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ジア戦記  作者: トウリン
第三部 角笛の音色と新たな夜明け

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第三の手、そして未来を望む者

 フリージアとソルが大きく目を見開く中、火薬玉は不自然なほどにゆっくりと宙を行く。それはまるで鳥の羽がふわりと風に押しやられているかのようで。


 あそこだけ、時の流れが狂っているのではないだろうか。


 そう思わせるほどに、その動きは緩慢に見えた。

 だがしかし、それは錯覚に過ぎない。

 フリージア達がいる場所からは、それが落下する正確な位置を推測することは難しい。だが、明らかに第一投よりは北に進路が修正されており、飛距離も短くなっていた。

 もしかしたら、直撃は免れるかもしれない。けれども、完全に無傷というわけにはいかないだろうことは、判った。

 フリージアがこの場から飛び出しても、何も変わらない。何の意味もないことだ。

 手綱を打ち振るいそうになるのを堪えて、彼女はそれを強く握り締めた。腕を強張らせて成り行きを見守るしかない自分を、フリージアは絞め殺してやりたくなる。


 やがて火薬玉は落下に転じる――黒鉄軍が身を潜ませているその場所めがけて。

 意識せぬまま、フリージアは息を止める。

 だが、今まさに、それが地面に叩き付けられようとした、その時だった。

 唐突に、その黒玉は方向を変えた。さながら、目には見えない巨大な足に蹴り上げられたかのように。

 地面に衝突して爆発せずに跳ね返る筈がない。けれども、それは再び大きな放物線を描く。そして黒鉄軍が隠れている溝を遥かに飛び越え、彼方で大きな爆音を轟かせた。


「……何……?」

 フリージアは目にした光景に、呆然と呟く。理解不能な現象だった。

 ハッと気を取り戻し、橋の方へと目を向ける。ソルが放った熱球が、火薬を満載した投石器を焼き尽くす筈だった。

 まだ火の手は上がっていない。だが、彼女が目にしたのはわらわらと橋の上から逃げ出すニダベリル軍の兵士達の姿だった。彼らは、何も起きていない投石器を置き去りに、一目散にそこから離れていく。


「あ!」

 不意に、フリージアの腕の中のソルが何かに気付いたように声をあげた。

「どうしたの?」

「来てくれた!」

 喜びに溢れた声と共に、ソルは慌てた様子で何かを揉み消すように右手を握り込む。そしてフリージアを振り返り、パッと笑顔になった。


「見てて、ほら!」

 彼女の小さな指が指し示す方へ、フリージアは視線を向ける。と、彼女の目に飛び込んできたのは、勢いよく溢れ出した川の水だった。それはまるで意思があるかのように、橋の上に残された二基の投石器にのしかかり、薙ぎ倒す。

 雪解けの水だとしても、こんなふうにルト川が唐突に溢れ出す姿など、フリージアは今まで見たことがなかった。

 あまりに強烈な『自然の猛威』を言葉もなく見守るフリージアの視界の隅を、ふ、と何かがかすめる。目を凝らして、フリージアはそれを見つめた。


 ――あれは……?


 それは三つの人影だった。投石器を襲ったあまりに強烈な現象に目を奪われて、いつの間にか現れていたことに気付かなかった。

 後ろ姿では髪の色くらいしか判らない。一人は背を覆うほどの銀緑の髪、もう一人はグッと小柄で、肩にもかからないほどの白銀のクセ毛。そして、それを挟むように、銀青色の髪。


「ラタに――まさか……」

 ヒトでは有り得ない、銀色に若葉の色を散らした色。

 その色彩に、見覚えがあった。けれども、彼がこの場にいる筈がなかった。戦いの為にその特異な力を振るうことを拒み、険しい山脈の奥深くから足を踏み出すことを拒んだのだから。


 期待と否定に揺れるフリージアの隣で、ソルが華やいだ声で断言する。

「長よ。フォルスだわ」

 エルフィアの長、フォルス。安住の地、マナヘルムで己が民を護ろうとした者。

 エルフィアの里を訪れた時、フリージアは彼の考えを変えることができなかった。とにかく種の存続を望んでいたフォルスの考えが変わるとは思えなかったが、現に、彼はここにいる。


 ――何があったのだろう。

 フリージアがフォルスの元へ走ろうとした、その時だった。

 大地の奥で巨大なモノがのた打ち回っているような、鼓膜よりも腹の底に響くような音が足元から伝わってくる。その源がどこにあるのか、漠然としすぎていてフリージアには判らなかった。

 馬が不安そうに足踏みするのを、手綱を引いて抑える。

 地響きは、次第に大きくなっていく。地の底に棲む巨竜が、今にも牙を剥きながら頭をもたげそうだった。


 そして。


 フリージアはその光景に目を見張る。

 橋を渡り切り、ルト川の南岸に据えられた二基の投石器。それが大きく揺れた。と思うと、その直下の地面に亀裂が走る。グラリと傾いた投石器は、さながら大地のあぎとに咀嚼されるかのごとく、ゆっくりと沈み込んでいく。

