迷い
グランゲルドの中心に位置する都、グランディア。
豪奢ではないが繊細な美しさを誇る白亜の王宮を、活気溢れる城下町が取り巻いている。
豊かな土地は豊富な作物を生み、穏やかな王の統治は争いごとを招くことなく、変わらぬ平和な日々を民にもたらしていた。民は皆笑顔で、憂いの気配は全くない。
この国の王、フレイ・ラ・グランは露台から眼下の城下町を見つめ、その芽吹いたばかりの新緑のような目をふと曇らせた。ひんやりとした秋の風が、彼の白銀色の繊細な髪を揺らす。
「ゲルダの娘は、自由を選んだのか……」
グランゲルドの第一位将軍、ゲルダ・ロウグの娘を迎えに行った筈のビグヴィルの報告に、フレイは視線を落とす。沈んだ王の声に、ビグヴィルが首を振った。
「いいや、王。まだ判りませぬ。儂もお目にかかったのはほんの少しの間ですから、彼女の為人を熟知したとは程遠い。ですが、かの娘は、とてもゲルダ殿によく似ておりました――とても」
「それは、お顔が、ですの?」
ビグヴィルにそう問いかけたのは、室内の長椅子に腰かけていた王妃、サーガだ。よく晴れた春先の空の色の目を、たおやかな背を覆う黄金色の髪よりもまばゆく輝かせている。
ビグヴィルは彼女の方へ視線を移し、深く頷いた。
「はい。同じ見事な赤毛をしておりました。顔だちも、ゲルダ殿の娘御であることが一目瞭然で。ですが、それ以上に、その身にまとう空気が彼女そのものでしたな」
「空気……」
ビグヴィルに言われ、フレイはゲルダを脳裏に浮かべる。
この国一位の女将軍は凛と美しく、いつも真っ直ぐに背を伸ばしていた。しなやかな強さで、常に前に進み続けていたのだ――その彼女がもういないということが、彼には未だに信じられない。
彼女は、常にフレイの支えだった。王妃や他の将軍、宰相も、確かに彼を支えてくれる。だが、ゲルダは彼に取って何ものにも換え難い存在だったのだ。
……まだ、あどけない少女だった頃から。
そう、十六年前も、彼女は艶やかに笑って言った。
『あなたはそれでいいのです。ただ、悠然と微笑んでいらっしゃれば』
あの時、国の命運を左右しかねない選択に対して決断を下したにも拘わらず、なかなか足を踏み出せなかったフレイに、ゲルダは彼以上に彼の選択に対する全幅の信頼をその目に浮かべて言った。
『白鳥と同じです。水面下で必死に掻いていても、人々の目に見える姿は優美でしょう? あなたは何も変わらぬ姿をお見せになっていればいい。沈まぬように必死で足掻くのは、我々の仕事です』
そうして、ゲルダは事を成し遂げた。あの時、彼女がいなければ、今、この国は全く違う様相を呈していたことだろう。
だが、今、彼女は失われてしまった。
再び訪れたこの危機に、今度は彼女の娘を引きずり込もうとしている。
――何と、ふがいない王だろうか。
目の前に広がるのは、平和を謳歌する国民たち。彼らの幸福を護ることは、フレイには荷が重い。
目蓋を閉じたフレイの背後で、ふと思い出した、という風情でビグヴィルが呟いた。
「娘御は、見事な緑の目をしておりました」
フレイが振り返ったその先で、老将軍は、静謐な眼差しを彼に向けていた。
「緑……」
繰り返したフレイに、彼は頷く。多くの言葉は使わずに。
「きっと、母御と父御の良いところを、余すことなく受け継いでおられるに違いありません」
「そうか……」
それきり口を閉ざしたフレイに代わって、サーガが夢見るようなうっとりした声で言った――彼がまさに思っていたことを。
「ゲルダがあんなふうに亡くなってしまって、もうこの世の終わりかと思っていたけれど、ちゃんと、わたくしたちに贈り物を残していってくださったのね。ああ……早く会いたいわ」
フレイも、ゲルダの娘に会いたいと思う。だが、同時に、会うことが怖くもある。
彼には、自分が、彼女の娘に誇れるような王だとは思えない。自分の弱さを、彼自身が誰よりも充分に承知していた。
北の隣国、ニダベリルが突き付けてきた、突然の宣戦布告。戦いを回避する為の条件としてニダベリル側が出してきた要求は、とても呑めるものではなかった。だが、戦争を始めるという決断もまた、フレイには下せない。
戦場へ送る兵士もまた、彼の民だった。民を戦いに赴かせることに――死に向かわせることに、フレイは踏み切れないのだ。
それは、彼の弱さだった。
ゲルダであれば、自身が正しいと思ったことは必ず貫き通す。そして、フレイがそれを貫こうとするならば、全力で支えてくれる。
