闇に乗じて
川岸の哨戒を任じられたロキスとウルは、馬で上流へと向かっていた。微かなせせらぎ以外に音はなく、川面は穏やかに弱い月光を反射している。
橋のある辺りから下流は開けた土地になっているが、上流の方は木々が生い茂った谷へと続いていた。崖の高さはまだそれほどでもないが、進む先は上る一方だから、もう少し行けば川を泳ぎ切っても岸に上がることは難しくなってくる。そうしたら、見回り終了だ。
「流石にニダベリル軍もルト川を泳いで渡ろうなんて考えないみたいですね」
常歩よりもゆっくりと馬を進ませ、川の隅々まで見通そうとしながらウルが言う。水面は穏やかな波があるだけで、怪しい影は無い。
「まあ、頭に荷物乗っけて泳ぐってわけにもいかねぇからなぁ。だいたい、ニダベリルの奴はろくに泳げねぇよ」
「え、そうなんですか?」
ウルは目を丸くしてロキスを見る。彼は肩を竦めて返した。
「ああ、ニダベリルにゃ、そんなに水があるところがあんまりねぇからな。ヘルドに行った時にお前らも川を見たろ?」
「え? はい」
ウルは一瞬目を泳がせる。溺れたことは、まだ記憶に新しい。
「オレが見た中でニダベリルじゃあれが一番でかい川だな。他のはチョロッと水があるくらいでな」
「え、でも、そうしたらどうやって作物を育てるんですか?」
「だから食うもんに困ってこうやってあちこちに戦争吹っ掛けてんだろ。毎年飢饉だ何だと騒いでるよ」
「……」
その瞬間、ウルの顔が言葉よりも雄弁にその内心を物語る。
――今まさに戦っている相手に同情するとはな。
つくづくお人好しばかりの国だと、彼は半ば呆れ、半ば感心する。こんな調子でよくぞあれだけの士気が保てるものだとも。
ニダベリルでは、敵だと認識した相手のことはとことん蔑視する。グランゲルドの事も、かつてエルフィアを盗んでいった略奪者だと呼ばせていた。豊かな国に胡坐をかいた、腑抜けどもだ、とも。
そうやって、士気を鼓舞するのだ。
間違っても、ニダベリルから不当な要求を突き付けられている被害者なのだとは思わせない。少し冷静になって考えれば何かがおかしいと気付く筈だが、ニダベリルの兵士は自らの頭で考えるということをあまりしない。そういうふうに『教育』されていた。
「まあ、川に落ちても溺れん程度にゃやれるかな」
ロキスが話の流れを変えようとそう言うと、彼の意図を察したのかウルはニコリと笑った。
「グランゲルド軍は、一応水練もありますよ。川の氾濫なんかの時に救助するのも軍の仕事なので」
「そんなことをしてんのか?」
目を丸くするロキスに、ウルが頷いた。ロキスがグランゲルドに来てからは災害らしい災害がなかったから、そういう方面で軍が活動する場面を彼は目にしたことがなかった。
「まあ、災害救助とか、獣退治とか……でも、結構大変なんですよ?」
軍隊が人命救助。
ロキスにはその感覚がよく判らない。だが、人を相手に戦ったことがないからと言って、グランゲルド軍が腑抜けだというわけではないことは、もう彼には判っていた。
今隣を歩くウル。ロキスよりも遥かに年下の彼でさえ、この二日間戦場に出ていたにも拘らず、今もこうやってロキスの隣を歩いていられるのだ。それなりの腕がなければ、今頃軍医の前に転がっているか、最悪土の中にいる羽目になっているだろう。
ニダベリルから戻ったばかりの頃は、ウルの腕もそうたいしたことはなかった。しかし、この半年ばかりで、彼は目覚ましい成長を遂げている。時折剣の相手をしてやっていたロキスだが、その度にウルの変化に内心舌を巻いていた。
何かに駆り立てられるようにウルは鍛練に励み、そして吸収していく。ニダベリルでは血反吐を吐くような訓練が科せられるが、それでも彼ほどの伸びは見られない。
しかし、そうやって感心する一方で、彼の中には何となく面白くない気分もあった。
何故なら、ロキスは、未だ後方待機のままだったから。堪えきれないほどに疼く腕を抑えて待っているというのに、フリージアは一向に彼を呼び出さない。
確かに、エイルとソルの護衛という役割はある。だが、ロキス程の腕前であれば戦場に出した方が遥かに有用な筈だ。
「なあ、ウル」
「はい?」
川面に視線を投げながら少年に声をかけると、彼は振り向いて小首をかしげた。
「フリージアのヤツは、何でオレを戦わせないんだろうな?」
「え?」
「あいつ、ガキどもの面倒見とけって言うだけだろ? オレだったらニダベリル兵なんざ屁でもねぇのによ」
「それは……ほら、将軍はあの二人のことが大事だから――」
「あん? そんなの、後ろに下げときゃいいだろ。そこまでニダベリル軍が辿り着ける訳がねぇだろうが」