 途切れぬ地響きに、硬質な物が砕かれていく悲鳴にも似た音が混じる。


 圧倒的な、力だった。


 これほどの力を持っているのにそれを使おうとしないエルフィアが、フリージアには理解できなかった――いや、あるいは、ここに姿を現したということは、ついに彼らも闘うことを決めたのだろうか。

 そんなふうに自らの思考の中に沈み込んでいたフリージアは、いつしか周囲が静まり返っていたことに気付く。鳴動は失せ、大地は、元通りの静寂を取り戻していた。

 まるで何事もなかったかのようだが、水浸しになって横たわる投石器と、不自然な形で地面から突き出している木の杭にも似た残骸が、そこで起きたことが現実であったことを示している。


「ジア?」

 名を呼ぶ声に、フリージアはハッと我に返る。いつの間にか、オルディンがすぐ隣に馬を並べていた。

「今のは何だったんだ?」

「フォルスだ……エルフィア達が助けてくれた」

「エルフィアが?」

 フリージアはコクリと頷いて前方を指差した。それに気付いたかのように、その先に立つ者が振り返る。長身で優美な佇まいは、あれ程のことを成し遂げたとは思えない涼やかさだった。穏やかな大地の色をしているであろうその眼差しが自分に注がれていることを、フリージアはひしひしと感じる。


 やがて南方から先ほどとは異なる地響きが近づいてくる。見れば、紅竜軍の一団がこちらに向けて馬を猛らせていた。どうやらラタは、あの二人を連れてくる前に、後方へも跳んでいてくれていたらしい。

 だが、ニダベリル軍の姿はごくまばらだ。取り残されているのは、投石器と共に南岸に渡ってきたが、あの川の氾濫で分断された者達ばかりだった。投石器を襲った水が再び溢れ出すのを恐れて、橋を渡ろうにも渡れないようだ。すでに溝から出てきた黒鉄軍が、彼らの制圧に向かっていた。


 フリージアは馬を走らせフォルス達の元に向かう。

 マナヘルムから出てきたということは、外の世界と関わる気になったと考えていいのだろうかと期待しながら。


 ――もしもそんなふうに変わってくれたのなら、それはどの程度までの覚悟があるのだろうか。ただ、今回だけの事なのか、それとも……


 距離はさほどなく、すぐにフォルスの元に辿り着く。

 先に馬から飛び降りて、次いでソルを下ろしてやった。

「フォルス、ありがとう! えぇっと……その人は……」

 まず第一声で、満面の笑みと共に感謝の言葉を口にする。そして首をかしげてラタの隣に立つもう一人のエルフィアを見た。年はヒトで言うなら十七、八というところだろうか。男性だが、まだ線が細い。銀色に青をまぶしたような緩やかに波打つ髪と、晴れ渡った秋の空のような色の切れ長の目をしている。


「彼はヘインダルだ。風の力を使う」

「あ、じゃあ、もしかしてさっきの火薬玉を弾き飛ばしてくれたのって――」

「彼の力だ」

 頷いたフォルスに、フリージアはパッと顔を輝かせる。

「やっぱり! ありがとう!」

 開けっぴろげな彼女の感情の露出に、ヘインダルは一度瞬きをし、顎を引くように無言で頷いた。どうやら無口なエルフィアらしい。


 もう一度ヘインダルに笑顔を向けてから、顔を改めて、真っ直ぐにフォルスを見上げた。

「でも、何でここへ?」

 率直なフリージアの物言いに、フォルスの唇に微かな笑みが浮かぶ。

「フレイ王と――若者達に説得されたのだ」

「王様が? マナヘルムまで行ったの?」


 繊細で王宮から出たことがないのではなかろうか、という風情の王があの山脈に分け入る姿が全く想像できず、フリージアは目を丸くする。ポカンと見上げてくる彼女に、フォルスは頷いた。

「そうだ」

「意外と根性あるんだぁ……」

 思わずフリージアは主君に対するものにしてはいささか礼を失した呟きを漏らしてしまう。だが、正直言って、驚き以外の何ものも浮かばない。

 それはフォルスも同感だったのだろう。笑みがわずかに深くなる。


「わずかな供のみで、マナヘルムにお出でになった」

「へえ……」

 何とも感想を述べ難く、フリージアはただ頷いた。そんな彼女に、余計な言葉を持たないフォルスは、淡々と経緯を語る。

「王が訪れ、貴女が考えていることを私に話された。我々はそれに共鳴し、ヘインダル、エイギルと共にルト川を下り、この地を目指した」

「エイギルも来てくれてるんだ。あ、もしかしてさっきの水って……」

「彼はまだ船の上だ。彼の力で川を下ってきたが、もう少しのところで間に合わなかったようだ。間近までは辿り着いていたのだが、この――ラタが船に現れて、状況を聞かされ、私とヘインダルだけが先にここに来た」

