裏切りのススメ
ルト川北岸。
そこを二人のニダベリル兵が歩いていた。グイ大隊第二中隊第七歩兵小隊に属するヴァリとベリングだ。
任務は川岸の警戒だったが、ヴァリの目は何も探していない。彼の頭の中は、昼間にあった出来事で埋め尽くされていた。
食事の支度、馬の世話、夜間の見回り等の『雑務』は、彼ら『転向者』の役割だ。他の正規軍の兵士や徴兵者――『ニダベリル国の』兵士達――が昼の戦いの疲れを癒している間も、『転向者』達は忙しく立ち働く。今夜の哨戒は他の者が当たっていたが、皆から離れた静かなところで考えたいことがヴァリにはあったから、当番の者に代わってもらったのだ。相談相手にベリングも巻き込んで。
――あれは、確かにロキスだった。
ヴァリは、昼間目にしたものを反芻する。
黒髪に赤い目。世に似た人間はいるかも知れないが、別人だとするには瓜二つの域を超えていた。
だが、何故、死んだと思われていた彼がグランゲルドの兵士として戦っていたのか。
「なあ、ベリング」
ヴァリは相方の名前を呼ぶ。さして熱のこもらぬ眼差しで川向こうに目をやっていたベリングは、その声に振り返った。
「何だ?」
「ロキスがいた」
「はあ?」
「グランゲルド軍にロキスがいたんだよ」
「ロキスって、あのロキスかい?」
「ああ」
頷いてヴァリは川面を見つめる。
月の明かりを映して輝く豊かで美しい流れ。そしてその川岸には、冬が明けてまだ間もないというのに、溢れんばかりに萌える木々。
噂で聞いたように、グランゲルドは豊潤な土地だった。空気の味までニダベリルとは違う気がする。
立ち止まったベリングがまじまじとヴァリを見つめながら訊いてきた。
「あいつは脱走したってことかい? 侵入者に殺されたんじゃなく?」
「そうみたいだな」
そう答え、ヴァリは肩を竦める。
「何だって、そんな……」
ベリングはその声に「信じ難い」という響きを込めて呟く。ヴァリも同感だった。脱走したのがロキスでなければ、さほど驚きは無かっただろう。ロキスだから、意外なのだ。あれほど戦うことを好んでいた――生きがいにしていたと言ってもいい、ロキスだから。
あるいは、より絶望的な戦いを、求めたのだろうか。
ロキスの口癖は、戦いで死ねるなら本望だ、だった。
今回の戦いで、グランゲルド側の劣勢は明らかな筈だった。あちらに行けば、戦いの中で命を落とせると思ったのかもしれない。
ベリングも同じように考えていたようだ。物思いにふけっていたヴァリを、彼の声が引き戻す。
「でも、あいつも当てが外れただろうな。今となっちゃ、グランゲルドよりウチの方が余程マズイ状況だろ?」
「そうだな」
ベリングの言うとおりだった。実際のところ、グランゲルドと比べてどうなのかというのは判らないが、彼の知る限りでは、ニダベリルがこれほどの打撃を受けたことは今までになかったことだ。
「……もしかしたら、この戦、負けるんじゃないか?」
ヴァリの頭の中に潜んでいたことを、ベリングが言葉にする。それは、他の者がいる場所で口にすれば、即座に処刑されてもおかしくない内容だった。兵の士気を脅かす発言は、それだけで軍紀違反だ。
「かもな。でも、まだ奥の手があるだろ? 明後日には使えるみたいじゃないか」
「ああ、火薬玉かい? 確かにね」
そう答えながらも、ベリングはどこか上の空だった。
ヴァリが言葉を重ねようとした、その時。
不意に、砂利を踏む音が響く。ヴァリもベリングも動いておらず――それは明らかに二人から離れた場所からのものだった。
「誰だ!?」
誰何の声を上げながら、灯かりをそちらに向ける。そこにあるのは丈の高い草の一群。
灯りに照らし出されたのは、そこから出てこようとしている一つの人影だった。相手の胸元に当たっていた光を、上へとずらす。
現れた顔に、ヴァリとベリングは同時に息を呑んだ。
「よう」
まるで散歩の途中で出会ったかのような、気軽な声。完全に寛いだ様子で、近付いてくるのは。
「ロキス」
二人は、ほぼ同時にその名を口にする。
「お前、何でこんな所に――」
呑気にそんな問いを発して、次の瞬間、彼らは腰の剣を抜き放った。今のロキスは、敵なのだ。
