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ジア戦記  作者: トウリン
第三部 角笛の音色と新たな夜明け
50/71

攻防

 無数の細かい棘を含んでいるかのような空気が、フリージアの肌を刺す。

 何千という人間がその場にいるというのに、わずかな物音も聞かれない。砂利を踏む音も、鞘がぶつかる音も。

 橋の中央に立つフリージアの前方には三千のニダベリル軍、後方には千のグランゲルド軍が控えていた。ニダベリル軍は前面に騎馬兵と歩兵が整列し、グランゲルド軍では毛一筋の乱れもなく並んだ黒鉄軍が壁を作っている。


 砦での一件で多少はニダベリル軍の数を減らせたと思っていたが、それは熱せられた石に水滴を垂らすようなものだったらしい。少なくとも、フリージアが一見したところではニダベリル軍が何らかの損害を被っているようには思えなかった。


 黒山のニダベリル軍の前には、馬上にある三人の男。


 一人は先日目にしている。フリージアを射殺しそうな眼差しで見ている、頭から湯気が立たんばかりの様相の男は、ロキスの話によればイアン・グイという名の将軍だ。もう一人はフィアル・ダウ将軍か。どちらも五十歳前後の壮年だ。

 その二人に挟まれて立っている男は、彼らよりも十以上は若そうな――ゲルダと同じくらいの年頃に見える。二人の将軍よりももう少し装飾の付いた鎧を身にまとっているが、それとて華美さはない。ニダベリル軍の馬は皆グランゲルドのものよりも大きいが、彼がまたがっているのは一際群を抜いている体躯をした青毛の馬だ。


 あれがアウストル王その人に違いない、とフリージアは一目で確信した。他の人間とは明らかに何かが違う。こうやって距離を取っていても、何か、強い圧力のようなものがひしひしと押し寄せてくるのが感じられた。フレイとは違う。けれども、紛うことなき『王』だ。無意識のうちに手綱を握る彼女の手に力がこもる。


 ――あれが、これから戦う相手。


 フリージアは一度グッと奥歯を噛み締めた。彼女から数歩離れたところに、馴染んだ温もりを感じる。振り返らずとも、オルディンの視線が自分に注がれているのが感じられて、フリージアは背筋を伸ばした。


 ――気持ちが怯んだら、負けだ。


 そう自分自身に言い聞かせ、大きく息を吸う。それは喉を刺すようで一瞬むせかえりそうになったが、何とかこらえて腹に力を込めた。そして、一息に吐き出す。

「あたしはグランゲルド軍将軍、フリージア・ロウグ! ニダベリル軍にもう一度問う。ここで引く気はないか? 何もせず引き返すというのなら、グランゲルド軍もあなたたちに手は出さない。そして、改めて、両国が支えあえる道を探していきたいと思う!」

 彼女の澄んだ声が静寂の中を貫いていく。

 ニダベリル兵の殆どの者が彼女の声を聞いただろう。だが、辺りはざわめき一つ起こらず、シンと静まり返ったままだ。

 と、フリージアがヒタと見つめる中、アウストルの馬が一歩踏み出した。


 そして、朗々とした、声。


「俺はニダベリル王、アウストル・ゴウン・ニダル。その言葉、そのまま返そう。我がニダベリルは力無き者の戯言は聞かぬ。無力な者のきれいごとはただの夢想に過ぎん。貴殿らの言い分をこちらに届けたくば、まずは我らを捻じ伏せてみろ! だが、覚悟しろ。我らは一度でも我らに牙を剥いた者に、手加減はしない!」

