猛攻
ルト川でニダベリルと対峙してから、三日目の朝を迎えた。
対岸には初日と寸分違わぬ風情でニダベリル軍が並んでいる。それはまるで三日前に戻ったようで、この二日間でグランゲルドが彼らに与えた損失など、全く存在していないかのようだった。
もうじき、進撃の角笛が吹き鳴らされる頃だろう。そうしたら、また戦いの始まりだ。
フリージアは隣のロキスを見上げて、眉をひそめる。
ロキスの傷は内臓に届くほどのものではなく、脇腹の筋肉を裂いただけだった。とは言え出血はそれなりにあり、諸手を挙げて戦場に送り出せるような状態でもない。休んでいるように言ったのだが、彼はどうしても戦うと言って聞かなかったのだ。
出会った頃のロキスなら、フリージアも断固として撥ねつけていただろう。命を賭け金にして綱渡りを楽しんでいたような、ロキスなら。だが、昨日の彼は、はっきりと言った――「死にたいわけじゃない」と。ロキスの口から初めて聞かされたその台詞を、何故かフリージアは彼の本心だと確信した。
それに、昨晩傷の手当て中にロキスから発せられた提案には、確かに心惹かれるものがあったのだ。
あの後、フリージアの天幕の中、バイダルの眼差しによる無言の叱責を甘んじて受ける彼女に、医師の手当てを受けながらロキスは言った。
「戦場に出て、ニダベリルの様子を見てみたい」と。その真っ只中に立ってみれば、今のニダベリルの状況を推測することができるかもしれないと、ロキスは言ったのだ。
当然、フリージアは即座に承諾することはできなかった。だが、実際のところ、ニダベリル軍の現状を評価できるなら、今後の見通しを立てる上で大きな助けとなる。迷った末にフリージアは頷いたのだ。ただし、少しでも傷が痛んだり出血があったりしたら、すぐに下がるように念押しをして。
「本当に大丈夫なんだよね? 無理しないでよね。ちょっとでも――」
心配顔のフリージアに、ロキスは半ば呆れたような目を向けた。
「こんなの何てこたねぇよ。先生にもガッツリ縫ってもらったしな。いいから、あんたはグランゲルドを勝たせることだけ考えてろよ」
「そんなこと言ったって、痛みに鈍い人は心配なんだよ。死んでても動き続けそうで」
「どんな化けモンだよ、それ?」
へらへらと笑い飛ばそうとするロキスを、フリージアは睨み付ける。
「笑い事じゃない。約束守れないなら、行かせないから」
「わかってるって。ちょっと一回りしてきたら、撤退するさ」
それが本気かどうかは判らないが、その言葉を信じるしかないのだろう。フリージアが諦めのため息を漏らそうとした時、角笛の音がそれを遮った。
進軍の音色だ。
「来るね。オル、バイダル、お願い」
左右に控える二人に、フリージアは素早く目配せをする。彼らはどちらも浅く頷くと、手綱を引いて駆け出していった。それぞれの後を、紅竜軍の第一陣が追い掛ける。
「じゃ、オレも行ってくるわ」
その一言で、ロキスはバイダルが率いる右翼の後を追った。
第二、三陣と共に残され、フリージアは背を伸ばして戦場を見守る。
ニダベリル軍の動きは単調だった。初日や二日目と同じように、生きた防壁である黒鉄軍の正面突破を試み、それが成されなければ左右に散開して迂回をしようとする。一日目のニダベリルの攻撃を基に、黒鉄軍の配置は左右の両端を厚めにしてあった。易々と崩せはしない。
それまでの二日と同じように、フリージアは旗色を見て紅竜軍へ交代の指示を出す。このままいけば、また同じように勝利を手にできるだろう。
だが。
――こんなに単純でいいのかな。
第三陣に出撃の合図を出した時、フリージアの胸にふとそんな疑問が湧き起こる。何故、ニダベリルは同じ攻撃しかしてこないのだろう、と。三日目にもなれば、そろそろ何か手を変えてきてもいい筈だ。もっとも、それが昨晩の隠密行動だったとすれば、事前に阻まれ打つ手が無くなっただけなのかもしれないが。
飛び出していった第三陣を見送るフリージアは、何となく嫌な予感を覚える。その源が何なのか突き止めようと、戦場に目を凝らした。
右翼も左翼も、先の二日間と同じように懸命に戦っている。
――同じ?
