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ジア戦記  作者: トウリン
第三部 角笛の音色と新たな夜明け

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大きな嵐の前の、小さな嵐

 夕食の後、いつものようにバイダルとの手合わせを終えて天幕へと戻ろうとしていた時だった。樹の陰にチラリと目に馴染んだ赤い色が見えた気がして、オルディンは足を止めた。暗がりでも、夜目の効く彼には見間違えようがない。


「オルディン?」

 数歩進んで、バイダルが怪訝そうに振り返る。

「ジアだ。何やってんだ、こんな外れで?」

 以前と違って身内からの刺客の心配はないとしても、今は一応戦時だ。何が起こるのか判らないのだから、こんな人気のない場所に独りでいるのはあまり望ましくない。

 この遠征に出てからも、兵の目のないところでフリージアは鍛錬を続けていた。オルディンの技を叩き込まれ、その腕前は飛躍的に伸びている。なまじの相手では、彼女には敵うまい。雑魚の五人や十人程度なら、かすり傷一つ負うことなく退けることができるだろう。


 ――だが、それでも、独りきりというのは無防備すぎる。


 フリージアの危機感の無さに若干の苛立ちを覚えながら、オルディンは彼女の元へと向かった。

 あと十歩、というところまで近付いた辺りで足音に気付いたのか、オルディンが声をかけるより先にフリージアが振り返る。


「オル」

「何やって――何かあったのか?」

 叱責する筈の声が、フリージアの顔を見て案ずるものへと変わってしまう。

「え、何が? ちょっと散歩していただけだよ」

 彼女は笑みを浮かべて逆にそう問い返してきたが、オルディンはごまかされなかった。こういう笑顔はフリージアがこの半年ほどで身に付けたもので――彼が唯一気に入らないと思う彼女の表情だ。

「あ、バイダルもいるんだ。手合せしてたんだね。またあたしの相手もしてよ」

 さらさらと、何事もなかったかのように言いながらオルディンの横を通り抜けようとしたフリージアの腕を掴んで引き止める。


「オル?」

 見上げてくる緑の目を覗き込み、オルディンはその奥にあるものを探ろうとする。以前はまるで透き通った泉のように、その目は彼女の心の中を映していたのだが。

「どうしたの?」

 首をかしげたフリージアに、それはこっちの台詞だと言ってやりたくなる。かつての彼女はあけすけ過ぎるほどに何でもオルディンに打ち明けていたのに、今は違う。特にグランディアを出てからは、まるで周りにグルリと不透明な壁を張り巡らせているようだった。彼女の胸中が、見えそうで、見えない。

 他の者に対して本心を偽るのは、いい。オルディンもそれは止むを得ないことだと思う。だが、彼に対しても取ってつけたような笑顔を向けるのは、許し難かった。


 彼の前であれば、常に笑顔でいる必要などないというのに。


 思わずフリージアの両腕を掴んで揺さぶってやりたくなったオルディンの手から、彼女はスルリと抜け出す。そうして後ろに両手を回して数歩後ずさると、また笑った。

「明日も早いんだし、天幕に戻ろうよ」

 言いながら踵を返して、フリージアは野営地の方へと足を向ける。

「ジア」

 名を呼んでも、まるで聞こえなかったかのように振り返ろうとしない。真っ直ぐに伸びた背は、ピクリともしなかった。もう一度呼びかけようとしたオルディンに、バイダルが先んじる。


「フリージア」

 兵達の前では必ず『将軍』と呼ぶ彼が、その低い声で彼女の名前を口にした。


「……何?」

 振り向いたフリージアに、バイダルは彼女と同じくらい静謐な眼差しを向ける。


 しばらくは、無言。


 どちらも互いの視線を捉えたまま、身じろぎ一つしない。微風が梢を揺らす音だけがある。


 やがて先に口を開いたのは、バイダルの方だった。

「思うことがあるのなら、今のうちに話しておけ」

「別に何も――」

 ない、と続けようとしたのだろうフリージアを、バイダルはバサリと封じる。

「戦いが始まれば余計なことにわずらわされている暇はないぞ。わだかまりを押し隠してしくじられるより、今のうちに泣き言を吐かれておいた方がいい」

「泣き言なんて……」

 唇を尖らせかけたフリージアだったが、不意に、視線を下げた。

「やっぱこれって、泣き言かな」

 地面に向けて呟かれたのは、小さな呟きだ。心なし、肩も落ちている。

「言ってみろ」

 彼の短い促しにフリージアは顔を上げると、少し口ごもってから話し出した。


「……バイダルは、母さんのことをよく知ってるよね」

「それなりに」

「じゃあさ、母さんは最初から将軍だったけど、でも、十六年前のニダベリルとの戦いが、初めての戦だったんだよね?」

「ああ」

 バイダルの頷きに、フリージアは一瞬唇を噛む。そして、続けた。


「母さんは……その……迷ったりしなかったの?」

 オルディンには、彼女が口にした『迷う』という言葉が違うものに聞こえた。他の言葉を、それに置き換えたかのように。バイダルも微かにその隻眼をすがめたところを見ると何かに気が付いたようだったが、結局そこには触れずにフリージアに答えた。

