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ジア戦記  作者: トウリン
第三部 角笛の音色と新たな夜明け

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第一手、あるいはグランゲルドからの宣戦布告

 グランゲルドとの国境を越えて五日経った頃、進軍するニダベリル兵の目に最初に入ってきたものは、ポンと突き出た物見櫓だった。進むうちに、小高い丘に建つ粗末な――ニダベリルからすれば物置小屋のようにしか見えない砦が姿を現し、兵士達はいよいよ戦いの時が近付いていることを悟る。


「ありゃ、なんだ?」


 そこを目指して進む彼らの中から最初に上がったのはそんな声だった。先頭を歩く歩兵部隊の一人が南の空を指差して発したその声は、さざ波のように後方へと伝播していく。


 空を飛ぶモノ。

 それは、一般的には鳥である。あるいは蝶や何かの虫でもいいかもしれない。

 だが、見る見るうちに近付いてくるその代物は、明らかにそのどちらでもなかった。

 豆粒ほどの大きさから拳大ほどになると、その姿がはっきりと見て取れるようになる。


「ウソだろ……」


 その正体をはっきりと理解した兵士の中の一人が、呟いた。

 方々へ遠征して歩く彼らは、その道中、ヒト以外に遭遇することが少なからずあった。飢えた灰色大熊や小賢しい盲狼めくらおおかみの群れなどはざらである。東方遠征の際には紅爪鷲の巣がある谷を通る羽目になって、何十という大群に空から襲われたこともあった。

 いずれにせよ、ニダベリル軍兵士の敵ではない。そんなものが相手なら、さしたる被害もなく撃退できる。むしろ乏しい食料を補給できるとホクホクしたものだ。

 だが、今彼らの目に映っているモノは無敵のニダベリル軍にとっても厄介な存在だった。以前、ソレに遭遇した時は敵国との戦闘よりも遥かに多くの兵士を失ったのだ。しかも、この上なくむごたらしい様相で。


 隊列に、乱れが生じる。先頭の足が鈍り、後続の者の進行を滞らせた。


 ざわつきが次第に大きくなっていくその中に、轟く一喝が響き渡る。

「何事だ!」

 騒ぎを聞き付け後方から馬を進めてきたイアンに、兵士達が振り返る。

「グイ将軍」

「隊列が乱れておる。何をしているのだ!」

 苛立ちを隠さぬ声で、イアンが近くにいた中隊長を叱責する。馬上から部下を見下ろす彼の視界に、空は入っていなかった。当然、近付きつつあるものにも気付いていない。


「それが……あれを……」

 短気な将軍の神経を更に逆立てることになるだろうとは判っていたが、中隊長は滑舌悪く問題の代物を指差した。それに釣られて顔を上げようとしたイアンに、突風が吹き付ける。

 一瞬埃に目を細め、次いで見開いた。さしもの彼も驚きを隠せない。


「翼竜、だと……?」


 まずはソレがそこにいる、ということに、次いでその背の上に見えるものに、イアンは眉をひそめた。

 各地に赴いてきた彼でも見たことがないほどの巨体。その体色は翼竜の中でも最も気性が荒いとされている、底なし沼のような深緑だ。金色の目には縦に長い瞳孔が光り、地上の者を睥睨へいげいしている。そして、その翼竜の背には、少なくとも二人の人間が跨っていた。一人は手綱を持つ黒髪の青年。もう一人は――燃える炎のような赤毛をしている。その色に、イアンは見覚えがあった。だが、彼の知るその人物は、この世にいない筈だ。それに何より、年が違う。


 地上から見上げるニダベリル軍の上まで来ると、翼竜は大きく翼を振るって中空に留まった。その背の上に、赤毛の――少女が立ち上がる。

 ざわめきを、澄んだ声が貫いた。


「偉い人はあなた?」

 翼竜は高い位置にいる。だが、距離を置いていても、イアンには彼女の目が鮮やかに煌めく新緑の色をしているのが見て取れた。その目が、真っ直ぐに彼を見つめている。

「吾輩はイアン・グイ。このニダベリル軍の将軍ぞ。貴様は何者だ?」

 遥か頭上の少女を睨み付け、イアンは逆に問い返す。その視線は、配下の屈強な兵士どもを威圧し、すくみ上らせるものだ。


 が。


 次の瞬間、彼はクッと顎を引いた。他の兵士たちも束の間呆気に取られる。


 何となれば。


 この戦場に場違いなその少女は、更に場違いな表情を浮かべたのだ。パッと輝くような――笑顔を。

「初めまして、グイ将軍。あたしはフリージア。フリージア・ロウグ。グランゲルドの将軍だよ」

 まるで『近所のおじさん』か何かに挨拶するように、少女は朗らかにそう言った。

「将軍? 貴様――貴殿が? ロウグ将軍の――?」

 イアンはそう疑問を繰り返す。だが、名乗られる前から判っていたのだ。羽ばたく翼竜の背にいる少女は、あまりに彼女に似ていたから――十六年前、ニダベリルを打ち負かしたあの女将軍に。

