奥の手
その動きは唐突だった。
それまで厚い壁を貫き通そうとする勢いで攻め込んできていたニダベリル軍が、短く二回吹き鳴らされた角笛の音と共に剣を収め、一斉に橋向こうへと戻り始めたのだ。
「これって、どういうこと?」
フリージアは隣に馬を寄せてきたオルディンを見る。だが、彼も眉をひそめて撤退していくニダベリル軍を見送るだけだった。
「まだ、あっちの戦力は充分残ってるよな?」
「うん……多分、まだ半分も投入してない」
目を眇めて橋の向こうを見やったオルディンの呟きに、フリージアは頷く。
こちらも兵力の三分の二を注ぎ込んでいたから、ニダベリル軍の撤退は願ったりというところではある。だが、離反者を出したとはいえ、数の上ではまだあちらの方が優位に立っていた筈だ。
「何なんだろ……?」
フリージアは一目散に去って行く彼らの背中を見送りながら、首をかしげる。
その疑問に回答をもたらしたのは、駆けてきたロキスだった。
「おいおい、のんびりしてんなよ! さっさと兵を退避させろ!」
「ロキス?」
いつも飄々とした彼が、今まで見せたことのない真剣な眼差しを向けてくる。
「アレが来るんだよ」
「アレ?」
「投石器だ。仲間がいると巻き添えになるから、撤退させたんだよ。……クソッ、もう一日はある筈だったんだけどな」
ロキスのぼやきを最後まで聞いている暇はなかった。
「ビグヴィル!」
フリージアは馬首を巡らせ黒鉄軍の中心にいる彼の元へ向かう。ビグヴィルもこの状況に疑問を抱いていたようだ。
「フリージア殿、ニダベリル軍が引いていきますな」
訝しむ響きをにじませ、ビグヴィルが馬上のフリージアを見上げてきた。そんな彼にくどい説明は抜きにして、端的に伝える。
「すぐに退避して」
その短い一言で、ビグヴィルは即座に反応した。ハッと顔を改めて、自軍に向き直る。
「黒鉄軍、退避!」
号令と共に黒銀の一群は鎧の音を響かせて動き出す。全身を包む鎧は優に子ども二人分の重さになるが、黒鉄軍の動きは迅速だった。統率のとれた動きで、まるで一体の巨大な獣のように引いていく。
その様を最後まで見送ることなく、フリージアも自軍へと指示を飛ばした。
「紅竜軍も動いて!」
どんなふうに動くのかは、事前に言い含めてあった。皆、淀むことなく速やかに行動に移していく。
「問題はなさそうだな」
そう声をかけてきたのはバイダルだ。油断なく隻眼を光らせて兵の動きを見つめる彼に、フリージアは頷きを返した。
「うん、予行演習もたっぷりしたしね。みんな、よくやってくれてる」
あとは、準備しておいた対策が功を奏するかどうかだ。
黒鉄軍も紅竜軍も、撤退がてら地面の各所に埋め込んでおいた『仕掛け』を解放していく。
それは黒鉄軍の鎧を模した布を着せ掛けた案山子だった。芯には弾力性に富んだ木を使ってあり、固定してある紐を断ち切れば勢いよく立ち上がる。まるで屈強な兵士のように、すっくと。火薬玉の直撃を受ければ一溜まりもないが、多少の爆風になら耐えてくれる筈だ。一つ一つは稚拙な作りではあるが、火薬玉によって巻き起こされる土埃も手伝って、対岸からは黒鉄軍が居残っているように見えてくれることだろう。設置したのも元々黒鉄軍がいた場所よりも後方になるから、余計に遠目になって、真贋の見極めがつきにくくなるに違いない。
退却に乗じて、黒鉄軍も紅竜軍も、一部は後方へ向かう群れから外れて左右に進路を取る。進むのは、黒鉄軍は東、紅竜軍は西だ。主戦場である橋から伸びる中央部分には手を加えていない。だが、その東西には縦横に張り巡らせた溝が掘ってある。
フリージア率いる紅竜軍が北端の砦でニダベリル軍を出迎えていた間に、居残り組の青雲軍と黒鉄軍が成し遂げておいたものだ。人がすっぽりと入れるほどの溝――それが、投石器から放たれる火薬玉の特徴をロキスから聞いて、フリージア達が採った対策だった。
