それぞれの、出立
今、フリージアの眼前にはずらりと兵が並んでいた。
グランゲルドの軍は三軍――紅竜軍、青雲軍、黒鉄軍に分かれている。兵数はそれぞれおよそ三百。
グランゲルド軍の構成はいたって単純だ。いずれの軍も、一般兵十人とその上に立つ分隊長一人から構成される三十の分隊に分かれており、十の分隊を一人の隊長が束ねている。その隊長の上に立つのが、将軍であるフリージア、ビグヴィル、スキルナだ。
普段、フリージアが城内の訓練場で接しているのは、彼女の副官であるバイダルと三人の隊長、それに三十人の分隊長達だ。だが、今目の前にいるのはその十倍の数の兵士たちである。
こんなふうに整列する彼らの前にフリージアが立つのは、これで二回目だった。
一度目は、フリージアがロウグ家の跡取りとして披露された時だ。だが、あの時と今とでは、兵たちの目の色は全く違う。
フリージアも一般兵の訓練を視察しに行ったり、そんな時に彼らに声をかけたりしたことはある。だが、士官達と同じようには付き合ってこなかった。
一人一人の名前など、知らない。
けれど、彼ら一人一人の命はフリージアの両肩に乗せられている。
兵士達はフリージアの手足のようなもので、頭である彼女の命令で動く。他者を傷付け、自らの身を傷付けようとも彼らを突き進ませるのは、彼女の号令なのだ。
彼らから圧力のようなものすら感じられて、フリージアは思わず後ずさりそうになるのを辛うじてこらえた。そうして、一度大きく息を吸うと、背後に立つフレイとサーガに向き直る。
「王様、準備は整いました」
思ったよりもしっかりした声が出せて、フリージアはホッとする。だが、表情はそれほど芳しいものではなかったようだ。
フレイが一歩を踏み出し、フリージアの前に立つ。
手は、伸ばしてこない。けれど包み込むような眼差しが彼女に向けられる。
「フリージア」
「はい」
深く温かな声で名を呼ばれ、フリージアはフレイを見上げた。宣戦布告を受け入れるまではあれほど頼りなさげに見えていた彼の新芽の色の眼差しは、今は揺らぎなく彼女を見つめている。
彼はフリージアを見返しながら、言った。
「そなたはこれから戦場で様々な命を下し――様々な事に行き当たるだろう。確かに、直に彼らへ声をかけるのはそなただ。だが、それは、言うなれば余の声がそなたの口を通して皆に伝えられるようなもの。よいか、戦場で起きる全ての事、その責を負うのはそなたでもビグヴィルでもスキルナでもなく、この余だ。ゆめゆめそれを忘れるな」
「王様……」
微かな震えを消し切れなかったフリージアの声に、フレイの指先がピクリと動き、持ち上がりかける。だが、結局彼はそれを握り込んだ。一瞬、手の甲に筋が浮かぶほどに力が籠められ、そして緩む。
フレイはフリージアの横を抜けて兵たちの前に立つ。居並ぶ千の兵士たちを端から端までグルリと見渡し、口を開いた。静まり返った空間には、彼の声だけが染み渡る。
「この国を護る為に戦いに赴いてくれることを、ありがたく思う。きっと、ニダベリルにも劣らず勇猛果敢に戦ってくれることだろう。確かに、そなた達の戦の経験は乏しい。しかし、この国を、民を想う気持ちは、かの国には決して劣らぬことだろう。その想いこそが、そなた達を突き動かす、何よりも強い力になる筈だ」
フレイは一度言葉を切り、また、兵士たちを見る。一人一人の顔を確かめるかのように、ゆっくりと視線を注いで。
そうして、再び言葉を継ぐ。そこには、殆ど祈りのような切実な響きが滲んでいた。
「だが、忘れないで欲しい。そなた達もまた、この国の民なのだということを。皆、余にとっては同じ命だ。国の為、民の為、と己の命を軽んじるな。そなた達のことを失いとうないと思う者がいることを、常にその頭の中に留めておけ。決して、生きることを諦めるな。死が美しいとは思うな。余は、そなた達がまた同じようにこの場所に立つことを、切に願っている」
フレイの声は、喉を嗄らして張り上げたものではなかった。だが、木の葉が落ちる音ですら聞き取れそうな静寂の中で、彼の訴えは兵士達の耳にゆっくりと浸透していく。