「そう。今回は、母さんに代わってあたしが相手になるよ。痛い目に遭いたくなかったらここで引き返して」

 フリージアと名乗った少女は傲岸不遜にそう言い放った。お前達に勝ち目はない、と言わんばかりの口調で。


 畏怖されるべきニダベリル軍将軍であるイアンに対してそんな口をきいた者はいない。彼の禿げた頭には一瞬にして血がのぼり、真っ赤に染まる。

「片腹痛いことを! 我が国は十六年前とは違うぞ? 軟弱なグランゲルドの軍など、三日で捻り潰してくれるわ!」

 激昂したイアンが空に向かって怒声を放つ。彼の背に翼があれば今すぐにでも空に舞い上がっていただろう風情で、片手を突き上げた。


 そんな血気盛んなイアンに、フリージアが朗々と訴える。

「あなた達は、こちらが来るなと言ったのに押し掛けた。今、帰れと言ってもそれを拒んだ。こちらの同意なくしてグランゲルドの地を侵している。理が合わないのはそっちの方だって、解かっているよね?」

「戦では勝利こそが全てだ。勝った者が正義を作る。我らの鼻面を抑えたいなら、我が軍を撃ち破ることだな!」

 鼻で嗤ったイアンに沈黙が返る。彼の台詞に怯んだのかと思われたが、フリージアが口を閉ざしていたのは短い間だけだった。


「じゃあ、勝つよ」


「何?」

「もう容赦しないからね」

 そう言って、少女はニッと笑う。それは自信に溢れた笑みだった。

「は! 小癪な! 弓隊前へ! あの小娘を射落とせ!」

 イアンのめいに、控えていた数人の弓兵が独特の形をしたニダベリルの弓を手にして彼の隣に並ぶ。機械仕掛けの弓のバネは、いつでも放てるように巻き上げられていた。

「これがニダベリルの技だ! 射よ!」

 最後の一声と共に、いくつもの矢が次々に放たれ、空気を切り裂く音と共に空の一点へと向かう。


 それは、肉に突き刺さる鈍い音を立てて獲物を撃ち落とす筈だった。


 だが、イアンの号令と同時に翼竜の背にいる黒髪の男が動いていた。彼はフリージアの腰に腕を回したかと思うと、もう片方の手で軽く手綱を引いたのだ。そのわずかな手首の動きだけで翼竜は羽ばたきヒラリと身を翻す。それは、巨体に似合わぬ素早い動きで、矢は一本たりともかすりもせずに空へとそのまま飛んで行った。ヒトを食い殺す獰猛な翼竜を、男は従順な馬のように操っている。


「次!」

 イアンの声で慌てたように弓兵が矢をつがえ、バネを巻く為の取っ手を回し始める。

 だが、空の二人はそれを待っていてはくれなかった。


「警告はしたよ、後悔しないでよね!」

 男の腕に抱えられたままフリージアが宣言したかと思うと、翼竜はそのまま滑るように後方へ向かう。その先にいるのは、ダウ大隊と――アウストルだ。

 直接王を狙うのか、と血相を変えて馬首を巡らせたイアンの目には、隊の真ん中ほどで留まっている翼竜が映った。そして、そこから何かが振り撒かれている様も。その場所は、グイ大隊の補給部隊がいる辺りだった。


「何をしている?」

 挙動不審なその様子にイアンは思わず呟いたが、即座に我に返ってその場に向かう。

 彼がその場に辿り着いた時、翼竜は行ったり来たりと二往復程が終わったところだった。


 真下に立ったイアンに気付くと、フリージアが再び問うてくる――念を押すように。

「もう一度訊くよ。引き返す気はないんだよね? 今なら停戦を受け入れるよ?」

「笑止! 我らは引かぬ!」

 きっぱりと、イアンは断言した。と、少女が顔を伏せる。その表情はちょうど影になっていて、彼女が何を考えているのかは読み取れない。


 強硬なニダベリルの姿勢にようやく恐れをなしたのか、とイアンが思ったその時だった。

 ずらりと並んだ荷馬車から、突如一斉に火の手が上がる。それはどれも糧食を積んだ荷馬車だった。

 翼竜の上の少女は、火矢も何も手にしていない。火種は何もない筈だった。にも拘らず、十台並んだ馬車は、ほぼ同時に燃え上がったのだ。


 先ほど翼竜から撒かれたものは、油だったに違いない。だが、油だけでは火は点かない筈だ。


 ――では、この火は、いったいどこから現れたのか。


 イアンが呆然としたのは一瞬の事だった。即座に我に返り、周りの兵士を叱り飛ばす。

「何をしている! さっさと火を消さんか!」

 同じように呆気に取られて燃える馬車を見つめていた兵士たちが、彼の声でわらわらと動き出した。めいめいが羽織る外套を取ると炎を叩いて消そうとするが、勢いはなかなか衰えない。

 もう一方のダウ大隊の方は無事なようだが、このグイ大隊の物資の半分は失われるだろう。貴重な、兵の食糧が。

 眉を逆立てて見上げた空には、もう翼竜の姿はない。振り返れば、目的を果たし、さっさと南の空へと向かう影があった。


「卑怯な真似を……!」

 こんな小狡い手を使う者に、ニダベリル軍が負けるわけにはいかなかった。

 イアンは両手を握り締める――爪が手のひらに食い込むほどに。その胸中には怒りがまさに炎のように燃え盛る。それは、馬車を焼いたものよりも遥かに激しいものだった。


「必ず、この手で捻り潰してくれる!」

 軋む声でそう唸ると、イアンは固く奥歯を噛み締めて誓う。この自分は、全力を持って、正面から敵を倒して見せる、と。戦いとは、力で相手を捻じ伏せるべきなのだ。

 小賢しい手など、ニダベリル軍将軍イアン・グイの信条に反したものだった。


「グイ大隊、奴らを追撃するぞ!」


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