「そっか……うん、凄く助かった。ありがとう。で、王様は『あのこと』を話したの? あたしがこの戦いが終わった後にしたいと思っていることを?」


 曖昧なフリージアの言い方に、しかしフォルスは深く頷いた。彼がそれについてどう考えているのかを早く知りたかったが、フリージアは急かすことなくフォルスの言葉を待つ。


 彼は想いを反芻するかのように少しの間口を閉ざし、また続けた。

「貴女が里で私に投げかけた言葉が、最初の波紋だった。貴女は平穏だった里の者の心にさざ波を立てた――私も含めて。ソルは貴女と共に里を出たが、他にも幾人もの若者が私の元を訪れては変化を要求した。閉じ籠っているのはもう嫌だ、外へ出たいのだ、と。だが、私にはそれを受け入れることができなかった。変わった先に、今と同じほどの安寧があるという確信が持てなかったのだ。今手にしているものを、失いたくなかった」

 フォルスは自嘲を含んだため息を漏らす。

「だが、あの日フレイ王が里に現れた。貴女が一石を投じ、そのざわめきが収まらぬうちに、彼が大きく掻き回したのだ。我々の心は、もう元の静けさは取り戻せそうにない。貴女が望む未来を、我々も望んでしまった」


 大地のように揺るがぬ眼差しが、フリージアをヒタと見つめる。そうして彼はゆっくりとその場にひざまずいた。彼と目を合わせたままのフリージアの視線が、それに応じて下がっていく。彼の一言一句を聞き逃さぬように、耳をそばだてて。


「貴女は、我々の為に戦ってくれた。マナヘルムという居場所を盾に強制すれば我らの力を戦いに用いることも可能であったのに、貴女はそうしなかった。無条件に、エルフィアを護ろうとしてくれた」

 それは、当然のことだった。エルフィアもグランゲルドの民なのだから。

 そのことを恩に着せるつもりは、フリージアには毛頭ない。護ったことが理由でエルフィアが動くというのなら、それは彼女の望むところではなかった。

 そう反論の為に口を開こうとしたフリージアを、フォルスの穏やかな目が制する。


「その恩に報いる為ではない。我々はヒトを――貴女を信じることにしたのだ。このグランゲルドの人々を。エルフィアは、もう一度、世界と関わりたいと思う。だから、貴女が為そうとしていることに我々の力を使って欲しい。全面的に、貴女の考えを支持する。それがエルフィアの総意だ」

 きっぱりと言い切ったフォルスに、フリージアの口から知らず小さな息が漏れた。何と応じたらよいものか、言葉を探したけれども見つからない。


「そう……ありがとう」

 結局、短く、それだけ答える。

 そしてその瞬間、フリージアの中にあった計画は単なる夢想ではなくなった。エルフィア達がようやく踏み出した一歩、その足元をすくうようなことになってはならない。是が非でも、成し遂げなければならなくなったのだ。


 ――絶対に、負けられない。


 フリージアは目を上げ、川向うを見据えて、そう心の中で自分自身に言い聞かせた。

 思わぬ反撃を受けたというのに、ニダベリル側はシンと静まり返っている。進撃の準備をしているふうもなく、見えるのは再び橋の向こうに並んだ弓兵だけだ。

「ねえ、バイダル。ニダベリルはどうするかな?」

 背後に控えてフリージアとフォルスのやり取りを無言で聞いていた副官に振り返り、声をかける。

「投石器を失った今、総力を持って突撃をかけてくるか――あるいは、退却するか。表向きはあまり変わったようには見えないが、実際のところ、ニダベリル軍はかなり切羽詰まっている筈だ。兵の数はともかく、士気、それに食料。どちらも底を尽きかけていると思うがな」

「おとなしく帰ってくれるかな」

「ここに留まっても、得る物はもうないだろう。自尊心をかなぐり捨てて退却する方が、遥かに利がある」

「そうだと、いいな。夜の間にいなくなってくれてたらいいのに」


 フリージアは呟く。もう、この大地も充分に血を吸っている。これ以上は必要ない筈だ。ニダベリルも、そろそろグランゲルドが容易ならざる相手であることを悟ったに違いない。続ければ、自軍の被害が徒に増える一方であることを。

 ニダベリルがおとなしく引き下がってくれることを、フリージアは切に願う。

 こちらの意志と力は、もう充分に見せ付けたつもりだった。今度こそ、アウストルは彼女の言葉に耳を傾けてくれるだろう。


 取り敢えずは戦を終わらせ、対等な話し合いができる場を作る。

 そうして、食い潰し合うのではない未来を創っていくのだ。


 だが。


 グランゲルド側の希望的観測を裏切って、一昼夜が明けた後も、ニダベリル軍は何の動きも見せず対岸に居続けたのである。


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