いや、違う。もう一度、左翼を見て、右翼に目をやった。
右翼の方が押され気味だ。しかしそれは、グランゲルド側が弱まっているからではない。一人が倒れたら一人を追加するように、ジワリジワリとニダベリル兵が数を増しているのだ。その一方で、左翼は昨日まで程の押しの強さが感じられない。
――左翼への攻撃は、囮……?
フリージアの頭にその考えがよぎるのと、中央辺りで固まっていたニダベリルの歩兵がときの声をあげて右翼へ押し寄せるのとは、ほぼ同時の事だった。
「右翼を崩す気か」
フリージアは呟き、後ろに控える紅竜軍を振り返った。
つい今しがた交代したばかりの第二陣は、未だ使えまい。第一陣なら、少しは休息を取れたはずだ。
「両翼第一陣、あたしに続いて!」
そう声を張り上げ、フリージアは右翼へと駆け出した。間髪を容れず、第一陣が彼女の後に続く。
近付いてみると、情勢がより明らかになってくる。馬上から見下ろしても、やはりグランゲルド兵よりもニダベリル兵の方が多い。大勢の人の中、圧倒的な強さを見せているのはバイダルだった。彼は来た相手を迎え討つのではなく、自ら率先して剣を振るっている。それよりもだいぶ左手の方ではロキスが一人の歩兵と剣を交わしているのが見えた。見知った兵なのか、切り結びながら何か言い合っているようだ。
グランゲルド兵とニダベリル兵が剣を打ち合う只中へ、フリージアは真っ直ぐに飛び込む。
彼女を狙ってくるニダベリル兵を馬で牽制しながら一瞬橋の方へと目を走らせると、続々とやってくる歩兵の波が見えた。
――ちょっと、きついな。
そんな考えがフリージアの頭の中をよぎった時だった。
グランゲルド兵とニダベリル兵が混ざり合おうとしている、その向こう。川岸から内陸にかけて生えた灌木の茂みから、青い鎧を身に付けた兵士達が立ち上がる。その数、五十名ほどか。
「構えぃ!」
小隊長と思われる一人の声で、ザッと一斉に弓が立てられた。
そして。
「射よ!」
その号令と共に、こちらへ押し寄せてこようとしているニダベリル兵めがけて間断なく矢が降り注ぐ。確かに崖の上から射たほどの威力は望めないが、予期せぬ攻撃は兵士たちを混乱させた。
「青雲軍……」
恐らく、万一の時の為にスキルナが潜ませておいたのだろう。だが、接近戦になれば弓兵は圧倒的に不利だ。彼らにニダベリル兵を近付けさせない為には、そちらへ向かわせる余裕を奪うしかない。
「行け! ニダベリルを押し戻せ!」
兵達を鼓舞しながら、フリージアは自らも剣を抜き放ちヒラリと馬から飛び降りる。ニダベリル側は騎馬兵よりも歩兵の方が遥かに多い。相対するなら同じように自分の脚で動く方が良かった。
際立つ赤毛のフリージアに、ニダベリル兵が色めき立つ。二、三名から同時に振り下ろされた剣を、彼女は身を屈めてかわす。頭上で響いた鋼の音が消えきらないうちに両手で握った剣を水平に薙ぎ払った。以前は細剣を使っていたフリージアだが、今はあれよりも倍ほどの太さを持つ長剣に替えている。それでも男達が手にしているものよりは遥かに軽いが、細剣よりは重みがあった。その重さを利用して、剣を振るう。
混戦だった。
次から次へとかかってくるニダベリル兵を、フリージアはわずかな逡巡も見せずに迎え討つ。
剣を掴むその手に響いてくる、ヒトの肉を切る感触。
それは、一太刀ごとにフリージアの身体に染み込んでいく。
だが、どんなにおぞましくとも、躊躇ってはいけない。
フリージアがまず優先すべきなのは自分自身の命。そしてグランゲルドの兵の命であり、その次がニダベリル兵の命だ。何を優先すべきなのかは明白だった。
ピッと、生温かいモノが彼女の頬に飛ぶ。
