幕間、ニダベリル側、アウストルの天幕にて
「手こずっているようだな?」
目の前でひざまずき深く首を垂れるイアンを、アウストルは頬杖をつきながら眺めやった。その一言で、歴戦の将軍の頭が更に下がる。
グランゲルドは難なく下せる敵の筈だった。
平穏な暮らしにどっぷり浸かり、まともな戦の経験もない、さながら飼い慣らされた家畜のような彼らなど、幾度もの過酷な戦いを勝ち抜いてきたニダベリルの敵ではない筈だった。
兵の数も、技術も、経験も、全てニダベリルの方が上なのだから。
しかし、蓋を開けてみればどうしたことか。
弓兵の不意打ちを食らった初日は騎兵二十三名、歩兵八十四名、重装歩兵八名の計百十五名を失った。その数の大半は橋の向こうから戻って来ない者達なので、彼らの生死は不明だ。
そして、二日目の今日についての報告をフィアルが口にする。
「騎兵七名、歩兵十四名、重装歩兵四名の計二十五名が怪我の為、これ以上の戦闘は難しいと思われます。また、騎兵十三名、歩兵三十二名、重装歩兵一名の計四十六名は戻りませんでした」
たった二日間で、占めて百八十六名の損失。一日目よりは二日目の方が大きくその数を減じているとはいえ、それでもニダベリルとしては有り得ないほどの『負け』だった。
「流石に慎重に動くということを知ったのか?」
常日頃イアンが見せている勇猛さ一点張りの戦い方を揶揄するように、微かに唇を歪めてアウストルが言う。実際、初日よりは損失が減ってはいることは、多少の進歩に違いない。
アウストルの口調は、決して失態を咎めるものではない。だが、それに返す言葉もなく、イアンは地に額が付かんばかりに深く頭を下げるのみだ。
圧倒的な力の差があれば、ごり押しで相手を撃破することは容易だ。イアンはこれまでそうしてきたし、それでいくつもの勝利を収めてきた。
だが、今回はどうにも勝手が違う。
対岸の崖の上から放たれる矢は、重装歩兵が楯をかざすことでだいぶ被害を免れることができるようにはなった。それでも、二百名弱の損失だ。その数は、これまでニダベリルが経てきたどの戦の結果よりも多い。
グランゲルドの騎兵、重装歩兵は合わせて六百名ほどの筈だ。グランゲルド側がまるきり無傷であるとは考えにくいが、仮にそうであったとしても、まだまだニダベリル軍の方が手数は多い。グイ大隊だけで考えても、騎兵、歩兵、重装歩兵は、九百名以上を残しているのだ。
だが、しかし。
この状況でその数の有利の上に胡坐をかいていられるのは、余程の愚か者だけだろう。
ニダベリル軍の士気の高さが、いつもより劣っているわけではない。いや、むしろこの豊かな大地を目にして、それを我が物にせんといきり立っているくらいだ。
しかし、グランゲルド側の士気は、ニダベリルのそれを上回っていた。更にそれに加えて、将の冷静で的確な兵の運びが彼らの力を十二分に引き出している。
大仰な戦略、戦術ではない。だが、グランゲルドの将はよほど兵のことをよく見ているのだろう。戦況に従い兵を動かすその判断は、絶妙なものだった。
その結果が、ニダベリルの損失に明白に表れている――そして、恐らくグランゲルド側の損失にも。あちらがほぼ無傷でいるならば、何がしかの手は考えなければならないだろう。
アウストルは、頬杖をついたその手の中指で、トントンとこめかみを叩いた。
そして、再び口を開く。
「放てばそのまま行ったきり、とは、まるで火玉のようだな?」
還らぬ兵を投石器の火薬玉にたとえるアウストルのその声は、興がる響きがあるように聞こえたかもしれない。だが、イアンもフィアルも、それに笑いで返すことなどできはしなかった。
「は……きっと、我が兵はあれに匹敵するほどの損害をグランゲルドに与えているかと――」
「そうは見えんがな」
苦し紛れに言い繕おうとしたイアンだったが、肩を竦めたアウストルに一蹴されて口をつぐむ。
実際、グランゲルドの闘志は全く衰えるところを見せず、むしろ昨日よりも更に高まっているようですらあった。絶望的な戦いに身を投じているとは、到底思えない。
――十六年前も、そうだった。
アウストルの思考は、無意識のうちに過去に跳ぶ。
その頃の彼は前線に立ち、自らが兵の指揮を執っていた。
豊かな実りを求めて攻め込んだ、グランゲルドの地。そこで目にしたゲルダ・ロウグの操兵は大胆かつ迅速でことごとくこちらの先手を取り、逆に彼に付け入らせる隙は全くないものだった。そして、何よりも、彼女に従う兵達の士気の高さ。数の劣勢をものともせず、いやそれを大きく覆す兵達の気迫は、その数が実際の数倍もいるように思わせたのだ。
アウストルは、昨日目にした少女の姿を脳裏に浮かべる。
兵の扱いは十六年前よりも慎重だが、今のグランゲルド兵の状況と基本的にはよく似ている。少女がゲルダの娘であることは、疑いようのない事実だろう。
同じように赤い髪。距離の所為で目の色は見えなかったが、数千の大軍を前にしても全く怯む様子なく敢然と要求を突き付けてきた、あの気迫。
その時、彼の戦士としての血は久方振りに沸き立った。
アウストル自身が先頭に立ち、また彼女と剣を交えたいと、思ったのだ。一軍の将としてだけではない。彼の三十六年の人生において、一対一で対峙して勝てなかったのは、後にも先にもゲルダ・ロウグ一人きりだ。
――彼女の娘は、いったいどんなふうに剣を振るうのだろう?
