砦到着
ルト川よりも北からニダベリルの領土までは、殆どヒトの手が付けられていない。
ニダベリルとグランゲルドを分かつ国境が明瞭に定められたのは、十六年前の戦いの後である。フリージア達が今いる場所は、地図の上ではグランゲルドの領土だ。だが、ルト川以北は徐々に土地も痩せ始め、グランゲルド国内には他にいくらでも豊かな土地があるというのに、敢えてそこに住む利点はない。
グランゲルドもニダベリルも手を出していない土地。そんな一帯が始まる場所に、グランゲルドの最北端を監視する砦があった。
もっとも、小高い丘に建てられたそれは、『砦』と呼ぶにはあまりに貧弱である。
兵士宿舎に物見櫓に厩舎に倉庫、訓練場とそれらをぐるりと取り囲む壁。
ある物と言ったらその程度だ。兵士の数も二十人そこそこ。多少の籠城はできるように外壁はしっかりしており物見台も備えられてはいるが、ニダベリルの武力の前にどれほど耐えられるかは甚だ疑問だ。
さもありなん。
ここは砦と言っても進軍を阻むことが目的ではなく、異状をいち早く見つけ、グランディアに報告することが一番の役割なのだ。その為、詰める者には馬を巧みに操れることが要求され、結果、必然的に紅竜軍から持ち回りで兵士が派遣されていた。
「ロウグ将軍!」
物見櫓の上から、紅竜軍が近付いてくるのが見えていたのだろう。フリージアが砦の中に入るとすぐに、警備隊長が駆け出してきた。
「あ、隊長、お疲れ様」
ひらりと馬から降りて、フリージアの方からも彼に近寄る。彼女の前まで来ると警備隊長はザッと音を立ててひざまずいた。
「お待ちしておりました。まだ、国境の方にもニダベリル軍の影はありません」
「まだ、もう少し時間はある筈だよ。多分、早くてあと十五日、かかっても二十日くらいかな。あっちがここに到達するまで、そのくらいだと思う。どっちにしても、そんなにゆっくりはしてられないけどね」
「いよいよですね。 でも……」
隊長は言葉を濁しながらフリージアの後ろに視線を流した。そこにいるのは、彼も見慣れた紅竜軍だけだ。ニダベリルと一戦交えるには、いささか不安を覚えても当然だろう。
「ここでは戦わないよ……まあ、ちょっとくらいはやるかもだけど、基本的には戦わない。隊長達も、荷物まとめてここを出る用意をして。ここの倉庫にしまってある物は、どこかに穴でも掘って隠すんだ。到着したニダベリル軍に取られちゃわないようにね」
フリージアの言葉に、警備隊長は怪訝そうな面持ちになる。そんな彼に、彼女はニッと笑う。
「隊長達にも、ひと仕事やってもらわないと。時間がないから、急いでね」
イタズラでも企んでいるかのようなフリージアの笑顔に、警備隊長は眉間のしわを深くした。
*
砦の物見櫓から見通せる、北と南に向かって真っ直ぐに伸びた道。
それもまた、前回の侵攻の際にニダベリルが築いたものだ。
新しい道を切り拓いて侵攻してくる可能性もあったが、間者からの最新の報せによると、今のところ、ニダベリルはこの道を目指して進軍しているらしい。
「戦をする為にこんなの造っちゃうんだよねぇ、ニダベリルって」
フリージアが背後のオルディンを振り返りながら言う。
かなり高い位置にある櫓の天辺は、まだ冷たい風が吹き抜けていた。ヒュウと突風が吹き付けて、フリージアの赤いおさげが揺れる。彼女の身体を包むように欄干に手を突いて、オルディンは肩を竦めた。
「まあ、こんなの造られてても気付かねぇグランゲルドも大概だけどな」
「ルト川があるから、安心してたんだろうなぁ。こっちの方って人がいないし」
「平和ボケが過ぎたんだよ」
呆れを含んだオルディンの台詞に、フリージアは再び北の地平に視線を戻して首をかしげる。