どんどん身体が熱くなっていく一方で、フリージアの頭の奥は冷え、研ぎ澄まされていく。冷静に、己を制御する。どんなに戦いの熱狂の渦中にいようとも、自分自身を失うわけにはいかなかった。
身体の強さは手に入れた。後は、それを使いこなせる心の強さを保ち続けなければ。
背後で唸りを上げた刃をかわして振り返りもせずに切先を突き出す。
横から水平に襲ってくる剣を弾き飛ばしてその反動で斬り返す。
誰かを傷付けたくて手に入れた力じゃない。けれども、それを使わずにいたら何事も成せないのだ。それでは、意味がない。
フリージアはきつく奥歯を噛み締めて、剣を握り続ける。
いったい、どれほどの時間剣を振るい、どれほどの兵士を傷付けたのか、フリージアには判らなかった。
しかし確実にニダベリルの勢いを削ぎ、橋の方へと押し戻していく。
やがて彼方から響いてきた角笛の音。
それと共に、ニダベリルの猛攻は撤退へと転じる。
追撃は必要なかった。ただ、一刻も早く去って欲しかった。
フリージアは引いていく彼らの背を見送りながら、だらりと両手を下ろす。
戦いの炎が消えた後に残されたのは、三日前と同じ光景だ。昨日は少し減らせたと思ったのに、また、増えた。
――明日は? 明日は、どうなんだろう?
辺りに満ちる呻き声に、フリージアは両手を上げて耳を塞ぎたくなる。
ふと気付くと、傍らにバイダルが立っていた。そうして、その隻眼で彼女を見下ろしてくる。
「まだ、やれるのか?」
バイダルのその言葉が問いなのかそれとも確認なのか、フリージアには判らなかった。
もうできないと言ったら、彼は何と答えるのだろうか。
フリージアはぼんやりとそんなふうに考える。バイダルは、彼女に答えを迫ったりはしなかった。ただ、黙って横に佇んでいる。
周囲では、怪我の軽い兵士が負傷兵を運び始めていた。立てないほどの傷を負っていても、自ら命に危険がないと判断した者はかぶりを振って救助の手を断り、他の者へ回るように伝えている。
そうやって、怪我の重い者から順に、回収されていく。グランゲルドもニダベリルも関係なく。
――戦いさえなければ、いいのに。
戦いさえ終わってしまえば、敵も味方もなく、同じヒトとして接することができるのだ。
確かに剣を振るっている間は何かに目が眩んでいるかのように相手を傷付けてしまう。
けれど、戦う相手を憎んでいるわけではない。憎いから戦うのではない。ニダベリルが戦いを仕掛けてくるのにも、目的があるからだ。それは豊かな食糧かもしれないし、荒れ地を潤してくれる不思議な力かもしれない。
けれど、いざ刃と刃を打ち合わせてしまうと、まるで戦いそのものが目的のような気がしてきてしまう。
だが、決してそうではないのだ。
戦いを終わらせる為には、戦わなければならない。それは相容れないことだが、現状では確かな事実だった。
フリージアは赤く濡れた剣を拭い、鞘に収める。
と、彼女の耳に駆けてくる馬の蹄の音が届いた。振り向いた先にいたのは、予想通りの相手だ。
「フリージア!」
彼は止まりきっていない馬から飛び降り、名を呼びながら走ってくる。
「オル」
「お前、前に出るなと言っただろう?」
険しい眼差しでフリージアの身体を上から下まで確かめて、彼女の頬に目を留める。不意に手を伸ばして親指でそこをこすってきた。
「ちょ、痛いよ、オル」
ムッと唇を尖らせて抗議したが、彼は自分の親指に付いた赤茶けた色に眉をしかめ、しげしげとつい今しがた拭ったばかりのフリージアの頬に視線を注ぐ。
「怪我は?」
「ないよ、一つも」
彼女がそう答えた後もたっぷり呼吸三回分はフリージアを見つめ、ようやくオルディンが息をついた。