「迷いはなかった。あいつの中では優先順位がはっきりと決まっていたからな」

「優先順位?」

「ああ。あいつにとって、何よりも重要なことは『グランゲルドの安全』だった。それを護ることが皆を護ることになる、と。その為にはあいつ自身の命は二の次だったし――兵士もそうだと思っていた。十六年前の戦いでも、決して無駄死にはさせなかったが、兵を動かすことに一点の躊躇いもなかった」

 バイダルは淡々と言う。だが、彼の告げたゲルダの姿は、フリージアの中にあった母親の姿と合致しなかったようだ。彼女は眉間に皺を寄せて首をかしげる。


「親しくしていた人が傷付いたり――死んじゃったりすることを、何とも思っていなかったの?」

「それは、知らん。あいつがそれをどう思っていたかは、聞いたことがなかった。少なくとも、口に出したことはなかったな。あいつは私ごときに心中を読ませるほどやわじゃない。何かを思っていたとしても、毛ほども見せなかった」

 肩を竦めたバイダルに、フリージアはまた顔を伏せる。そうして、こぼした。

「あたしには、ムリだな。時々、すっごく色々が重くなる」


 不意に、フリージアの中の何かがピンと張り詰めた。


 それは以前にニダベリルへ潜入した頃から時折見られるようになったものだが、先日敵軍の全貌を目にした後から、その頻度は明らかに増えていた。多分、他の者は気付いていないだろう。オルディンと――バイダルも何か感じているかもしれない。

 思わず彼女の肩に手を伸ばしかけたオルディンを、バイダルが目で制した。突き刺さらんばかりの彼の視線に手を握り込み、身体の脇に下ろす。


 バイダルは再びフリージアに目を戻すと、冷ややかさすら感じられる声で言った。

「兵士達を戦わせることを躊躇うな。戦いに勝利することこそ、兵士達を生かすことになる。お前が躊躇いを覚えれば兵士が怯み、隙が生まれる。それこそが、兵を殺す要因だ」

 月明かりでも、フリージアの顔からサッと血の気が引いたのが見て取れた。オルディンはバイダルを殴り倒してでもその口を塞いでやりたかったが――動けなかった。

 拳を硬くするオルディンの前で、バイダルは更に続ける。いつもは寡黙な男の言葉に、容赦はなかった。わずかな甘さも赦さず、その声でフリージアの胸の中に斬り込んでいく。


「将が迷うな。お前が迷えば、兵士は殺せなくなる。戦場で戦う意志を失えば、待っているのは死だけだ。どうする? 人を傷つけたくないから――傷付けさせたくないから、と諸手を挙げて降伏するのか? それも良かろう。向こう岸にニダベリル軍が見えたら白旗を振ればいい。だが、戦うのであれば、覚悟を決めろ。お前の手は何もかもを護れるほど、大きくはない。死人を増やすかどうかは、お前次第だ」

 言い終えると、ほんの数瞬、バイダルはフリージアを見つめた。俯いている彼女は、その時のバイダルの眼差しの中にあるものに気付いていなかっただろう。食い入るように彼を睨み付けているオルディンには、それが見て取れた。だから、バイダルを斬り殺さずに済んだのだ。


 口を閉ざしたバイダルは、オルディンにチラリと視線を投げて、天幕が並ぶ方へと去って行く。

 二人だけでその場に残されて、オルディンは黙ったままのフリージアの傍に、口をつぐんだまま佇んでいた。その細い肩を抱き寄せてやるべきなのか、叱咤激励してやるべきなのか、どうすることが一番良いのか、オルディンには判断がつかない。


「あたしって、やっぱり甘い?」

 不意に、独り言のように、フリージアが呟く。彼を見上げたその新緑の目は、月明かりで揺れていた。

「結構、変えられたと思ってたんだけどな。強くなったって、思ってた」


 そう言って、笑う。まるで卵の殻が潰れるように。


 変わらなくてもいいのだと、オルディンはフリージアに言ってやりたかった。だが、彼女を取り巻く状況は、それを許してはくれない。

 何も言えずにいるオルディンの前で、フリージアは天を仰ぎ見る。そこに浮かぶ満ち始めた月を眺め、そして彼に目を向けた。


「もっと頑張らないと、ね」

 フリージアは、笑う。触れたら一瞬にして掻き消えてしまいそうに、儚く。彼女のその笑みに、オルディンは「もういい」とは言えなかった。


 ――今すぐにスレイプを呼び、フリージアを抱えてこの場を去ってしまえたら。


 オルディンの中に湧いた埒もない考えは、すぐに泡のように消え失せた。

 そんなことはできやしない。誰よりもフリージア自身がそれを望みはしないのだから。

 だから、オルディンはただ黙ってフリージアの隣に立つ。彼女の剣となり、楯となれるように――彼女がくずおれそうになった時、いつでも杖となれるように。


 その夜は、月が傾くまで二人でそうして立っていた。



   *



 ルト川の対岸をニダベリル軍が埋め尽くすのは、それから二日後の事である。


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