ロキスが裏切ることをフリージアが警戒しているとは思っていない。それを危惧しているのならば、こんなふうにウルと二人きりで他の兵の目がない場所になど来させないだろう。だからこそ、使える道具である彼を使おうとしないフリージアに、納得がいかない。
口を尖らせるロキスに、ウルが唸る。
「えぇっと、その……あれですよ。きっと、昔の仲間とロキスさんを戦わせるのが、お嫌なんですよ」
「はあ? そんな甘いことほざくわけねぇだろ」
ウルの推測を、ロキスは鼻で笑い飛ばした。将にとって、兵は駒だ。そんなふうに一人一人の兵士のことを考えていたら、立ち行かなくなるだろう。
グランゲルド軍の兵士の数自体は二日間の戦闘を経てもそれほど減っていないが、個々の疲労はやはり蓄積されつつある。使える者がいるなら、さっさと戦場に放り込むべきだとロキスは思うのだ――余計なことに気を使わずに。ロキスの中では、ニダベリルはもうただの『敵』だった。元々、彼らを『仲間』と思っていたことすらないが。
戦場では『戦う相手』が必要だから、敵味方に分かれていただけに過ぎない。
今も、ロキスは戦いたくて仕方がなかった。
戦場に出て、並み居る敵を片っ端から蹴散らしたかった。
それ自体は、『兵士』となった頃からずっと持ち続けてきた気持ちだ。けれども、その根底にある感情は、何となく以前と違う気がする。どんなふうに違うのかと問われると、ロキス自身にも答えることができないのだが、何かが違う。
この見回りが終わったらフリージアに訊いてみようと、ロキスは思った――何故、彼を戦場に出さないのか、と。もしもウルが言ったようなことが理由であるのなら、明日からでも子どものお守りからは解放させてもらうのだ。
そう、ロキスが心に決めた時。
対岸で、ほんの一瞬何かがキラリと光を弾いた。遥か向こうの樹の陰に目を凝らす。
「おい?」
ウルに声をかけるが、彼はきょとんとしている。何も見なかったようだ。だが、夜目の利くロキスの赤目は、木々の間に蠢くものを確かに捉えていた。
足元だけを照らすように作られた明かりを消して、ウルに樹の陰に入るように手で合図をする。月明かりを頼りに目を凝らした。
「連中、上流に向かってるぜ?」
「え? ニダベリル兵ですか?」
サッと緊張を走らせたウルに頷く。列は長く、随分と数がいそうだった。
「ああ。この先にゃ、何もなかったんだよな? 橋は、昔ニダベリルが架けたあれだけなんだろ?」
「その筈です。地図には何も描かれていませんし、ここに到着した時に、ちゃんと偵察しましたから。でも……陣地から随分離れましたよね」
ウルはふと後方を振り返って不安そうに眉をひそめた。すでに、馬を歩かせて一刻は経っている。ロキスもそろそろ戻ろうかと思っていた時分だ。
「多分、確認したのはここよりももう少し行ったくらいまでじゃないかな……」
「おいおい、ちょっと待てよ。まさか、川を渡れる場所があるってんじゃないだろうな?」
今のグランゲルドの戦い方は、一方向からの敵を相手にしていればいいから成り立っているのだ。それが脇から攻撃を受けることになったら、一気に話が違ってきてしまう。
「こんな手を使おうってのは、ダウ将軍の方だろうな。イアンのオッサンは歯噛みして悔しがってるだろうぜ。姑息だ! ってな」
ひらひらと手を振るロキスに、ウルは口を尖らせる。
「ちょっと、笑いごとじゃないんですよ? 何とかしなくちゃ」
「そりゃそうだ。フリージアの所まで、馬を走らせても半刻はかかるな……オレは奴らを追うからお前はフリージアの所に戻って報せて来い」
「ロキスさん、一人で行くんですか? 鉢合わせするかもじゃないですか」
「そん時ゃそん時だ。足止めくらいはしていてやるさ。おら、さっさと行けよ」
そう言って、ロキスはさっさと馬首を巡らせた。いつの間にか、川向こうの人影は消えている。
ロキスが手綱を打ち振ると、馬は即座に駆け出した。少し遅れて、背後で遠ざかっていく馬の蹄の音が彼の耳に届く。
ウルが陣営に戻って誰かを連れてくるまで、どれほどの時間がかかるだろうか。
もし仮に他に橋があるとして、誰も気づかないような代物ならきっと小さなものに違いない。奴らが渡り始める前に辿り着けば、侵入を阻止することは可能な筈だ。
全速力で馬を駆けさせると、じきに再びニダベリル兵の最後尾が見え隠れし始めた。彼等の目につかないように、速度を緩める。
彼らに追いついてから、さほど経たぬうちだった。次第にニダベリルの動きが鈍くなり、足踏みを始める。
そして、前方に人の気配。
ロキスは小さく舌打ちを漏らす。
「クソ! もう渡って来てんのか」
だが、まだその数は多くない。耳を澄ませて、ロキスは前方の様子を探った。せいぜい五、六人というところか。今ならまだ間に合うかもしれない。