誰が合図をしたわけでもない。だが、フレイが口を閉ざすと同時に、千人の兵達はまるで見えざる手で撫でられたかのように、一斉に深々と敬礼をした。
フレイの言葉が王として――将として正しいものなのかは、フリージアには判らない。
だが、彼が王で良かったと、心の底から思った。確かにフレイに肉体的な強さはない。だが、それを凌駕する何かが、彼からは感じられるのだ。
以前よりも大きく見えるフレイの背中を見つめるフリージアに、そっと温もりが寄り添った。顔を横に向けると、芳しい香りが鼻先をくすぐる。
「サーガ様」
「気を付けて行ってきてね? 怪我をしたら、嫌よ?」
「……善処します」
約束は、できないと思った。戦など経験のないフリージアでも、サーガのその台詞に簡単に頷けないことくらいは解かっている。
「フリージア」
ごまかせなくて視線を下げたフリージアの名が、呼ばれる。目を上げると、王妃の穏やかな空の色の目が彼女を見つめていた。
「いい、フリージア。この戦いの果てにあなたが見つめているものを、見失わないで」
サーガは、そう言ってふわりと微笑む。
「殿方は、名誉や見栄でも戦えますわ。けれど、女はそうはいきません――もっと、明確なものがなければ。あなたが望む未来――この間、フレイ様やわたくしに話してくれたでしょう? それをしっかりと見据えていなさい。その為に戦うのだということを、忘れずにいなさい」
サーガの口元は笑みを浮かべている。だが、その目はフリージアを案じ、彼女を戦場に送ることを憂いていた。優しい王妃の心を痛ませているのが自分であることに、フリージアは胸が締め付けられる。彼女には、いつでも心からの笑顔でいて欲しいのだ。
「サーガ様……うん、そうですね。あたしは戦いに行くんじゃない――未来を掴みに行くんだ」
頷き、そして、サーガに向けて笑顔を返す。それは形だけのものかもしれないけれど、緊張に頬を引きつらせているよりはずっとマシだろう。
フリージアは再び兵達の方へと向き直る。
彼らは、フリージアの言葉で動く。だから、フリージアは彼らに責任がある。その事実は変わらない。
だが、そのことに引け目を覚えるのは、何か違うのかもしれない。
フリージアを見る時に兵士達の目の中にあるのは、信頼だ。彼女のするべきことは黙ってそれを受け取ることなのかもしれなかった。
「じゃあ、あたし、行きます」
「ええ」
顔を上げ、きっぱりとそう告げたフリージアに、サーガは笑みを深くする。今度はその目にも明るい光があった。
フリージアは軽やかに身を翻し、兵達の先頭に立つオルディンとバイダルの元へと走る。馬上から見下ろしてくる二人に、晴れやかに笑いかけた。
「お待たせ」
「もういいのか?」
目をすがめてそう訊いてきたオルディンに、フリージアは深く頷いた。
「いいんだよ。いつまでもグズグズしてらんない。早く行って、早く帰ってくるんだ」
その言葉と共に、二人の間にいた空馬にひらりと跨った。
そうして、右手を高く掲げる。
「進め!」
腹の底に力を入れて、フリージアは高らかに宣言した。その声一つで、全てが一斉に動き出す。
千の人間が一つの意志を持って、決然と歩み出した。
*
遠ざかっていく者達の姿が視界から消えるまで見送って、フレイはミミルとサーガに向き直った。彼には、二人に言わなければならないことがある。
フレイが言葉を選んでいるうちに、先に口を開いたのはミミルだった。
「では、我らは城に戻るとしましょうか。戦場から遠く離れた地でできることといえば、祈ることだけですからな」
老宰相は、未だフリージア達が消えた方へと目をやりながら、そう言う。だが、フレイに帰城を促しながらも、彼の心は彼女達を追っているかのようだった。
普段は淡々とした姿しか見せないミミルだが、決して冷淡なわけではない。長い年月を共に過ごしてきたフレイは、それを知っていた。ゲルダが命を落としたあの夜も、一晩中月を見上げて佇んでいたミミルの姿があったのだ。