ゲルダ程の使い手は、そうはいないだろう。それでも、久しく忘れていた興奮に、アウストルの胸が騒ぐ。
だが――今の彼は、王だった。想いのままに動くわけにはいかない。あの頃とは、背負っているものが違い過ぎた。
彼は、『アウストル』としてではなく『王』として動かねばならない。
「……フィアル、投石器はいつ動かせる?」
「は、整備に手間取っておりまして、あと三日――いえ、あと二日いただければ、必ず」
投石器は、何しろ巨大な火薬玉を投げるものだ。不備があれば味方の陣地で爆発させることになり兼ねない。確かに威力は甚大だが、移動で揺られるうちにあちらこちらが緩み始め、戦場に着いてもいざ使えるようになるまでは時間がかかることが難点だった。
「急がせろ」
短く、アウストルはそう告げる。素っ気ない口調のその命令に、フィアルが眉を上げて彼を見たが、何も口にすることなくまた視線を下げた。
「御意」
この戦いに投石器を持ち出すことに、アウストルはあまり気乗りがしなかった。あれを使えば、形勢を一気に変えることができる。ニダベリルには全く被害を出すことなく、相手側には致命的な打撃を与えることができるのだから。
簡単で確実で――詰まらない方法だ。
だが、アウストル個人としての考えなど、差し挟むことなどできはしない。国を支える為に最も効果的である手段を用いることが、王であるアウストルの為すべきことだ。
火と、爆風と、轟音。
容赦なく降り注ぐ火薬玉に、それでも戦う意志を持ち続けられた者は今までいない。皆、恐怖に打ち震えて降伏するのだ。それはグランゲルドも同じに違いない。
だが、そうは思っても、燃えるような赤毛の少女が従容としてアウストルの前に膝をつく姿は、想像できなかった。
――あの凛とした背筋が無力感に打ちひしがれる様を見たくはない。
ふとそんな考えが胸中をよぎり、アウストルは眉間に皺を寄せる。何故、そんなふうに思ったのか、自分でもよく解からなかった。
彼女が屈しないということは、即ちグランゲルドが屈しないということになるというのに。
アウストルは頭に絡み付く見えない雲霞を振り払おうと小さく頭を振る。彼が望むのは、ニダベリルの完全なる勝利だ。
それには、強大な力が要る。
しかし、その『強大な力』を具現化したものともいえる投石器が使えるようになるまでは、まだ少しかかる。何か手を打たねばならなかった。
「……王?」
遠慮がちなフィアルの声で呼ばれ、アウストルはゆるりと目を上げる。眼差しで問い掛けた彼に、フィアルは提案した。
「我がダウ大隊からグイ大隊へ、歩兵および騎兵の欠員を補充しようかと思うのですが」
フィアルの隣のイアンはむっつりと黙り込んでいる。軍人としては穏やかなフィアルのことを見下している傾向のあるイアンからすれば、彼の力を借りねばならないこの状況は、不本意な展開なのだろう。
アウストルはフィアルの言葉に頷き、そして付け加えた。
「そうだな、任せる。それと、川の上流へ兵を送れ」
「は……上流ですか?」
唐突なその命令に、イアンもフィアルも怪訝そうな面持ちだ。アウストルは彼らの戸惑いを無視して続けた。
「ああ。上流に橋が架かっている筈だ」
「橋!?」
二人の将軍は揃って頓狂な声をあげる。それも当然だろう。他に攻める道がないから、ここでグランゲルドの防壁に難儀しているのだ。それを迂回して後方で控える遊撃隊――騎兵どもを叩くことができれば、どれほど優勢になれることか。
アウストルは、まじまじと彼を見つめるイアンとフィアルを平然とした目で見返した。