火薬玉が破裂した時のその凶悪な威力を防ぐには、障壁が必要だ。土を高く盛って壁を作っても良かったが、その壁を越えて背後に火薬玉を放り込まれては、意味を成さなくなってしまう。
溝でも直撃を受けたらそれなりの被害は出るかも知れないが、背後から打撃を受けるよりは遥かにマシな筈だ。溝はその中で移動できるように幾筋も掘ってあり、さながら迷路のように縦横でつながっていた。
ロキス曰く、投石器は飛距離がある分だけ、火薬玉が放たれてからその飛んでくる方向を見極めれば逃げることは可能だということだった。溝の中で移動すれば、被害は最小限に抑えられる。
「だいたい、あの火薬玉にビビッてトチ狂うから直撃くらっちまうんだよな。頭冷やして動けば、そう簡単には当たらねぇよ。すばしこかったら充分逃げられる」
そう言ったロキスを信じて、この方法を選んだのだ。随所に、鉄の板を仕込んであって、いざとなったらそれを立てて爆風を防げる。
兵士が退却しきる前に、フリージアとオルディン、バイダルにロキスそして数十名は西の溝へと向かった。そして次々に馬ごとそこに身を躍らせる。溝の幅はギリギリ馬が方向転換できる程度、深さは馬上にいても頭が隠れる程にしてあった。
「おい、ジア? さっさと下りろよ」
溝に入る手前で立ち止まったフリージアに、オルディンが焦れた声を投げる。
「ちょっと待って」
オルディンにおざなりに声を返したフリージアは、溝の縁に立って橋の向こうを見据える。そこには、何もない。
こちらの陣地に襲撃をかけてきたニダベリル兵はすでに姿を消していた。いつもは橋を塞ぐように隊列を組んでいる弓兵も、今はいない。
天を裂くほどの喊声は消え去り、不穏な空気を感じているのか、鳥もさえずり一つ漏らすことなく鳴りを潜めている。風すら、その息吹きを止めているかのようだった。
と、微動だにせず見つめるフリージアの視界の中、ついにそれが姿を現した。
十人以上の人間に曳かれ、ゆっくりと川の向こうに横一列で並ぶ。
「フリージア!」
怒気を含んだオルディンの声が鋭く彼女の名前を呼ぶ。
「わかってるよ」
もう一度、遠目でも全貌が見て取れるその姿を目に収め、フリージアは手綱を振るって溝の中へと下る。
「ジア、何をぐずぐずしてたんだ!?」
即座に小言を浴びせてきたオルディンには取り合わず、フリージアはロキスに目を向けた。
「四台来たよ、いつもこんなもん?」
「四基、か。えらくやる気出してんなぁ。いつもは二基がせいぜいだけどな。アレ、持ってくるのも結構手間なんだよ。あとは、弾が何発かってとこだな、問題は」
「いつもはどのくらい?」
「十発。だいたい、二、三ぶっ放せば、たいていの相手は降参してくるんだよな」
「単純に考えたら、倍の二十発ってとこなんだろうけど」
「一発の威力がどれほどのものか――」
そう呟いたのは、バイダルだ。その呟きが、直後轟いた天地を揺さぶる激しい音で遮られる。
「うわっ!?」
轟音にいななき暴れ出した馬を宥めながら、フリージアは馬上で伸び上がってどうなっているのかを確かめようとする。が、すぐにその頭がグイと押さえつけられた。
「このバカ! 頭下げてろ! 何の為にこんな穴倉にいると思ってんだ!?」
オルディンの怒声が爆音よりも激しくフリージアの鼓膜を震わせる。
「つい……」
「つい、じゃない、このバカ!」
「ごめんってば、取り敢えず、かたまってると動きにくいからバラけよう。みんな動いて違う通路に行って」
フリージアの言葉で兵士達は溝の中を走り出す。
「まず、一発」
ポツリと数えた彼女の声を嘲るように、そこから続けざまに激しい音が鼓膜を打ち据えた。溝のすぐ近くに落ちたのか、時折頭上を強い風が行き過ぎ、バラバラと土くれが溝の中に転がり込んでくる。
「もう! 数えきれないよ! 七発目? 八発目? もっと?」
フリージアが喚いた傍から、また一発。冷静なバイダルの声が正確な数を伝える。
「これで七発目だな……八発」
