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ジア戦記  作者: トウリン
第三部 角笛の音色と新たな夜明け

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ルト川到着

 グランゲルドの西部から北部に向けて流れているのは、ルト川だ。

 南のヨルムの背骨に源流を持ち、グランゲルドの大地を包み込むように西端を下って、北部を横断して東へと抜けて行く。川幅も深さもそれなりにあり、身一つならともかく武装した者が泳いで渡ることは不可能だ。


 このルト川が、北方の侵攻からグランゲルドを守っていると言っても過言ではないだろう。橋を架けることも難しく、またグランゲルド側からは敢えて対岸へ渡る必要も無かった為、長い間この川は手付かずのまま放置されていた。

 だが、今フリージア達が立っている、川が大きく流れを変えている地点。他よりも川幅が狭まっているその場所には、人が二十人横並びになっても通れそうな程の橋が架けられている。グランゲルドの技術では不可能だったそれを成し遂げたのは、かつてこの国に侵攻してきたニダベリルだった。


「私が人を雇い、各地へ間者を忍ばせるようになったのは、この橋がきっかけでもありました」

 フリージアの隣に立ったスキルナが、橋を見つめながら言う。

「前回の侵攻は、宣戦布告がありませんでした。気付いた時にはここまで踏み込まれていて――自然の守りがあると、安心しきっていたのです。それに、そもそもこの国が攻め込まれるという事態を、あの当時は私もまったく考えていませんでした。平和というものは、なんの努力も要さず手に入るものだと、思い込んでいたのです」


「スキルナ将軍……」


 何と声を書けたら良いのか判らずただ名前だけを口にしたフリージアに、スキルナは笑みを浮かべる。そこには微かに自嘲の色がにじんでいた。


 そして、彼は続ける。


「来る途中に村があったでしょう? あの村の者がルト川の向こう岸で橋を造り始めたニダベリル軍に気付き、王都に報せを寄越したのです。直ちに我々も出陣し、到着した時には橋が完成していました。ひと月もかからぬうちに――たったそれだけの時間で、彼らはこの橋を造り上げたのですよ」

「もったいないよね。物がなくたって、代わりにそういうのを商売のタネにしたらいいのに」


 フリージアは、心底から呟いた。きっと、ニダベリルの優れた技術は、取引の材料として引く手あまたに違いない。


「無理だろうな。あいつらに『与える』という考えがあるとは思えん」

「そうなんだよねぇ……」


 隣に立つオルディンの肩を竦めてのその言葉に、フリージアもため息混じりに頷きを返す。が、すぐに頭を振って考えを切り替えた。


「まあ、いいや。取り敢えず、今やることをやろう。てことで、スキルナ将軍とビグヴィルはここに残って手筈通りに事を進めてね」

「それだが……本当に、紅竜軍だけで行かれるのか?」

 ビグヴィルが不安をその顔に溢れさせ、フリージアに確認してくる。それに笑い返して答えた。


「今回は速さが勝負だからね。騎兵だけじゃないと、ダメなんだ。その代り、ここまで引っ張ってきたらビグヴィルたちの出番だよ」


 そう言って、フリージアはグルリと辺りを見回す。


 ルト川は、今フリージア達がいる岸の方――南側――に凸になった流れになっている。橋はその屈曲の頂点にかけられていて、向こう岸から橋を渡り切るまでは、両側をこちら側の岸に挟まれる形になる。その上西側――上流の岸は、かなりの高さを持つ土手となっていた。平原が多いグランゲルドの大地の中で、待ち伏せする場所として、ここが一番適している筈だ。

 橋を架けた時、ニダベリルは単純に川幅と深さからその場所を選んだのだろう。勝ち戦ばかりで策を弄する必要がなかった彼らだからこそ、だ。とにかく、大きく頑丈な橋を早く造り上げること、それだけに留意したに違いない。