「それはそうなんだけど……でも、みんなが平和に呆けられるんなら、あたしはその方がいいな。いつ戦いになるんだろうって、キリキリ、ピリピリしてるよりもさ」
「ジア、お前――」
「迷いはないよ。ちゃんと戦う。その覚悟は決めた。使える手段は使うし、こちらの被害を抑える為なら姑息な策だって弄してやる」
この期に及んでまだ迷うのかと危ぶむ声で彼女の名前を呼んだオルディンを、フリージアはピシャリと遮った。彼女の顔は前を向いたままで、オルディンの位置からは今どんな表情をしているのかを見て取ることはできない。だが、欄干を掴む細いその指先は、白くなっていた。
「……相手をヒトだと思うなよ?」
いっそ、獣か何かと思ってしまえば、傷付けることにためらいも罪悪感も覚えずに済む。自分と同じ姿かたちをしたものの肉を裂き、血を噴き出させても平気でいられる者は、はなからそれが好きな異常者か、自らの心をごまかす術を覚えた者か、罪悪感を覆せるほどの大きな支えを持つ者くらいだ。
だが、そんな彼の台詞に、フリージアはクルリと振り返って炯々とした眼差しを向ける。
「そんなの、ムリ! 人は人にしか見えないよ。あたしはそんなふうにごまかしたくない。自分がやることから目を逸らしたくないんだ」
それは、そうなのだろう。
フリージアなら、当然そう考えるに違いない。
それは解かるが、だからと言ってオルディンの中の不安を拭い去ることはできない。
いざ敵を目の前にしたらためらいが出るのではないだろうか。あるいは、いざ敵を斃したら打ちのめされてしまうのではないだろうか、と。
この新緑の色の目から光が消える様を、見たくない。
オルディンは彼女の目から視線を逸らし、地平線へと向ける。
と。
「来やがった」
オルディンは呟く。
北の彼方に現れた黒い影。
彼の声にフリージアもそちらを見、間髪を容れずにオルディンの腕をくぐって梯子に向かった。彼女の動きは素早く、躊躇は微塵も感じさせない。
「行こう!」
そう一声かけて、フリージアはスルスルと梯子を下りていく。オルディンはもう一度彼方の一群に目をやってその影が濃さを増していることを確認すると、彼女の後に続いた。
「バイダル、来たよ! みんなに指示を出して!」
広間に入るなり、フリージアがそこにいたバイダルにそう声をかける。それを受け、彼は無言で頷くと小隊長へと目配せをした。各々、自分の小隊が待機する場所へと走り出す。
ようやく訪れた『その時』に、皆の動きは迅速だった。この十五日間毎日練習していた彼らの動きは一切無駄がない。四半刻もしないうちに皆馬上の人となっていた。三百人余りが一糸乱れず訓練場に整列する。
「じゃあ、バイダル、予定通りに待機させといてね」
「わかった。……お前も気を付けろ」
バイダルがその隻眼を光らせてフリージアを見下ろす。そこに潜む彼女を案じる色に、フリージアは隣に立つオルディンの腕を叩きながら答えた。
「大丈夫、オルがいるしね」
彼女のその台詞に、バイダルの目がオルディンを射る。無言で念押しをしてくるその眼差しに、オルディンも頷きだけを返した。
頭上でかわされたそのやり取りに気付かぬフリージアは、兵の方へ振り返る。
「ソル!」
フリージアがその名を呼ぶと、銀朱色の髪を持つ少女が最前列に立つロキスから離れて駆け寄ってきた。今回の作戦では、彼女にも一役果たしてもらうのだ。緊張の為か、少し顔色が悪い。
ソルが戦に付いてくると宣言した時、彼女もこの砦での作戦の中に組み込まれた。フリージアは渋ったが、結局、ソルの力を使う方法が一番確実だからということで、不承不承ながらに受け入れたのだ。何より、彼女自身が自らの力を使うことを進んで提案したのだから、フリージアが拒み続けられるわけがない。