「よく数えられるね! うう……耳がおかしくなりそう」
大音響に鼓膜が麻痺していて、フリージアは自然と声を張り上げてしまう。
どうやら張りぼての『囮』はうまくニダベリル軍の注意を引けているようで、危惧していたように溝へ火薬玉が放り込まれることはなかった。だが、それでも、思い出したようにすぐ間近で破裂音が轟く。
「十五発」
バイダルがそう告げた時だった。
不意に、それまでひっきりなしだった爆音が止む。しばらく待ってみたが、やはり静まり返ったままだ。
「あれ……? 弾切れ?」
思わず伸び上がって外を覗こうとしたフリージアの頭を、オルディンの掌が押さえ込んだ。その勢いに舌を噛みそうになって、フリージアは彼を横目で睨み付ける。その視線を完全に無視して、オルディンが背筋を伸ばして様子を窺った。
「動いてる」
「え?」
「投石器が、動いてやがる。奴ら、こっちに乗り込んでくるつもりのようだぞ?」
「ウソ!」
頭上のオルディンの手を振り払うと、今度こそフリージアは自分自身の目で川向こうの様子を確認する。首を引っ込め、そうして、呻いた。
「……ホントだ」
これは良くない展開だ。橋を渡って攻撃されたら、野営地が餌食になってしまう。
「どうしよう……」
投石器の動きは遅い。だが、彼らが橋を渡りきるのは時間の問題だ。
このまま彼らが進むに任せていたら、やがて野営地が射程内に入るだろう。あそこには傷病兵もいる。エイルやソルも。
この人数で、投石器を制圧し、恐らくその後に続いて進軍してくるだろう他の戦闘兵を相手にすることは可能だろうか。退避させているグランゲルド兵がその騒ぎに気付いて駆け付けるまで、持ちこたえることができるだろうか。
フリージアは頭を最大速で回転させる。
だが、あまり猶予は残されていなかった。
*
用意してきた火薬玉は四十発。扱いにはかなりの注意が必要な為、それが運搬できる限度だった。
その約三分の一を投下したところで違和感に気付いたのは、フィアルだった。
「撃ち方止めい!」
彼の一声は順々に各投石器の射手に伝えられていく。
「ダウ将軍、どうされた?」
何故さっさと全弾撃ち尽くさないのか、と鼻息を荒くするイアンだったが、フィアルは橋の先を見つめたまま答えない。彼の目は、煙と土埃の幕を見通そうとして眇められていた。そして、呟く。
「おかしい」
「何がだ?」
「グランゲルドの兵です。動きがない――それに、倒れない」
「何?」
フィアルの返事に、イアンもジッと目を凝らした。確かに、もやが晴れて見えてきた先には、あれほどの攻撃にも拘らず真っ直ぐに立ったままの人影がいくつもある。
「確かに、妙だな」
イアンもフィアルも、これまで何度もこの火薬玉の攻撃を受けた者達を目にしてきた。彼等は皆初めの一発を受けると共に逃げまどい、撃ち込んだ先にはいくつもの骸が転がっているのが常だったのだ。
だが、あのグランゲルド軍の様は、まるで堪えていないように見える。
「前進しろ」
不意に背後から届けられた声に、フィアルとイアンは同時に振り返った。
「王」
アウストルは同じ命令を繰り返す。
「無駄玉を撃たずに前進しろ。あれは囮だ。後退して、こちらの手が尽きるのを待っているのだろう。橋を渡り、もっと奥を狙え。兵も進軍させろ。橋さえ渡れれば、わが軍が遥かに有利になる。防衛線を崩したのが奴らの運の尽きだ」
冷徹な一瞥を残し、アウストルは口を閉ざした。この戦が始まってから微かな違和感を身にまとわせていた王だったが、今はそれを払拭し、いつもと変わらぬ威圧感を放っている。
それ以上の指示を待つことなく、イアンとフィアルが動く。
「第二、第三、第一、第四基の順に橋を渡るぞ! 準備をしろ!」
「グイ大隊、進撃の準備だ! 隊列を整えろ!」
静まり返っていたその場が、にわかに慌ただしくなる。
鈍重な四基の投石器が巨獣の群れのようにゆっくりと動き出すのに、さほどの時間は必要としなかった。