「ニダベリルはグランゲルドを侮ってる。せっかくだから、有効に使わせてもらおう」

「侮る?」

 ロキスが眉を上げてフリージアを見た。彼女はコクリと頷く。

「そう。自分達に敵は無いって、思ってるでしょ、ニダベリルは?」

「まあな。実際、向かうところ敵なしだったぜ?」

「今回も、そう思って突っ込んできてくれるといいな」

「マジかよ。あっという間に踏み潰されちまうって」

 呆れたようなロキスの台詞に、フリージアはニッコリと笑って見せる。


「そりゃ、真っ向からやりあったらね。数では負けてるんだもん。何にもないところでまともにぶつかったりしたら、勝ち目ないよ。だからこそ、ビグヴィルたちには、ここでしっかり準備を整えてもらわないと」

「しかし……」


 振り出しに戻って、ビグヴィルが再び渋い顔になった。この計画はだいぶ前から決まっていた筈だが、いざその時が近付くと彼には不安が込み上げてきたようだ。もっとも、三千の兵に三百で応じようというのだから、ビグヴィルの躊躇いも当然のことではある。


「大丈夫。やることやったら、さっさと逃げてくるから」


 口で言うほど簡単ではないことは、フリージアも判っている。だが、敢えて気楽な口調で笑い飛ばした。


「あたしたちも、もう行かなくちゃ。あっちでも下拵えはしておかないとだから。ここから北の砦までは五日くらいかな。ニダベリルが国境に到着するまで、あと二十日もないでしょ? 早く行かないと間に合わない。準備ができていないうちにニダベリルに来られちゃったら、目も当てられないよ」

「だが――」

 なおも言い募ろうとしたビグヴィルを、フリージアは両手を上げて制する。


「この話は、おしまい。もう決まったことなんだから。今更変えられない」

 きっぱりとそう言い切ったフリージアを後押ししたのは、オルディンだった。


「おっさん、無理だって。俺も散々説得したんだぜ?」

「そうは言ってもな、オルディン。ニダベリル軍を迎え討つのに紅竜軍三百だけで赴くなど……」

「あっちだって前衛の騎兵は三百でしょ? こちらが馬を走らせれば歩兵は付いてこられないし、取り敢えず同じ数の兵だけ相手にすればいいんだから。それに、他にもちゃんと手は打つよ」


 その仕掛けを仕込んでおく為にも、ここは早く出発しなければならないのだ。

 再びフリージアが口を開こうとした時だった。兵達の方がにわかに騒がしくなる。


「何だろ?」


 そちらの方へ目をやって――視界に飛び込んできたものにフリージアはあんぐりと口を開けた。目にした光景が、信じられない。


「何で、いるの?」

 ロキスとソルの姿はいい。だが、その間の白いのは、どういうことか。


「食いモン積んだ荷馬車に隠れてたみてぇだぜ? よく十日も見つからずにいたもんだな」


 感心したような声でそう言ったロキスを、フリージアは絞殺しそうな目で睨み付けた。冗談事ではないのだ。

 王都グランディアを出る日、その姿がないことはフリージアも気になっていた。だが、多分、拗ねているのだろうと思っていたのだ。


「エイル……」


 フリージアが咎める声でその名を呼んでも、エイルは悪びれた様子なく彼女を見返してくる。出会った頃は自分の意思などないような子だったというのに、今は明確な意志が見て取れた。