 咆哮が、張りつめた空気を震わせる。

 予想通りのニダベリルの反応に、フリージアは小さく息をついた。一瞬視線を落とし、また真っ直ぐに前へと向ける。

 可能であれば、戦いは避けたかった。けれど、どうしても為さねばならぬというのなら、仕方がない。


「そちらの意志は受け取った。では、そうさせてもらう!」

 鋭い声でそう返し、フリージアは馬首を巡らせる。

「行こう、オル!」

 少し後ろに控えていた彼にすれ違いざまに声をかけ、グランゲルドの兵が待つ岸へと馬を駆った。

 ヒトの壁を作って立ちはだかるのは黒鉄軍。そしてその向こうには紅竜軍が待つ。

 フリージアは彼らの元へ走った。アウストル王と同じくらい自信に溢れた姿に見えるように、精一杯胸を張って。


 高らかな角笛の音が響き渡ったのは、彼女が橋を戻りきるのとほぼ同時だった。そして轟くときの声。


 振り返ったフリージアの目に入ったのは、押し寄せてくる騎馬兵の姿だった。橋という狭い場所を固まって駆けてくるその数を把握するのは困難だ。だが、紅竜軍の倍はいるように見える。多分、その後ろに歩兵が付いてきているのだろう。総数はいったいどれほどになるのか。唯一の救いは、彼ら自身が盾になってくれていて、あの奇妙で強力な『弓』を射てくる隙がないことか。あの状況で矢を放てば同士討ちは必至に違いない。


「ビグヴィル将軍、任せた! スキルナ将軍、お願い!」

 声をかけながらフリージアは黒鉄軍の間をすり抜け、その後方で待機する紅竜軍の元に向かった。

「おう! 皆、構えい!」

 ビグヴィルの号令で重装歩兵がそれぞれに槍や斧を構えて敵の突撃に備える。


 そして、もう一方。


「青雲軍、つがえ!」

 グランゲルド側の川岸――高い崖となっているその上に、ずらりと弓兵が並んだ。スキルナ率いる青雲軍だ。

 このルト川の橋が架けられている辺りは、そこを境に急激に流れを変えている。橋と並行とまでは行かないが、かなり側面から攻撃を仕掛けることができる。橋を駆けてくるニダベリル軍を、青雲軍は川を隔てて斉射した。

 やや上方に向けて放たれた無数の矢は、放物線を描いて川を越え、矢尻を真下に向けて橋の上へと降り注ぐ。一拍遅れてグランゲルドの弓兵が応じたが、物は上から下へと落ちるのが道理。距離と高さに阻まれて、彼らの矢羽の殆どは、青雲軍まで届くことなく川の中へと落ちていく。いくつかは崖の上まで到達したが、それも予め準備してあった楯で容易に叩き落とすことができた。


 まるで雨滴のように絶え間なく落ちてくる青雲軍の矢に、しかし、ニダベリル軍の突撃の勢いは衰えなかった。一瞬たりとも怯むことなく、崩れた味方を飛び越え、こちら側を目指してくる。


 彼らの数は、確実に減った。それは橋の上であがっている呻き声で判る。

 だが、それでもその数は多かった。


「来るよ!」

 フリージアは前を睨み据えながら鋭い声をあげる。


 ニダベリル軍の先陣は、すでに橋の三分の二を過ぎた辺りに差し掛かっていた。そしてそれはみるみる近付いてくる。

 橋を越えても、彼らの足は止まらなかった。


 鯨波げいはを轟かせ、一丸となって真っ直ぐに居並ぶ黒鉄軍の中央に突入する。小手先の作戦などではない、とにかく『力』で相手を屈服させようとする意図が明白な動きだった。


 そして始まる激しい攻防。


 黒鉄軍の重装歩兵は斧で馬の脚を薙ぎ払い、槍で馬上の兵士を突く。刃が柔らかいものを切り裂く音に鉄と鉄がぶつかる耳障りな響きが混ざり、そこに苦悶の呻き声が加わる。

 あたりに満ちるのは、埃と血の臭い。

 黒鉄軍の兵士たちは、いつも城内や街中で言葉を交わす気さくな彼らとは全くの別人のようだった。フリージアは、彼らが手にした武器を容赦なく振るうのを、身じろぎひとつせず見つめる。右にバイダル、左にオルディン、そして背後に紅竜軍を従えて。

 今繰り広げられている光景から、一瞬たりとも目を逸らすつもりはなかった。


 と、不意にニダベリル兵の動きが変わる。黒鉄軍の守りを貫こうとがむしゃらに突っ込んでいた彼等だったが、後続の者は左右に分かれて疾走し始めたのだ。黒鉄軍を迂回し、背後に回り込む目論見なのだろう。