しかし――。
緑の目を持つ、ゲルダの、娘。
フリージア。
胸の中で、フレイはその名を呟いた。
*
「あ、あそこ! ほら、村があるよ!」
スレイプの背の上から、フリージアは遥か下方を指さす。
その先にあるのは、さほど大きくはない集落だった。家屋は二、三十戸というところだろうか。ある程度の規模の町なら手持ちの地図に描かれているけれど、この村は記載が無かった。グランゲルドの村の多くがそうであるように、眼下の村も農耕や牧畜を主としているようで、畑と、放牧されている家畜が見える。
ビグヴィルを置き去りにしてから、フリージアとオルディンは東へと進路を取っていた。今飛んでいる辺りは、グランゲルドでもだいぶ東の端の方になる。しばらくは人目を避けて野宿を繰り返していたのだが、もう、スレイプの翼で三日の距離を稼いでいる。馬で駆ければ優に十日分は引き離している筈だから、そろそろまともな食事をしても良い頃だろう。
「確かに……焼いた肉ばかりの食事も飽きてきたしな」
オルディンはそう答えると、スレイプに下降の合図を出す。強面の割に従順な飛竜は、クワ、と一声鳴くと、拓けた野原を目指して鼻先を下げた。
二人が地面に降りるとすぐに、スレイプはフリージアに鼻づらを寄せてくる。彼女がそれをポンポンと叩いてやると、スレイプはクルクルと嬉しそうに喉を鳴らした。
「また、しばらく好きにしていてよ」
彼女の言葉にまるで相槌を打ったかのように瞬きを一つして、スレイプはバサリと風を巻き起こして飛び立っていく。
「じゃあ、俺たちも行くとするか」
「うん」
頷いて、フリージアは自分の荷物を背負った。中には、日用品の他に、この数日で食糧にしてきた動物たちの毛皮が入っている。村に行けば何かと交換できる筈だ。
「だいぶ、秋っぽくなってきたよね。ちょっと寒いや」
「そうだな……この毛皮、いくつか残しておいて長衣にするか」
昨年作ったものは冬が明けると同時に売ってしまったから、そろそろ用意をしておいた方がいいだろう。
「今年の冬は寒いかなぁ。去年は、結構雪が多かったよね」
その寒さを思い出して、フリージアはフルリと身を震わせた。そして、パッとオルディンを見上げる。
「あ、そうだ。南へ行こうよ。このままグルッと、国の縁沿いに」
「そうしたいのか?」
「うん。いいでしょ?」
フリージアがねだると、オルディンは肩をすくめて返した。
だいたい毎年、冬になると南へと下っていたのだ。今年は少し早めだが、元々目的のない旅路なのだから、別に構わない。
そうこうするうちに、村の影が見え始めた。
「どんな村かなぁ」
目の上に手をかざして、フリージアは目を細める。聞こえてくるのは、子どもたちの歓声だ。子どもに活気があるということは、村にも活気があるということだ。
ちょうど収穫の時期でもあるのだろう。村の中では、人々が忙しく立ち働いていた。
フリージアは、薪割りをしている一人に声をかける。
「あ、すみません。あたしたち、旅をしているんですけど、村長さんの家はどこですか?」
村には宿屋らしいものはないから、一番大きな家に泊めてもらうことになる。村で一番大きいのは、たいてい、村長の家だ。
声をかけられた村人は、目を丸くして額の汗をぬぐった。
「旅人さんかい! 珍しいなぁ。どっから来なすった?」
「北の方です。これから南に向かおうかと思ってるんです」
「へぇ。そりゃ大変だ」
何が大変なのかは判らないが、彼はそう相槌を打つ。そうして、指を伸ばして一方を示した。
「長の家はあっちの方だよ。扉が赤く塗ってある家だ」
「ありがとう!」
にっこり笑ってそう言うと、村人も笑顔を返してくれた。
彼が教えてくれた方向に足を向けながら、フリージアは村の中を見回す。
「良い村だね」
「ああ、そうだな。活気がある」
言われた家は、すぐにわかった。確かに扉が赤く、他の家よりも大きい。
「すみませぇん」
扉を叩きながら声をかけると、さほど間を置かずに戸が開けられた。現れたのは、ふくよかで優しそうな中年の女性だ。彼女はフリージアを見ると、小さく首をかしげた。
「どなた?」
平和なだけに、グランゲルドの人々は警戒心が薄い。宿を頼んで断られることは滅多にないが、それでも、こういう時はフリージアが交渉した方が、心証がいい。彼女が幼い頃はオルディンが表に立っていたが、いつしか宿を請うのはフリージアの役目となっていた。