 我に返ったフリージアは眉を吊り上げてきっぱりと言い渡す。


「今すぐ誰かに頼んでグランディアに連れて帰ってもらうから」

「帰らない」

「エイル!」


 声を大きくしたところで、エイルはまったく堪えていない。この様子では、戻したところで今度は単身出てきそうだ。

 フリージアはガシガシと髪を掻き毟って唸り声を上げる。


「どうするんだ? 紅竜軍の誰かに行かせるのか?」


 オルディンの言葉に、即座には頷けなかった。元々カツカツな人数なのだ。それに、一人減るだけでも、いつもと勝手が違ってしまうかもしれない。


 青雲軍か黒鉄軍の者に頼むという手もあるのだが。

 フリージアが頼めば、嫌な顔をせずに引き受けてくれるだろう。だが、エイルのことは私事わたくしごとだ。それに兵を裂くのは間違っている。


 それに何より。


 フリージアはもう一度エイルの目を見つめる。意志ある、その白銀の眼差しを。

 ナイからエイルを連れ出した時は、何があっても護ってやらなければならないと思っていた。弱々しくて、頼りなくて、心許なくて。

 だが、今のエイルはどうなのだろう。フリージア以外の者と言葉を交わすようになり、彼女がいなくても好きなように出歩けるようになった。

 もう、真綿で包み込むように扱う必要はないのかもしれない。いつまでも自分の手の中に入れておこうというのは、フリージアの思い上がりに過ぎないのだ、きっと。


 彼女は小さく息をつく。


「わかった。いいよ、もう。ここにいても」

 短くそう答えると、エイルの顔がパッと華やいだ。

「邪魔にはならないよ」

「邪魔なんて思ったこと、一度もないよ」

 真剣な眼差しで胸を張ったエイルに、フリージアは溜息混じりにそう答えた。


 常にフリージアの腕にすがっているような子だったのに、何だか急に成長したような気がする。嬉しい反面、何故か胸の辺りがモヤッとして、ふと眉をひそめたフリージアだった。


   *


 進軍を開始してから十日になる。


 投石器というお荷物を抱えての移動は緩慢で、今となっては戦に不可欠になった代物だが、アウストルはこの点だけは不満に思う。


 投石器の運搬自体も遅々としているのだが、それを手入れする技術者達もまた、隊の足を引っ張っていた。元々、彼らは肉体労働者ではない。体調を崩させない為には休息を充分にとらせる必要がある。


 かつては、道なき道を昼夜問わぬ強行軍で突き進んだものだ。


 ニダベリルは、元来、岩山ばかりの土地である。だが、兵の数が増え、装備が重く多くなるにつれ、機動力は落ちていった。かつてはヒトが地面に合わせていたが、地面をヒトに合わせる必要が出てきたのだ。

 ニダベリルは進撃の為に山を拓き、地を均し、長い年月を費やして東西南北各地へつながる道を敷いていった。


 だが、そんな通り易い道でさえ、彼らの歩みは遅い。

 大部隊なのだから足の遅いものに合わせなければならないことは解かっている。だが、時々、アウストルはかつての身軽だったニダベリル軍が恋しくなった。

 トロトロと歩くよりも全力で駆けまわる方が好きな彼の愛馬も不満そうで、時々大きく鼻を鳴らしている。


「隊長」

 アウストルは少し前を歩く近衛隊隊長に声をかけた。


「は」

「少しこいつを走らせてやってくる。すぐに追いつくから、先に進んでろ」

「わかりました」


 遠征の移動中に王が独りでふらりと隊列を離れるのは、珍しいことではない。アウストルほどの腕前なら、中途半端な護衛などむしろいるだけ邪魔になる。

 アウストルは隊長に小さく頷くと、馬首を翻して駆け出した。


 常足なみあし速歩はやあし駈足かけあし襲歩しゅうほと速度を上げていくと、愛馬は水を得た魚のように生き生きとし始める。足場は悪いが、アウストルはものともせずに手綱を操った。


