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ジア戦記  作者: トウリン
第三部 角笛の音色と新たな夜明け

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戦うよりも難きこと

 ニダベリル陣営には不安と戸惑いが霞のように立ち込めていた。その濃さは、触れることができるのではないだろうかと思わせる程だ。


 ――いったい、これはどういうことなのだろう。


 グランゲルドは戦いを知らぬ腑抜けの国。

 だから、ニダベリルは簡単に望みのものを手に入れられる筈だった。


 それなのに。


 こちらの突撃はことごとく跳ね返された。

 これまで従順な手足として言われるがままに剣を振るっていた『転向者』共は、頭に逆らい逃げ出していった。

 神の鉄槌にも等しいと思っていた投石器は、人知を超えた力でひっくり返され潰された。


 何もかもが、おかしい。

 ニダベリル兵は己の国の勝利を疑ったことがなかった。十六年間、無敗を貫き通してきたのだ。彼等は皆、自国の強さに堅固な自信を持っていた――これまでは。

 ろくに戦う力など持っていないだろうと目されていたグランゲルドは、彼等のその自信を揺るがせたのだ。戦というものは勝って当然なのではなく、負ける可能性があることを彼等は知ってしまった。


 このまま戦いを続けるのか、それとも、引くのか。

 将軍達が何を考えているのかは、下の者には判らない。雲の上の存在がどんな結論を下そうとも、兵士はただ従うだけだ。

 戦いを命じられるなら、いい。それならこれまでしてきたことをするだけだ。不安はあるが――いや、不安があるからこそ、むしろ戦いたい。剣を振るっていれば、何も考えずに済むのだから。


 だが、もしも退却するとなったら、どんなことになるのだろうか。

 今のニダベリル軍の兵達は、その殆どが勝利しか経験したことがない。相手が降伏するか、あるいは完膚なきまでに殲滅するか。

 ニダベリルは、敵が背を向けることを『降伏』とは見なさなかった。『降伏』とは、自ら武器を捨て、アウストルの前にひれ伏すことだ。逃がして反撃の力を蓄えさせるような真似は赦さず、容赦なく、追撃した。


 自分達がしてきたことを(かんが)みれば、グランゲルドもまた同じように行動すると思うのが妥当だ。

 彼等は、逃げる敵に対して自分達が取ってきた行動を思い返す。

 背を向けた者を屠るのは、とても容易(たやす)いことだ。

 ニダベリルの兵士達は、追われる立場になった自らの姿を、頭の中で思い描いていた。



   *



 初めて覚えた不安に兵士達が揺れ動く中、アウストルの天幕では。


「いいや、退却など容認できぬ! ニダベリルは敵に尻など見せん! 正々堂々とわが軍の総力を持って奴らを駆逐してくれるわ!」

「しかし、我らの損害に比してグランゲルド軍には思うように打撃を与えられておらず、更には離反者まで出している。兵達も動揺しておるのです。迷いがある戦いを強行することは、あまり良策とは言えないかと」

 投石器という奥の手を失ってもなお泰然とした風情のアウストルの前で、二人の将軍が侃々諤々とやり合っていた。

 口角泡を飛ばすイアンに対して、フィアルはやんわりと説く。だが、頭に血が上りきったイアンはさっぱり聞く耳を持たない。


「何を(ぬる)いことを! 背など見せれば奴らはこれ幸いとばかりに攻撃を仕掛けてくることだろうて。攻撃こそ最大の防御、弱気なところを見せれば図に乗らせるだけだ!」

「彼らが必要以上の戦いを望むとは思いませんが? それに食糧も心許ない。戦いを続けるとしても、必ず勝利しなければ王都に帰り着くまでもちません。」

「だからこそ! 攻めるしかなかろうが! 要は勝てば良いのだ、勝てば!」

「グイ将軍……ご覧になったでしょう? グランゲルド軍だけならまだしも、あの川と大地――あれはエルフィアの力です。あんなものを相手にして、勝てるとお思いか? 仮にあれがないとしても、我らを有利にしている最たるものは、数による圧倒です。勢いがなければならないのですよ? ですが、橋の上の投石器。あれをどかさぬ限りは、一斉攻撃など、とてもとても……分厚い壁に水滴を飛ばしているようなものです。順繰りに粉砕されてしまうでしょう」