「おいおい、物騒だな」
刃を向けられても、ロキスにまるで怯んだ様子はない。構わず二人の元に向かってくる。
「黙れ! お前はグランゲルドに寝返ったんじゃないのか?」
「あ? まあ、そうとも言うかな」
「貴様!」
かつての仲間に向けてシレッとそう言ってのけたロキスに、ヴァリ達が気色ばむ。剣を抜く気配も見せない彼に、二人同時に躍り掛かった。
ヴァリもベリングも、『転向者』の中では腕が立つ方だ。つまり、ニダベリル軍の中ではそれなりの強さであるとも言える。しかし、ロキスは彼らの上を行っていた。
ロキスは振り下ろされたヴァリの剣をヒョイとかわすと、流れるような身のこなしで彼の背後に回る。しまったと思った瞬間、首に腕が回され、いつの間にかロキスの手の中に現れていた短剣が脈打つ場所にピタリと当てられていた。冷たい刃の感触に、ヴァリは動きを止める。
ロキスはヴァリの手から剣を奪うと、ベリングへとそれを向けた。
「よし、ベリングもそいつをしまってもらおうか? 時間がないからさっさと本題に入りたいんだよ」
ベリングの逡巡が、ヴァリには手に取るように判った。だが、所詮、ロキスに敵わないことを悟ったのだろう。ややして剣を腰の鞘に戻した。
「何しに来たんだ?」
捕らわれたまま、ヴァリは背後のロキスに問う。彼から殺気は微塵も感じられなかった。もしも殺す気なら、一瞬でけりがついていた筈だ――その腕が、ロキスにはある。
「言っただろ? ちょっとお話があるんだよ。お前らにも悪い話じゃないと思うけどな」
そう言って、唐突にロキスはヴァリを解放した。振り向いて慎重に後ずさり、ヴァリはロキスと距離を取る。
「何だ? 話とは」
ヴァリの促しにロキスが口にしたのは、耳を疑う内容だった。
「は?」
聞こえた台詞が受け入れ難く、思わず、ヴァリは間の抜けた声を出す。ベリングからも呆気に取られている気配が伝わってきた。
「だからさ、こっちに来ないかっての」
そんな二人に向けて、ロキスがまるきり同じ台詞を繰り返す。
「こっち? グランゲルドに、か?」
「そう」
にんまりと笑いながら、ロキスは頷く。寝返りを唆しているとは思えない口振りだった。
「他の『転向者』にも伝えて欲しいんだよな」
「そんな真似ができるわけないだろう!」
「そうか? 何でだ? 『転向者』がニダベリル軍にいる理由は何なんだよ? 忠誠心? まさかな。単なる惰性だ。あるいは妥協、かな。違うか?」
ヴァリもベリングも答えられない。どちらも、ロキスの台詞を否定する言葉を持っていなかった。
黙ったままの二人に、ロキスが呆れた声を上げる。
「おいおい、口が無くなっちまったのか? 何とか言えよ」
揶揄するようなその台詞に、ヴァリは唇を湿らせる。
「……そんなことはできない。無理だ」
「何が無理なんだよ。明日、武器を捨てて投降すりゃいい。それだけだ。あっちの陣地に入りさえすりゃ、グランゲルド軍が守ってくれるさ」
「無理だ。脱走なんて、その場で処刑だ。第一、グランゲルドが負けるかも知れないじゃないか。もうじき、投石器の整備も終わる。そうしたら、グランゲルドの兵士なんか一溜まりもないぞ」
「それも対策は練ってある。この三日間を見てみろよ。ニダベリルとグランゲルド、どっちが優勢だ? 第一、お前ら、このグランゲルドの様を見てねぇのか? ここに住みてぇとか思わねぇのかよ」
ロキスの言葉は、ヴァリの胸の奥に隠していたものを抉り出した。それを願わぬ者は、いないだろう。だが、ヴァリ達『転向者』には恐らく決して手に入らない。彼らが得ることができるのは、戦いだけだ。
「……無理だ」
もう一度、軋む声でそう呟いたヴァリに答えたのは、あからさまなため息。
「お前らさぁ、何が怖いわけ? 死ぬことか? けどさ、ニダベリル軍に留まったところでどうせ先は無いだろ? 今回の戦いを生き抜いたところで、また次がある。戦、戦、戦、だ。いずれ死ぬ」
それは真実だ。真実ではあるが――その台詞は、戦いに生き、戦いに死ぬことを望んでいたロキスから出たものとは思えない言葉だった。
「お前らしくない台詞だな」
嫌味ではなく、ヴァリはそう言った。ロキスはそれにあっけらかんとした笑いで答える。