 城にいる時であれば好きなように走らせてやるのだが、まだまだ長い行程が残っている今は、そうもいかない。小さな川に行き当たったところで、アウストルは馬を止まらせた。

 清流とは程遠い濁った流れだが、水は水だ。アウストルは馬を下りると水辺まで馬を連れて行ってやる。


「しばらくおとなしくしていろよ」

 水を飲み始めた愛馬の鬣を撫でながら、耳元で言い含めた。


 そうして、アウストルは剣の柄に手を置き、刹那、彼の全身から闘気が溢れ出す。

 付かず離れずの距離でまとわり付いていたその気配には、ニダドゥンを出た翌日から気が付いていたのだ。数は四人か五人。


 ――その程度でこのニダベリル王をどうにかできると思っているのなら、とんだお笑い草だ。


 そう、小さく笑いを漏らした時だった。


「ニダベリル王、アウストル! 覚悟!」


 大声と共に、岩陰から五人の男が飛び出してくる。


 やれやれだ。


 アウストルはため息混じりに胸の中で呟き、振り向きざまに剣を抜くと、斬りかかってきた男達にひるむことなく踏み込んだ。


 刺客は、五人。皆、若い。

 よけようとする気配も見せないアウストルに、むしろ男達の方の腰が引ける。微かにぶれた剣先を見逃さず、アウストルはその剛剣を振るった。

 ズブリと、濡れた物を切り裂く音。

 直後無造作に分断され地面に転がった仲間の身体に、残った四人の足が止まる。


「どうした? もう止めておくか?」


 剣を振るって血を払いながら、アウストルは余裕に満ちた笑みを浮かべて見せた。もっとも、今さら止めると言われても、彼にはその気はなかったが。


 一度ニダベリル王に剣を向けた者は、彼に勝つか、彼に殺されるか、そのどちらかしかない。

 凄味のあるアウストルの笑みに、彼らはジリと後ずさった。だが、一瞬おいて再び剣を振り上げ怒号と共に駆け出してくる。


 速度もない。全身隙だらけだ。


 この程度の腕で、このニダベリル王アウストルを仕留められると思ったのか。


 半ば失望に近い気持ちを抱いて切りかかってきた剣を二人まとめて打ち払い、返す刃で彼らの胴を薙ぎ払った。


 ヒトはそう簡単には絶命しない。

 その切り口から内臓を溢れさせながらも、苦痛に呻き声をあげ、男二人はこらえきれずにのたうちまわる。だが、それも長くは続かなかった。


 あっという間に三人が斃され、残った二人は及び腰になる。多分、戦意はすでに底を突いていただろう。

 だが、アウストルは足を踏み出した。


 右と左。

 二人並んだうちの、左に狙いを付ける。


 ハッと気づいた男が剣を上げてアウストルの一撃を防ごうとしたが、そんなものは何の役にも立たなかった。

 鋼と鋼がぶつかる音の後にズブリという鈍い音。弾き飛ばされた一本の剣が宙を舞い、離れた場所に落ちる。

 一瞬後、アウストルの剣は、男の左肩から右脇腹へと、抜けていた。そして、どさりどさりと二度続けて地面に硬くはない者が落ちる音が響く。心の臓も切り裂いていたと見え、今度は、さほど苦しまずに逝けたようだ。


 その横で、ただ一人残された男がヘタリと崩れ落ちる。股の辺りが黒ずんでいるのは、模様ではないだろう。

 身の程を知らずにこんなことをしでかした男達に、アウストルは呆れと、微かな憐れみを覚える。若気の至りというには、あまりに大きな代償だ。

 彼の喉元に切っ先を突き付けながら、アウストルは問うた。


「何処の者だ?」

「西……西のトレンド族だ……」


 それは、一年ほど前に制圧した部族の名前だった。ずらりと並んだニダベリル軍の前に、族長は無血でその軍門に下った。しかし、その決断に、血気盛んな若者は納得がいかなかったようだ。


「愚かだな」


 呟きながら、アウストルはその刃先を男の首筋に触れさせる。今まさに消え去ろうとしている己の命に、彼の顔は蒼白だった。その震えの所為で、首には浅い傷がいくつも付く。


「お前は生かしておいてやろう。村に戻り、今目にしたこのアウストルの力を他の者に伝えろ。二度とこんなバカな真似をする奴が出てこぬようにな」


 低い声でそう告げ、アウストルは血糊を拭った剣を鞘に納める。

 チラリと地面に転がる屍に目を走らせ、生き残りの刺客に背を向けた。


 どれも、若い。二十歳を超えたかどうかというところだろう。


 愛馬の元に戻りながら、アウストルは両手を握り締める。

 この事態は、未だニダベリルに強さが足りない証拠だった。ニダベリルにはどう足掻いても太刀打ちできないのだと諦めさせることができていれば、この連中はアウストルを狙うことがなく、無駄に死ぬことも無かっただろう。

 これまで制圧してきた連中の、大半は御しきれている。ニダベリルには逆らえないという恐怖の元に。だが、時たまこういう輩が現れる。


 もっと、力を見せつけなければ――圧倒的な力を。


 どれ程の力を手に入れればいいのか判らない。どこまでやれば充分なのか、判らない。

 だが、それを為さねばニダベリルに待つのは崩壊のみだ。

 祖国を護る為にアウストルが手にしているものは、『力』しかない。それ以外の手段など、知らなかった。


 アウストルは再び馬上の人となる。


 散らばる骸にも、打ちひしがれた生き残りにも、もう目をくれることはなった。


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