を揺さぶる衝撃。
思わず尻餅をついたオルディンの喉元へ、触れんばかりに切っ先が突き付けられる。
彼に向けて真っ直ぐに剣を伸ばしたフリージアは、屈託なく笑った。
「『本気を出せなかった』っていう言い訳は、ナシだからね」
めまいは、頭を強打された所為だろうか。それとも、彼女の笑みに酔った所為だろうか。
不意に、オルディンの脳裏に十二年前の光景がよみがえる。
あの時も、同じ髪の色をした女にやられた――同じように笑う女に。
「……好きにしろ」
ため息と共に、オルディンはそう呟く。
彼の『承諾』にフリージアは一際鮮やかな笑顔を浮かべると、この一戦を固唾を呑んで見守っていた面々に振り返った。