「……大丈夫か?」
フリージアの目の奥を見通そうとするようにジッと覗き込んできながら、彼が問う。何についてそう訊いたのかは言わなかった。多分、彼自身、解かっていないに違いない。
だが、フリージアは彼に応じる答えを持っていた。
「大丈夫だよ」
フリージアは言葉だけではなく、ニッと笑って見せる。
「あたしはやるよ。最後まで、やりきる」
その笑顔と共に、彼女は胸を張る。それは虚勢かもしれない。けれど、虚勢でも、貫き通せば本物にできる筈だ。ここで全てを放り出してこれまでのことを無に帰すよりも、偽りをごり押しした方が遥かにいい。
「……そうか。なら、いい」
なおもフリージアを見つめた後、オルディンは呟くようにそうこぼし、片手を上げて彼女の頬に触れる。いや、本当に触れたかどうかは、彼女にも判らなかった。彼の手はすぐに離れていき、仄かな温もりだけがフリージアの頬に残る。
そうして、オルディンは身を翻すと忙しく立ち働いている兵達の元へと向かっていった。
遠ざかっていく彼の背中に、フリージアはしがみついてしまいたくなる。けれど、今はそうするわけにはいかなかった。
――あたしは、ちゃんと独りで立っていなくちゃいけない。
将であるフリージアが、誰かにすがるわけにはいかなかった。
全部が終わったら、抱き付いて、抱き締め返してもらおう。そうして、その腕の中で何も考えずに眠らせてもらうのだ。
自分自身にそう言い聞かせ、ともすれば俯いてしまいそうになる顔をグイと上げた。
――あたしがしたいことは、何? それは戦うことじゃない。戦いは、ただの寄り道、途中経過だ。あたしがしたいことは、別にある。その為にするべきことをするんだ。
フリージアは自問自答と共に拳を硬く握り締める。
――大丈夫、あたしはやれる。
胸の中で、そう呟いた。と、その時。
「フリージア」
不意に名を呼ばれ、フリージアは声がした方へと振り返る。
「ロキス」
彼は片手を上げながら、たった今まで繰り広げられていた戦いの名残などまるで感じさせずに、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべた。
「よう、無事だったか」
「そっちこそ。傷は平気?」
「大丈夫だって。ほらよ」
言いつつ、服をめくって包帯を見せてくる。そこには小さな赤い染みはできていたが、大きな出血はなさそうだった。
「もう、無茶はしないって言ってたくせに」
「あんなの無茶のうちにゃ入らねぇよ」
彼は肩を竦めてそう答える。が、不意に軽い表情を払拭し、フリージアを見下ろしてきた。
「どうしたの? やっぱり痛い?」
「違うよ。あのな、今の戦いで、ちょっと思いついたことがあるんだよ。試してみたいんだがな」
「思いついたこと?」
「ああ」
首をかしげたフリージアに、ロキスが頷く。いつになく真剣な色を帯びているその赤い眼差しに、フリージアは彼の言わんとしていることがいつものような軽口ではないことを悟る。
「戦いに関すること?」
「そうだ」
ロキスがまた頷く。フリージアは彼の目を見返した。そこには、何か硬いものがある。
「じゃあ、皆がいるところで話そう」
「わかった。けどな、できるだけ早く答えが欲しい。あんまり先延ばしにはできねぇんだよな。今夜にでも動きてぇんだ」
「なら、すぐに集まってもらうよ」
「ああ」
ロキスのその様子に、ふとフリージアは戦いの最中の彼のことを思い出した。ニダベリルの兵士と、何か言葉を交わしていなかっただろうか、と。
――もしかして、あれが何か関係している?
そんな考えが彼女の頭をよぎって、そして消えていった。