彼の言うその橋は、十六年前にアウストルが戦いの合間の息抜きで馬を走らせていた時に見つけたものだった。生い茂る木々に隠れてひっそりと両岸をつなぐ、木と縄でできた、粗末で古い吊り橋。大分昔に、地元の者が架けたのだろう。ニダベリルが仕上げた立派な橋に気を取られ、誰もその吊り橋の存在には気付いていなかった。
当時、一歩を踏み出すごとに悲鳴のような軋みを上げ、遥か下方の川面へと木屑をこぼすその橋を渡って、アウストルはグランゲルド側の陣地へと忍び込んだのだ。
そうして、そこで彼女と会った。
彼女は、明らかに不審人物であるアウストルを咎めもせず――
過去の記憶に囚われかけていたアウストルは、物問いたげな色が含まれた自分に向けられている二対の眼差しに気付き、続ける。
「十六年前には、馬を一刻ほど走らせた辺りに吊り橋があった。恐らく、グランゲルド側も知らぬ筈だ。……あの頃でもかなりボロ臭かったがな。まあ、兵の百かそこらが渡るくらいはもってくれるだろう」
些細なことのようにそう言うが、彼とてその橋の存在が戦局を大きく変え得るものであることは、充分に承知していた。だが、十六年前も今回も、何故かその橋の存在を他の者に告げたくないという気持ちがアウストルの中にあったのだ。
かつては――ニダベリルが今ほど強大でなく、アウストルも王ではなかった十六年前は、結局誰にも告げなかった。
だが、今は。
ニダベリルは負けることを許されぬ国となり、アウストルはその国の王となったのだ。
押し黙った王に、イアンとフィアルは顔を見合わせる。
「何をしている? 夜は短いぞ?」
命を下したというのにその場に留まったままの二人に、アウストルは底光りのする眼差しを向けた。橋が無事に残っていれば、今晩中にグランゲルド側の岸に兵を配置することができる。そうすれば、正面からの攻撃と同時にあちらの防衛線の裏を叩くことが可能になる筈だ。
さっさと行けと言外に申し渡したアウストルに、彼らは深く一礼する。
「は」
「直ちに出発します」
二人が姿を消し独りきりになった天幕の中で、アウストルは立ち上がった。
王となったこの身がもどかしい。
国の為にと駆け続け、勝利の度にニダベリルは強大になっていった。だが、どれほど手を広げても、やはり困窮する国情は変わらない。
ニダベリルの為ならば、どんなことでもしよう。
だが――ふと、アウストルは思う。だが、いったいいつまで続ければ、ニダベリルは豊かになるのだろう、と。
今回勝利してグランゲルドを手に入れれば、確かに食料に困ることは無くなるだろう。それは他国のおこぼれをもらっているようなもので、ニダベリルの大地が富むわけではない。
アウストルは、祖国を――ニダベリルを、良い国にしたかった。緑が溢れ、他国からの施しなど必要としない、国に。
戦うことは決して嫌いではない。高揚感と達成感――その二つはどんな酒よりも彼を酩酊させる。
だが、最終的にアウストルが目指すものは、国を富ませることだ。
その為には、エルフィアがいる。
開戦前の条件ではニダベリルから亡命したエルフィアだけを渡せばよいと宣告していたが、戦になったのだから、そんなものはもう無効だ。勝者こそが望んだ未来を手に入れることができるのだから。
グランゲルドには各地からエルフィアが集まってきていると、アウストルは伝え聞いていた。彼らをグランゲルドの奥深くから引きずり出してニダベリルに連れていけば、きっと大地は命に満ち溢れたものになるに違いない。
「全て、ニダベリルのものにしてくれる」
だから、勝利を手に入れる。
アウストルはきつく両の拳を握り締める。その固さこそが、彼の決意のほどを表していた。