今も、安全なこの地にとどまる自分のことを、歯がゆく思っているのだろう。
フレイはもう一度フリージア達が消えていった地平線を見つめ、そしてそのまま視線を流した。彼の視界を満たすのは、活動を始めたばかりのグランゲルドの大地だ。未だ緑は少ない。しかし、新しい命の息吹きはそこかしこに溢れている。
いずれまた、むせるような緑に埋め尽くされるであろう、豊かなグランゲルドの地。
グランゲルドの民がこの自然の恩恵を被ることができるのは、ただ単に、この地に産まれることができたからだ。
それがどんなに幸運なことなのか、この地に住んでいる者は気付かない。恵みに感謝をしながらも、ただそれを甘受するだけだ。
フリージアは、そのことに疑問を抱いた。そしてそれを変えることを望み、戦いの場へと駆け出していった。
愛しい娘の帰りを、フレイはその身を案じながらただ待つしかないのだろうか。
三日前にフリージアから『彼女の計画』を聞かされて以来、彼は何度も自問を繰り返し、そうして、答えを得た。
希望を抱いた娘の父親として、このグランゲルドの王として、フレイには為すべきことがあった――できたのだ。
「サーガ、宰相」
フレイは二人を呼ぶ。彼女らは地の彼方から彼へと目を移した。
「余も、出立しようと思う」
二人の視線を受けながら、フレイは告げる。彼の意志を。
「マナヘルムへ、ですの?」
そう問い返してきたのはサーガだ。彼女はその聡明な空色の目に全てを理解している色を浮かべている。
「そうだ。余は、これまであるものを受け入れるだけで、自ら動こうとはしなかった。目の前の平和しか見ようとしていなかった」
「王はこのグランゲルドの王です。この国の安寧を支えておられればよいのです」
低い声でのフレイの呟きに、ミミルが答える。だが、フレイは彼にかぶりを振った。
「いいや。それが、エルフィア達に今のように――マナヘルムの奥に引きこもり、閉ざされた空間で生きることを受け入れさせ、ザイン将軍にはつらい決断をさせてしまった。ゲルダの死も、余が責を負うべきものなのだ」
「それは違います! あれはお父様が勝手に――」
鋭い声でそう返したサーガに、フレイは穏やかな眼差しを向ける。
「余が、いけないのだよ。この平和を護る為に余がもっと動いていれば――その姿勢を見せていれば、ザイン将軍も安心して余に全てを任せていられたのだろう。余が不安を与えたばかりに、彼を先走らせてしまったのだ」
静かに、だがはっきりと言い切るフレイの台詞は、サーガの反論を封じた。
唇を噛んだ彼女を柔らかく微笑んで見つめ、そして、フレイはその笑みを消して再び繰り返す。
「だから、余は、エルフィアの元へ赴こうと思う。あの娘の望みを叶える為に」
城からほとんど出ることのないフレイにとってマナヘルムへの道は険しいものになるが、フリージア達が進もうとしている道程ほどではない。成し遂げられない筈がなかった。
「いつ、お発ちになられますか」
静かに、ミミルがそう問う。いや、それは問いではなく、確認だった。
「でき得る限り、速やかに」
「承知いたしました。では、すぐに準備を整えましょう」
そう答えた老宰相は一礼をして身を翻すと、老いを感じさせぬかくしゃくとした足取りで去って行く。
フレイはサーガを見下ろした。まだ、その目には不満そうな色が残っている。それが彼に対するものではないことは、判っている。だが、全ての事の遠因はフレイにあるのだ。
「ふがいない夫で、済まぬ」
そうこぼしたフレイに、サーガは一瞬目を丸くした。そして微笑む。
「いいえ。フレイ様はわたくしとって素晴らしい夫であり、王ですわ。わたくしは、貴方以外を望みません。世界で二番目にお慕い申し上げておりますもの」
『一番』が誰なのか。
それは問わずとも知れた。
フレイは黙って王妃を抱き寄せる。その温もりを腕の中に感じながら、彼は南の空へと視線を向けた。
*
フリージア達の出立とほぼ時を同じくして、ニダベリル軍も進撃を開始した。
――グランゲルドとニダベリルとが最初に剣を交えるのは、これからおおよそ三十日後のことになる。