「フリージアと、あっちはオルディンといいます。旅をしてるんですけど、しばらく宿を借りられますか? 納屋とかでもいいんです」
「まあ。構わないわよ。部屋はあるから、母屋に泊まりなさいな。娘が結婚して、出て行ったばかりなの。私はリンよ。夫は村長をやっていて、グエンというわ」
「ありがとうございます」
「さあ、入って」
身を引いたリンの横を通って、フリージアとオルディンは家の中へと足を踏み入れる。室内はリンの人柄を表わしているのか、温かな雰囲気に包まれていた。壁にかかっている毛織物は、彼女の手によるものだろうか。
「もうじき、夫が帰ってくるから、そうしたら夕食にするわね」
「嬉しいです。お腹ペコペコでした」
フリージアの満面の笑みに、リンも笑顔を返してくれる。
「あ、これどうぞ。宿代代わりです」
そう言いながら、フリージアは手にしていた袋から毛皮をいくつか取り出した。
「あら、ありがとう。銀狐と飛び兎ね? 何を作ろうかしら」
どちらも上質な毛皮を持つ獣だ。売れば金になるし、五枚もあれば色々と作れるだろう。
「ああ、お部屋はあの扉よ。荷物を置いてらっしゃいな」
「はい。行こう、オル」
「世話になります」
フリージアの後に、軽く頭を下げたオルディンが続く。
リンの言葉通り、村長のグエンは間もなく帰ってきた。二人を見て、笑顔で歓迎してくれる。
「やあ、二人で旅をしてるんだって? 兄妹――じゃないな。夫婦にしては、年が離れているような気はするが……まあ、人はそれぞれだ」
「夫婦じゃないですよ。兄妹の方が、近いです」
リンが作ってくれたのは、羊の肉のシチューだ。それに舌鼓を打ちながらのグエンの台詞にフリージアがそう答えると、彼は少しホッとしたような顔をした。こうやって宿を借りると、たいていグエンと同じような反応を返される。彼女が小さい頃は気付かなかったのだが、フリージアとオルディンが二人きりで旅をしていると聞かされると、相手は何故か微妙な顔をするのだ。
内心で首をかしげながら、フリージアはリンに笑顔を向けた。
「美味しいですね。これ、岩羊ですよね? なのに、臭みがないなぁ。それに、すっごく柔らかい。仔羊だから?」
「あら、ありがとう。成長した岩羊だけど、香草と一緒に煮込んでるのよ。で、一晩ねかせておくの。そうすると、臭いも抜けるし、肉も柔らかくなるのよ」
賞賛の言葉に、リンが嬉しそうに応じる。
そんな女性人二人の横で、オルディンはグエンに水を向けた。
「俺たちは色々仕事をしながら旅をしているのだが……何か、困りごとはないか?」
「困りごと?」
「ああ、獣退治やら、何かを採ってこいやら。たいていのことは、引き受ける」
オルディンの前で、グエンは匙を止めて考え込む。そして、頷いた。
「獣かどうかは判らないのだが、最近、岩羊が姿を消すことがあるんだよ。獣だったらどこかに血の跡やら引きずった跡やらがあるとは思うのだが、まったくきれいなもんで、でも、いなくなるんだ」
「人の仕業っていうことはないの?」
首をかしげて口をはさんだフリージアに、グエンは首を振った。
「いったい、誰が? この辺りには、他に村は無いよ。国の一番端っこだからな。岩羊は村のものだから、村人が勝手に何かすることもないし。牧草地のどこかに、穴でも開いたかな。そこに落ちているとか」
「じゃあ、俺たちが見て回ろう」
「そうだな、頼むよ。もしかしたら危険な獣がいるのかもしれないと思っていたから、あまりちゃんとは調べられていないんだよ」
「原因が判ったら、報酬として七日間の旅の食糧をもらえるか? 何も判らなかったら、その分の代金はこちらが払う」
オルディンの提案に、グエンが目を丸くする。
「それでいいのかい? どちらにしても調べてもらうんだから、何も判らなくても食糧はあげるよ」
「助かる。では、それで」
商談成立だ。
ちょうど食事も終わり、フリージアはペコリと頭を下げる。
「おいしかったです。ごちそうさま」
「お粗末さまでした。今日は疲れたでしょう? 早めにお部屋でお休みなさいな」
「そうさせてもらいます」
確かに、柔らかい寝台で眠れるとなると、急に眠気が込み上げてきたところだ。
一度見せてもらった部屋には元々寝台が一つあったが、それに加えて床に厚く藁を敷いた急ごしらえの寝床を作ってもらった。身体が小さいフリージアが藁の寝床を使う方が作るのも楽だろう、ということで、寝台をオルディンが、藁の寝床をフリージアが使うことになっている。どちらにしても、硬い土の上とは段違いの寝心地には違いない。