 噛んで含めるようなフィアルの言葉に、イアンがグッと押し黙った。流石に、フィアルの言い分にも一理あるという認識はあるらしい。


 シンと静まり返った天幕内に、唐突に低い忍び笑いが響く。

「王?」

 この事態の何を笑うことがあるのかと、イアンが眉間に皺を寄せてアウストルを見た。

「正直、エルフィアの力があれほどのものとは、思ってもみなかったな」

 アウストルはそう言って、肩を竦める。


 グランゲルドがニダベリルと互角以上に戦っていることには、何故か彼は愉快さすら覚えていた。期待通りというべきか。容易に下せていれば、むしろ失望していたかもしれない。

 王としての自分と、個人としての自分。そこには相反する感情がある。

 王としてはこの形勢を腹立たしく思い、個人としては胸を躍らせている――彼自身が戦場に飛び出して行って剣を振るいたいという欲求をこらえるのに、かなりの我慢を己に強いていた。

 想定外だったのは、エルフィアの登場だ。あれさえなければ、アウストルもイアンの意見を採択しただろう。全総力で突撃し、グランゲルドの兵が尽きるのを待つ。ニダベリルもかなりの損害を被るが、それでも最終的にはこちらが勝利するだろう。

 だが、それはヒトとヒトとで対決する場合に限る。

 そこにエルフィアのあの力が介入してくるとなると、流石にアウストルも勝利を確信することができない。


 かつてニダベリルには、それなりの数のエルフィアがいた。皆、特異な力を持っていたが、どんなに酷使されようともそれをヒトに向けることはなかったのだ。

 それに、あの威力。力の程は、彼が知るものとは桁違いだった。さながら従順な家畜のように、命じられるがままに力を(ふる)っているように思われたものだが、これほどの威力を発揮するところは見たことがない。個体差というのもあるかもしれないが、恐らくそれだけではないのだろう。


 ニダベリルにまだエルフィアがいた頃、アウストルもその力を目にしたことがある。彼がまだ十かそこらの子どもだった頃だ。涸れた川に水を呼ぶ場面に立ち会ったのだが、それは完全に乾いた川底に細い流れが生まれた程度だった。それでもヒトから見れば充分に驚嘆すべき力だったが、今日のあの現象からすれば赤子の這い這いと大人の全力疾走程も違う。


「我々の前では出し惜しみをしていたということか」

「きっと、そうに違いありません! あの力を我が国土で揮わせれば、必ず我が国は潤いますぞ。ここで撤退して奴らに隙を見せるより、こちらから先に攻撃を仕掛けるべきです!」

 低い声で呟いたアウストルに、イアンが勢い込んで詰め寄った。

「確かに、な」

 確かに、あの力は欲しい。あれなら、荒野に大河を導き、岩山を耕地に造り変えることも可能だろう。エルフィアの真の力の程を知ったからには、必ず奴らをニダベリルに取り戻し、どんな手を使っても最大限その力を発揮させてみせる。

 アウストルは己の胸に、そう刻み込んだ。


 だが、その前に、今の状況をどうするかが一番の問題なのだ。


『負けた』とは思っていない。まだ、勝敗は定まっていない。投石器は失ったが、ニダベリルにはまだ充分な兵がいる。しかし、食糧が底をつく以上、戦闘を続けることが困難であることもまた事実だった。

 これが、グランゲルド側の目論んだことなのは間違いない。

 黙り込んだアウストルの気持ちが戦闘続行に傾くと思ったのか、フィアルが眉間に皺を寄せながら、今度は王に向けて主張する。


「王、ここは一度撤退し、態勢を立て直す方がよろしいかと。はばかりながら――グランゲルドの戦力が想定以上のものだったと評価せざるを得ません。我がダウ大隊はまださほどではありませんが、グイ大隊の戦力はかなり損なわれております。食糧の残りは心許なく、その上投石器も失われました。戦を続けて良い結果が得られるとは思えません」


 イアンとフィアル。

 対照的な表情を浮かべている二人の将軍を、アウストルは順繰りに見遣った。


 フィアルの言い分も解かる。理性的且つ客観的だ。

 確かに一時撤退が最も正しい道だろう。

 今ならば、退却の理由を予想外のエルフィアの登場の所為にできる。『グランゲルド軍』の攻撃によるものではなく、あくまでもあの人外の力に因るものだ、と。兵達も納得するだろう。


「エルフィアは、あの力で攻撃を仕掛けてくると思うか?」

 頬杖をつきながら、アウストルはフィアルに問う。彼はしばし黙し、そして答えた。

「今まで、エルフィアがヒトに害をなしたという話は聞いたことがありません。今日のことも、あの力で怪我を負った者はいないようです。兵達が遠ざかるのを待って、投石器のみを狙ったような……あちら側に取り残された者の状態は判りませんが、恐らく、少なくとも重傷者はいないのではないかと」