「かもな。だが、オレは今のオレも気に入ってる」
そして、無造作に二人に歩み寄る。立ち竦むヴァリの胸倉を掴むと、グイと顔を近づけ、一変させた声音で詰め寄った。
「死ぬまでに何か一つくらいは、自分の頭で決めたことをしたらどうだ? オレは決めた。そして、今まで知らなかったことを知った。お前らはどうしたいんだよ? このまま、てめぇの頭を使わねぇまま死ぬのか?」
「今さら、できない」
ヴァリは否定の言葉を繰り返す。最早、何の為に拒んでいるのか、彼自身も判らなかった。
煮え切らないヴァリに、ロキスが舌打ちをする。
「まったく、しょうがねぇな。じゃあ、もっと頷き易いことを言ってやる。お前らに、『居場所』をやるってんだよ。『故郷』だ。グランゲルドは、お前らを受け入れる。捨て駒の兵士としてじゃなく、国民として」
ヴァリはハッと目を見開く。ロキスのその台詞は、刃よりも鋭く彼の胸を貫いた。
『故郷』。
それは、遥か昔に失われてしまったものだ。ニダベリルの中で、『転向者』の命は軽んじられる。戦いの最中でも隊列では常に徴兵された歩兵よりも前に出され、今回ダウ大隊からグイ大隊へと補充されたのも『転向者』だ。戦う為にのみ存在する『転向者』よりも、国に帰ればそこに他の生活がある徴兵者が温存されるのは当然である。しかし、そういった実利的な理由よりもさらに根深く、「『転向者』はニダベリル国民ではない」という感情的な壁が存在しているのだ。
ニダベリルの地に立っていても、そこに『転向者』の居場所はない。
ニダベリルにおける『転向者』同士のつながりは強いが、それは、彼らの寄る辺なさに因るところが大きい。そうやってつながっていなければ、フワフワと宙に浮いてしまう心持ちになるのだ。
「居場所……」
背後から聞こえたのは、ベリングの呟きだった。
居場所。
故郷。
帰る所。
それは、彼ら『転向者』が求めてやまぬものだった。
唐突に、ロキスがその手を放す。ふらついたヴァリに、彼は強い光を帯びた眼差しを向ける。
「うまくいくかなんざ、オレに訊くなよ。そんなことぁ、オレにも判らねぇ。けどな、賭けてみる価値はあると思わねぇか?」
「ロキス……」
「取り敢えず、他の『転向者』どもに伝えろ。その気がある奴は明日、武器を捨ててこっちに逃げ込めってな。ラタ!」
ロキスのその声と共に、突然、銀色の子どもが現れた。
「多くの時間はやれねぇ。機会は明日だけだ。今夜中に覚悟を決めろ。いいな?」
短く念を押すと、現れた時と同じように、パッとその姿が消える。引き止める猶予は無かった。
辺りはシンと静まり返り、あるのはヴァリとベリングの息遣いだけ。他には何もない。まるで夢でも観ていたかのようだった。
「今の……どう思う?」
先に口を開いたのは、ベリングだ。
「どうって……」
問われたところで答えようがない。ヴァリには、何と答えてよいのか判らなかった。黙りこくった彼に、ベリングが告げる。
「僕は他の奴に話そうと思う」
「本気か?」
「ああ。多分、聞きたいと思う奴の方が多いんじゃないかな」
「お前は……どうするんだ?」
ヴァリの問いに返されたのは、無言だった。だが、ベリングのその眼差しは言葉よりも雄弁に心の内を語っている。
――ニダベリル軍を出る? ……そんなの、無理に決まっている。できやしない。
ヴァリの頭に浮かんだのは、ロキスに向けて何度も繰り返したのと同じことだった。
だが、そう思う一方で、もしかしたらという希望が脳裏をかすめる。
もしも、この豊かな土地で暮らせるのなら――『兵士』ではなく、『人』として暮らしていけるのなら――
ヴァリはその先を考えることに怖ささえ覚えた。叶わぬ夢を、望んでしまうことが。
かすかな希望は、ヴァリが胸の奥底に封じ込めていた願望に息吹を吹き込んだ。それは真夏の雲のようにムクムクと大きく膨らんでいく。抑えきれないほどに。
「取り敢えず、戻ろうぜ」
川岸の偵察任務は夜通し行わなければならないことだ。それをしないということは任務を放棄したことになり、上官に知られれば処罰の対象になる。
しかし、ベリングのその促しに、ヴァリは知らぬうちに頷いていた。