 黒鉄軍が壁を崩すわけにはいかない。

「紅竜軍、出撃! ニダベリル軍を阻止しろ!」

 フリージアのその声で、紅竜軍の第一陣が一斉に動いた。一糸乱れぬ動きで二手に分かれて右と左に走り出し、黒鉄軍をグルリと回ろうとしているニダベリル兵を迎え討つ。


 さほど間を置かず、新たな剣戟の響きが加わった。

 配下の兵の動きを、フリージアは無言で見守る。紅竜軍は予め百人ずつの三部隊に分けてあった。一気に全員を向かわせれば確実にニダベリル軍を撃退できるだろうが、後が無くなってしまう。大勢たいせいを見て次の部隊と交代させていく算段だった。

 それが吉と出るか凶と出るか、それはフリージアには判らない。だが、数に圧倒的な差がある限り、がむしゃらな消耗戦では勝てないのは判る。

 自分の声が送り出した兵士のうち、何人が傷付き、何人が命を落とすのだろうかと、フリージアは思う。誰にも気付かれないように、頬の内側を強く噛んだ。口の中に広がる味は、今彼女の前で嫌というほど流されているものと同じだ。


 青雲軍の矢をどこかに突き刺したままでも、ニダベリルの兵は構わずこちらに踏み込んでくる。

 そうして、グランゲルドの者に刃を振るう。

 己の身が傷付くことにも、誰かの身を傷付けることにも、全く頓着しない――どこかで赤い色がしぶく度に、フリージアは彼女自身が切り裂かれるような気がするというのに。


 唐突に、フリージアは自分にこんな思いをさせるニダベリル軍が憎らしくなった。勝手に戦を吹っかけて、こうやってグランゲルドの者に刃を振るうニダベリルが。

 こんなふうに胸の内を焦がすような気持ちを、フリージアは今まで覚えたことがなかった。自らも剣を手に戦いの最中に飛び込みたくなる。以前に一度、間違って酒を口にしたことがあったが、あれに似ているかもしれない。頭がくらくらして、熱くなる。


 思わずブルリとフリージアの身体が震えた。


 と。


「フリージア?」

 フリージアの震えをどう捉えたのか、オルディンが一歩馬を近づけ彼女を呼んだ。その声に、フリージアはハッと我に返る。大きく瞬きをしてから、彼に振り返った。

「何?」

「……大丈夫か?」

「何が?」

 オルディンが何を問うているのかは解かっていた。だが、フリージアは敢えてそう返す。彼は一瞬眉をひそめ、そして、首を振った。

「いや、何でもない」

 そう言うと、オルディンは再び戦況に目を戻す。数呼吸分彼を見つめてから、フリージアもまた兵士達へと意識を戻した。


 ニダベリルの歩兵を斧で力任せに吹き飛ばしている黒鉄軍の兵士がいる。

 もんどり打って馬から落ちる紅竜軍の兵士がいる。

 青雲軍が注ぎ続けている矢の雨は、橋を渡ろうとするニダベリルの兵を射抜いている。

 二人の騎馬兵から狙われ懸命に抗戦している黒鉄軍の兵士がいる。


 そこには、相手を傷付ける意志が渦巻いていた。


 フリージアは背中に力を入れ、真っ直ぐに伸ばす。そうしていないと、自分自身を見失いそうだった。努めて感情を消した眼差しで、戦場をくまなく見渡す。

「右翼がやや押され気味だ」

 目をすがめたバイダルが、低い声でそう告げる。フリージアも、それに気付いていた。確かに、そちらでは若干ニダベリルが優勢のようだ。左翼よりも、見えるニダベリル兵の数が多い。


 第二陣と交代させるべきだろうか。だが、まだ一日目。先のことを思うと、もう少し粘った方がいいのかもしれない。

 そんなふうにフリージアが逡巡したのは、そう長い時間の事ではなかった。多分、十数えるかどうかという程度。しかし、そのわずかな迷いを覚えた彼女の目に直後映ったのは、ニダベリル兵の剣を脇腹に受け、馬から転げ落ちる一人の紅竜軍兵士の姿だった。