「大丈夫? いける?」
眉をひそめたフリージアにそう問われ、ソルは両手を拳にして腰に当て、彼女を見上げた。
「大丈夫よ」
「でも……やっぱり無理だったら、いいんだよ?」
「全然問題ない。やれるわ」
鼻息も荒く、子どもが胸を張る。フリージアはそんな彼女を見つめ、そして頷いた。
「――わかった」
そうして外套をすっぽりとソルの頭から被せ、包み込む。グランゲルド軍の中に不思議の力を使うエルフィアがいることを、できる限り広めずに済むように。
フリージアは一歩下がってソルの上から下まで眺め回す。ヒトでは有り得ない色彩を完全に覆い隠せていることを確認して、オルディンを見上げた。
「オル、スレイプを呼んでよ」
「ああ」
オルディンは頷き、竜笛をくわえる。音なき音が大気に響き渡り、間を置かずして巨大な影が差す。翼竜はフリージア達の頭上まで来るとその場で数回羽ばたいて、中空にとどまった。その風でせっかく被せたソルの外套がめくれてしまわないように彼女の頭を押さえてやりながら、フリージアが片手を振る。
「いいよ、こっちにおいで」
フリージアの呼び掛けに喉を鳴らして答えると、旋風のように埃を巻き上げスレイプは地面に下り立った。
「いっそ、こいつをニダベリル軍の中に突っ込ませれば? 二百や三百、あっという間に殺ってくれるんじゃねぇの?」
堂々たる体躯を見上げながらそう言ったのは、ロキスだ。口調は冗談めかしているが、半ば以上は本気だろう。そんな彼に、フリージアが首を振った。
「スレイプは元々ヒトも食べる種なんだ。本能を甘く見る気はないよ。できるだけ、ヒトの血の臭いからは遠ざけておきたいんだ」
岩のような厚い皮で覆われた太い首を撫でながら、言う。確かに、一度ヒトの肉の味を覚えてしまったら、二度とその手綱を取り戻すことはできないだろう。下手をすれば退治しなければならない獣に成り果ててしまうかもしれない。
「それであっちを皆殺しにしてくれたら、それはそれでいいじゃんか。手間が省けるってもんだぜ? こっちも被害がなくて済むしな一本の矢で二羽の鳥を仕留めるようなもんだぜ」
物騒なことを平然と口にするロキスに、フリージアは鼻の頭にしわを寄せる。
「ぜったい、イヤ」
そんなフリージアの頭を宥めるようにクシャリとかき回し、オルディンはその会話を打ち切らせた。
「行くぞ。時間がない」
オルディンは先にスレイプにまたがり、フリージアに向けて手を伸ばす。彼女はソルを抱き上げ先に乗せると、次いで彼の手に掴まった。オルディンは重さを感じさせないその身体を引き上げて自分の前に座らせる。
「じゃあ、バイダルお願いね! すぐ戻るから!」
フリージアはスレイプの鞍の上から、まるで散歩に行くような気軽さで地上のバイダルに向けて手を振った。隻眼の副隊長が、片手を上げてそれに応じる。
「よし、行け、スレイプ」
オルディンのその声に応えるように、スレイプが咆哮を轟かせる。そうしてその翼を大きく一打ちすると、三人を乗せた巨体はふわりと舞い上がった。
「いいか? ケンカは最初の一声が肝心だからな? 怖気が滲んだら、足元を見られる。虚勢だろうが空威張りだろうが何でもいい。腹から声を出していけよ」
腕の中のフリージアに、オルディンは最後の念を押す。彼女は頭を反らせて彼を見上げると言った。
「うん、大丈夫。そういうの得意だから」
揺らぎのないフリージアの目からは、その心中は量りかねる。言葉通りに、自信があるようにも見えた。少し前までは彼女の胸中など手に取るように読めたのに、最近はそれが叶わぬことがしばしばある。
オルディンはその頭をポンと叩く。そうして両手で手綱を握り締め、土埃を上げる黒い一団へと鋭い視線を投げた。