想像したら漏れてしまった欠伸を噛み殺すと、フリージアはリンとグエンにもう一度頭を下げた。
「じゃあ、おやすみなさい」
そうして、オルディンと共に部屋へと向かう。
部屋に入るなり、フリージアは寝床にバタンと倒れ込んだ。
「柔らかいぃ」
呻きながら猫の子のように丸くなった彼女に、オルディンが呆れた声を上げる。
「おい、靴を脱げよ。それに、毛布もちゃんと被れ」
「んん」
生返事はしたものの、行動を伴っていない。オルディンはため息をつくと、身を屈めて彼女の靴を剥ぎ、その身体を毛布で包み込んだ。
「みんな、やさしいよね」
毛布の温もりにうとうとしながら、フリージアは呟く。彼女に物心がついた頃からずっと旅暮らしだが、未だ嫌な目にあったことがない。どの村に行っても、温かく迎えてもらえる。どこもかしこも、平和そのものだ。
だから、ビグヴィルから戦争だなんて聞かされても、フリージアには全然想像がつかない。
と、ボソリと、オルディンが言った。
「この国は、平和だからな」
「え?」
毛布から頭を出し、オルディンに視線を向ける。彼は寝台に腰かけて、フリージアを見つめていた。
「平和な国だから、人の心も荒んでいない。警戒心もない。他人に優しく接することができる」
では、平和ではなくなったら、どうなるのだろう。
フリージアの胸の中を、そんな疑問がよぎる。
彼女は、平和な世の中しか知らない――温かな人々しか知らなかった。
彼らが戦いに巻き込まれたら、変わってしまうのだろうか。
「オルは、戦争って、知ってる?」
「兵として戦いに加わったことはないが、戦争の最中にある国には、行ったことがある」
「どんな、だった?」
オルディンは、しばらく何も言わなかった。フリージアも、黙ったまま、答えを待つ。
やがて、彼は再び口を開いた。返事は、簡潔なものだった。
「人は、生きることに必死になる」
彼の答えが、フリージアにはよく解からなかった。普通、人は一生懸命に生きているものではないのだろうか。
彼女の考えは顔に表れていたのだろう。オルディンは肩を竦めて続けた。
「言葉で説明しようとしても、伝わらないさ。この国でしか生きていないお前には、多分、解からない」
バカにされているのかと、フリージアは起き上がって唇を尖らせる。
「そんなの、ちゃんと説明してくれたら、解かるよ」
「どうかな」
オルディンの返事はそれだけで、流された。彼の眼差しには、フリージアを軽んじている色はない。ただ、本当に、彼女には理解できないと思っているだけなのだ。
フリージアは、キュッと唇をかみしめる。
彼女自身、本当に自分がその答えを知りたいのかどうなのか、確信が持てなかった。それを理解してしまったら、自分の中の何かがガラリと変わってしまう気がしたのだ。
「寝る!」
プイ、と言って、フリージアは毛布を頭からすっぽりと被って丸くなる。
やがて部屋の火が消され、ごそごそと衣擦れの音が続いた。そうして、部屋には静寂が訪れる。
暗闇の中で、フリージアは考える。ずっと――あの老将軍に会ってからずっと、頭の中にこびり付いていることを。
母親……そして、戦争。
フリージアは、今のこの生活が好きだ。
オルディンがずっと傍にいて、二人で気ままな旅をする。
これ以上のことは、欲しくない。将軍だなんて、きっと金持ちだろうけれども、そんなものは別に欲しくなかった。
けれど。
彼女の脳裏に、これまで出会ってきた人々が次々と現れては消えていく。今日、初めて言葉を交わしたリンやグエンも、その中にいた。
戦争になったら、優しくて温かな彼らはどんな目に遭うのだろう。
『戦争』と小さく呟いてみても、ただ、『人と人との殺し合い』と漠然と思うだけで、全然ピンとこない。『殺し合い』すらも、実感を伴わない。
きっと、国の全部が戦いの場になるわけではない筈だ。
――じゃあ、どこまで?
自問して、何度も首を振る。
自分には、関係ない。
そう思おうとしても、胸の奥底で、「本当に?」と囁く声が常に聞こえる。
母親は、どんな人だったのだろう。何を、フリージアに望んでいたのだろう。欠片も記憶に残っていない相手だというのに、何故か気にかかる。
色々なことが胸の中にはひしめいているのに、何一つ結論が出ない。
フリージアは、小さく縮こまってギュッと固く目を閉じる。
そんな彼女に注がれるオルディンの眼差しには、彼女は気付いていなかった。