「右翼第二陣、交代!」

 ほぞを噛む思いで発せられたフリージアのその声と共に、今か今かと待ち構えていた兵が戦意を鼓舞する喊声かんせいを上げて走り出す。

 意気軒昂いきけんこうな第二陣は、黒鉄軍の陣形を回り込もうとしたニダベリル軍をあっという間に押し戻した。再び防衛線は確かなものとなる。


 入れ替わりで戻ってきた第一陣の兵士達は皆どこかに傷を負っていた。殆どは、己の脚で立っている。だが、数名、意識を失い仲間に運ばれている者もいた。

 彼らの姿に、フリージアの胸は冷たい手に握り潰されるような痛みを覚える。自分がもう少し早く指示を出していれば、その何名かは無事であったのではないだろうか、と。


 後方へ向かう彼らの背から目を放せずにいたフリージアに厳しい声を投げたのは、バイダルだ。

「前を向け」

 他の者には届かない囁きが、フリージアの鼓膜に突き刺さる。きつく唇を噛み締め、無言で彼の言葉に応じた。そうして、目を皿のようにして戦いを見据える――今度は、時機を逸しないように。


 やがて、再び第二陣にも疲れが見え始めてくる。

「両翼、第三陣、交代!」

 フリージアの号令で、最後の部隊が動く。と、両脇にいたオルディンとバイダルも彼女に馬を近付けた。


「俺達も出る」

「え?」

 オルディンの台詞に、フリージアは眉をひそめる。

「今日はこれでケリを着けておいた方がいいだろう? 俺とバイダルで蹴散らしてやるよ」

「じゃあ、あたしも――」

「お前はここに居ろ」

「やだよ、何で!? あたしだって戦える!」

 フリージアの抗議の声を、オルディンは一蹴した。

「お前はここでふんぞり返ってる方がいいんだよ。その方が兵が安心できる」

「彼の言うとおりだ。旗印がふらふらしていてはいけない」

 バイダルまで、オルディンの後押しに回る。ムッと唇を捻じ曲げたフリージアに、オルディンが小さく苦笑した。


「まあ、見てろ。もうそれほど時間はかからない」

 そう言うと、フリージアにそれ以上口を開かせることなくオルディンとバイダルは揃って手綱を引いた。見る間にその背は小さくなっていく。


 ――自分が強くなろうとしたのは、皆を護りたかったからなのに。


 先頭の最中に跳び込んでいく二人を、フリージアはもどかしい思いで見守る。何度もオルディンに打ち据えられながら、毎日欠かさず修練に励んだ。それは、他の者が戦うのをただ見ているだけになるのが嫌だったからだ。

 ニダベリル兵の中に突っ込んで行ったオルディンが、スラリと抜き放った大剣を一薙ぎするのが見えた。相手の防御もものともせず、彼は無造作に兵達を叩き伏せていく。まるでオルディンの周りに見えない壁があるように、ニダベリル兵の姿が消え失せる。それは、バイダルのいる右翼でも同じだった。

 二人は、まるで疲れを知らずに、次々とニダベリルの兵士を捻じ伏せていく。


 多分、今の今までフリージアの隣に控えていたのは、彼女のことを案じていたからなのだ。


 彼らの戦う姿に、フリージアは不意にそのことに気付く。

 きっと、一日剣を振るっていても、オルディンもバイダルもこたえやしない。

 戦場に立つフリージアが怯まずにいられるか。それを見極める為に、二人はここにとどまっていたのだ。

 彼らにその行動を取らせてしまったということは、まだフリージアに弱さが垣間見えたということなのか。


 ――悔しい。


 フリージアは大きく息を吸い、止める。


 オルディン達がここでドンと構えていろというのなら、そうしよう。彼女は微かな苛立ちを覚えながらも、そう自分に言い聞かせる。


 そうやって戦場を見渡したフリージアの前で、戦局は次第にグランゲルド側に傾きつつあった。


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