「やはり、そう思うか?」

「はい。確証はありませんし、それが何故なのかも判りませんが」

「ふん……」

 フィアルの冷静な判定に、アウストルは小さく鼻を鳴らした。そうして現状をさらい直す。


 これまでのところ、確かに戦局はグランゲルドに傾き気味だ。だが、単純に軍同士の戦いだけを考えるなら、粘ればやがてこちらに勝利が見えてくるだろう。こちらには、まだ一個大隊分以上が残っているのだから。

 その一方で、今の状態で戦闘を続行し、『グランゲルド軍』から更に損害を食らえば、兵達の士気は取り返しようがないほど落ち込んでしまう危険性が潜んでいることも否めない。そして、食糧もギリギリだ。

 それに、やはりエルフィアの事が気にかかる。彼らが戦いに参入してこないという保証はないのだ。ニダベリル軍における投石器のように、彼らが参戦すれば、一気に旗色は変わってしまう。


 ここはやはり、一度ニダベリル国内まで退却するのが最善か。国境で陣を構え、グランゲルドを牽制しつつ物資と兵を補給し、整い次第再度攻撃を仕掛ける。エルフィアの力は不確定要素だが、より一層数に物を言わせて休む間もなく突撃を続けるのだ。こちらの消耗も激しくなるが、それは止むを得ない犠牲だ。


 だが、とアウストルはもう一つの懸念を頭に浮かべる。


 ――果たしてグランゲルド軍はニダベリルを黙って見送るだろうか。


 そこが、気になる。

 十六年前、当時の将軍だったゲルダは、撤退するニダベリル軍を追撃することなく帰させた。

 アウストルなら同じ状況でどうするか。

 彼なら、容赦なくその背を追うだろう。一度ならず二度までも牙を剥いてきたものを、ニダベリルであれば決して赦しはしない。


 アウストルの脳裏に、ふと数日前に対峙した赤毛の少女の姿がよみがえる。かつて剣を交えた女将軍よりも更に年若い、まだ子どもと言ってもいいほどの少女。

 彼女の目と声には断固とした意志があった。何としても祖国を護るという意志が。

 あんな目をした者が、中途半端で止める筈がない。

 まだ殆ど無傷なままでいる弓兵部隊を殿(しんがり)にして、牽制しながら下がるという手もある。しかし機動力の高いグランゲルド軍にかかれば、すぐに懐に入られてそれ相応の損失が出るであろうことは想像に難くない。


 退却がこれほど困難なものであるとは、アウストルは思いも寄らなかった。戦う方が、遥かに易い。

「食糧はあとどれ程だ?」

「は……三日以内に勝利すれば、何とか。しかし確実な勝算がないのであれば、直ちに帰途に着くべきです。食糧を燃やされた後すぐに伝令を走らせましたが、追加の補給部隊が到着するにはまだかなりかかります。撤退を始めて途中で合流する形にすれば、さほど飢えずに済みます。あるいは、グランゲルドに勝利すれば彼らの食糧を奪えるでしょう。しかし、戦った末に敗れることになれば……」


 途中で野垂れ死ぬ、ということか。


 皆まで言わずに言葉尻を濁したフィアルに、アウストルは苦笑する。

「刃を交える前から負けるだなどと――」

 弱気なフィアルの言い様に再び眉を吊り上げたイアンは、鋭い一瞥で黙らせた。

「早馬を飛ばせ。ヴィトルに言って、待機している全ての兵をこちらに向かわせろ」

 長い年月をかけて積み上げてきたニダベリルの威信。今回の動向によっては、それを失うかもしれない。そうなれば、再び同じだけのものを手に入れるには、倍の時間と労力が必要になるだろう。ヒトの心とはそういうものだ。一度手に入れたものを失い、それを取り戻すことは、さらから作るのよりも難しい。

 兵の士気が失われることもそうだが、万が一「ニダベリルが敗れた」などという風評が流れれば、すでに制圧した者どもが騒ぎ出しかねない。


 エルフィアの力と豊かな土地とニダベリルの誇りと。


 手に入れたいものと、失えないもの。


 王であるアウストルが優先しなければならないのは、どれだろうか。


 ――両方を手に入れることは、可能か……?


 考えている時間がないことは判っている。だが、アウストルにはどちらも諦め難いものだった。


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