ロキスは馬から降りると手綱を近くの枝に引っかけ、気配を殺して先を急いだ。その道中、音を立てずに剣を鞘から引き抜いて。
じきに見えてきたのは六つの人影。彼らが立つ傍には、古びた吊り橋。
木と縄だけでできたその橋は、ほんの一太刀でその縄を叩き切れそうだった。狭さと古さで一気に大勢で渡ることはできないようだが、一人、また一人と確実にニダベリル兵はこちらへと向かってきている。
対岸にひしめくニダベリル兵は、百はいそうだ。
――ウルが呼びに行った援軍は、どのくらいで着くだろう。それまでもつだろうか。
そう思ったロキスは、ふと、自分が生きる気でいることに気付く。
今まで、剣を握って戦いに臨む時、彼は自分が生き延びることを考えていなかった。
命のやり取り。それに勝てば生き、負ければ死ぬ。
あるのは歴然としたその事実だけで、死なずにいたらそれは即ち勝てたということで、生きているということだった。
生きる為に戦おうとか、死にたくないから戦うとか、そんな『感情』が入り込む余地はそこにはなかった。彼にとって戦いとは、ただ、生きていることを実感する為の手段にしか過ぎなかったとすら言える。
「何なんだろな」
ロキスは小さく呟き、笑う。
気付かぬうちに、彼の中では何かが変わっていた。こんな状況になって初めて、それを知るとは。
「オレは、生きる」
自分の中のその気持ちを確かめるように、言葉にしてみる。腹の底で熱を持った何かが生まれ、ジンワリと全身に広がっていくような気がした。
ロキスは、剣の柄を握り直す。不思議と、いつもよりも力が込み上げてくるようだった。
目蓋を下ろし、深く息を吸い、吐く。
再び目を開いたロキスは木の影から跳び出し、手近な男に向けて刃を閃かせる。直後、ニダベリル兵の首から吹き上げる赤い飛沫。身を屈めてそれを避けながら、手首を返してもう一人の胴を叩き切った。
ロキスの剣は、殺す為のものだ。手加減などできない。
続けざまに二人の仲間が斃されて呆気に取られていたニダベリル兵達も、ようやくあたふたと剣を抜く。だが、彼らの剣が鞘から抜き放たれるよりも先に、ロキスの剣は更にもう一人の胸を貫いていた。
ヒトの急所を熟知しているロキスの剣は、無駄なく確実に彼らの息の根を止めていく。
瞬き数回の間に、三人を仕留めた。
だが、一刻も早くあの橋を落とさなければいずれロキス一人の手には余るようになる。
再び剣を振り上げ敵の肩口目がけて切り伏せようとしたが、それは寸でのところで阻まれた。
夜闇を貫き甲高い金属音が辺りに響き渡る。
と、それは当然対岸にまで届き、そこに集うニダベリル兵達がにわかに騒ぎ出す。
「チッ! 気付かれたか」
舌打ちをしながら仕留め損ねた男が繰り出した剣を弾き、がら空きになった胴を薙ぎ払う。呻き声と共に男が地面に倒れ伏した直後、視界をかすめた銀色の光。咄嗟にロキスは身をよじったが、その切っ先は彼の腕を切り裂いた。しかし、傷は浅い。痛みを無視する術は、身体に叩き込まれているのだ。この程度では、ロキスの動きを損なうことはない。
「は……ははッ」
無意識のうちに、ロキスの口から笑いが漏れる。
――オレは、生きている。
久方振りの、戦いの感触。だが、以前のような充実感は伴っていない。
剣を振るい、相手の命を屠り、自らの生を知る。
それは、同じだ。にも拘らず、かつて感じた『何か』が無い。今の彼は、多分別のものでそれを得ているのだ。
「オレは、生きるんだよ!」
そう声を上げながら、剣を繰り出す。
鼓膜をつんざく音を立てながら二合、三合と打ち合って、力任せに相手の剣を弾き飛ばした。そうしておいて、肩から脇腹へと斬り下ろす。
だが、一人を斃せばまた次がやってくる。
こちらの状況を見たニダベリル兵は、橋が耳障りな軋みを上げるのも無視して何人もが固まって駆けてくる。それで橋が落ちてくれないかとロキスは期待したが、古びた吊り橋は意外に丈夫なようだった。
きりがない。
は、と、ロキスが大きく息をついた時だった。
脇腹に、熱く焼いた鉄杭を押し当てられたのかと思った。
だが、違った。
「クソ」
背後から切りつけてきたニダベリル兵を叩き斬り、脇腹に触れる。手のひらにべったりと付いた熱く滑るものを服に擦り付けた。ゆっくりと息を吸い、吐いて、ロキスは再び剣を握り直す。
痛みよりも厄介なのは、流血だった。
血が失われれば、やがて力も失われる。
後ずさり、大木を背にして数を増すニダベリル兵と対峙した。黒山の隙間から見え隠れする橋の上には、今なおこちらを目指して詰めかけてきているニダベリル兵の姿があった。
――死にたく、ねぇな。
生まれて初めて、ロキスはそう思った。




