出発前夜
ニダベリル軍が進撃の日取りを決めたという報せをもたらしたのは、かねてからスキルナがかの国に潜ませていた間者だった。フリージアの命を狙わせた黒衣の男達の組織の者だが、彼等の仕事は暗殺だけではない。
冬の間動きを見せなかったニダベリルに、グランゲルドの者たちの間にはもしかしたら戦いが回避できるのではないだろうかという淡い期待も漂ったのだが、残念ながらそうはいかなかったようだ。
ニダベリル王アウストルが兵達の前に立ったのが四日前。
彼が兵に向けて正式な開戦を宣言したというその連絡を受けて、グランゲルドでも直ちに出立の日が決められたのだ。
そうしてその日を三日後に控え、フリージア達は最後の確認の為に会議室に集まっていた。いつもの面子に加え、今日はロキスの姿がある。
「やっぱり、ここがいいよね」
円卓の上に広げた地図の一点を指差し、フリージアは告げる。
「ここで、ニダベリル軍を食い止めようと思うんだ。ねえ、ロキス」
「何だ?」
「何度も確認して悪いけど、ニダベリル軍は二つに分かれてるんだよね?」
問われてロキスは頷いた。
「ああ。グイ大隊とダウ大隊。オレがいたのはグイ大隊の方。大将の性格がそのまんま軍の戦い方に出てるな。グイ大隊は前衛担当でとにかくゴリ押しで戦う。小手先の作戦やら何やらは、むしろ恥って感じだよ。ダウ大隊は後衛でどっちかっていうと慎重派」
「で、グイ大隊の方の歩兵は六百、騎馬兵は三百、重装歩兵二百、弓兵が四百だっけ?」
「ああ」
頷いたロキスに、フリージアは彼の言葉を繰り返す。
「騎馬兵、三百……」
「ダウ大隊は、まあ、予備って感じかな。殆どの戦はグイ大隊で片付いてたぜ。最近じゃ、まともに戦う奴らもなくなってたしな。宣戦布告の時点で降参してきてよ」
「しかし、我らは戦う。――取り敢えず、実質相手にするのは、グイ大隊の千五百というわけだな」
そう言ったのは、ミミルだ。彼に向けて、フリージアは肩を竦める。
「どっちにしても、あたしたちよりも大きいことには変わりないよね。……自分よりも大きな相手を倒す方法は、二つ。相手の爪を受けないように逃げながらちまちまと攻撃を繰り返して体力を奪うか、一気に頭を潰すか」
フリージアは中空を睨みながらそう呟く。そんな彼女に苦笑混じりで付け加えるのはロキスだ。
「アウストル王はダウ大隊の更に後ろにいるから、辿り着くのに一苦労だぜ? まず、グイ大隊だろ? でその補給部隊が入って、次はダウ大隊、そんでもってダウ大隊の補給部隊でアウストル王。投石器は最後尾だな。まさに奥の手ってヤツ。そんな所にあの翼竜使ってオルディンの兄さんが特攻かけても、周りはうじゃうじゃ兵士が溢れてる。まあ、アウストル王の首は取れるかもしれないけどよ、帰っては来られねぇだろうな」
「オルにそんなことさせられないよ。……となると、やっぱり『ちまちま』の方だよね。あたしたちの方は絶対に兵を減らせないから、被害は最小限に抑えないと。でも、あんまり長引かせたくもないしなぁ」
ロキスからニダベリル軍の全容を聞き、冬の間中話し合ってきた。とは言え、グランゲルドに戦の経験は乏しく、綿密な作戦を立てることは難しい。地の利を生かし、臨機応変に挑むしかないのが実情だが、それは十六年前の戦いと同じことだった。そして、十六年前は勝利しているのだ。あの時よりもニダベリル軍の状況がわかっている分、有利とも言えた。
「やっぱり、ここが一番いいよね」
そう呟き、フリージアは再び地図に目を落とす。
紙面だけではなくて、以前にニダベリルへ赴いた時に彼女は実際に地図にある地形を目にしていた。問題は、明らかにグランゲルド側に有利な場所をニダベリルが避けずにいてくれるかどうか、だ。
「ニダベリル軍はここを目指してくれるかな」
フリージアのその不安に答えたのは、ミミルだ。
「北方には東西にルト川が流れています。それを渡るには進路はおのずと限られますからな」
「後は、目の前で赤い布でも振ってみようか? こっちにおいでってさ。まあ、どっちにしてもやれることをやるしかないんだよね」
結局、いつもと同じ台詞で締め括ることになる。
口調は軽いが、フリージアの胸中には常に重いものが垂れ込めていた。
フリージア、ビグヴィル、スキルナの中で、一番高位なのは彼女だ。若輩だからと、指揮系統を曖昧にするわけにはいかない。皆の意見を聞きながらだとは言え、戦場に出ればフリージアの指示が最優先となるし、実際、ビグヴィルとスキルナも彼女を立てようとするだろう。
身震いしそうになるのを、フリージアは辛うじてこらえる。と、我が身に注がれる視線に気付いた。
彼女を案じる色を隠さぬフレイとサーガの目に、フリージアは自分自身に活を入れる。心中に巣食う不安は奥底に押し込めて、敢えて明るい声を出した。
「話し合いは、今日でおしまい。後は出たとこ勝負。変に考え過ぎるより、動いちゃったほうがいい時もあるでしょ?」
フリージアは、皆を見回してニッと笑った。それを受けてミミルが立ち上がる。
「では、出立は予定どおり三日後、それでよろしいでしょうか?」
フリージア、ビグヴィル、スキルナは彼のその言葉に深く頷いた。そうして、それぞれの役割を果たすべく動き出す。
ビグヴィルとスキルナは早々に会議室を出て行ったが、フリージアはとどまりフレイに駆け寄った。グランディアを出る前に、一つ、話しておきたいことがあったのだ。
いつものように、サーガとミミルも彼の後ろにいる。まだ実現可能かどうかも判らない内容のことだったのでフレイだけにこっそりと伝えておきたかったが、仕方がない。
「王様」
「どうした、フリージア?」
「あの……」
いざ話そうとすると何だか途方もないことのように思われて、フリージアの中にはやはりまた後日にしようかという迷いも生じてきた。珍しく歯切れの悪い彼女を、フレイは急かすことなく待っている。
しばしの逡巡の後、フリージアはクッと顎を上げてフレイの目を見た。
「あの、この戦いが終わった後に、やってみたいことがあるんです」
「してみたいこと……?」
「はい。それには王様と……ミミル宰相の許可も必要なんです」
「それは、そなた個人に止まる事ではないということか。国に関わる事だと?」
「はい」
フリージアは顎を引いてコクリと頷く。
全ては、この戦いに勝ってからのことだ。敗れてしまえば、フリージアが思い描いたことは絵空事に過ぎなくなる。
だからと言って、『もしも』勝った『なら』というふうには考えたくなかった。吹っかけられたものではあるが、買ったからにはこの喧嘩には勝たなければならない。
最初から、勝つ気でいなければ。
だから、敢えて、今フレイに話しておこうと決めたのだ。
最初にこの場所に来ようと決めた時、フリージアの中には戦いに勝つこと、ニダベリルを追い返すことしかなかった。そうすれば、グランゲルドの平和が守れると思っていた。
けれど、今は違う。
今、彼女の目はその先にあるものを見つめていた――戦いの、更にその先にあるものを。
フリージアは強く拳を握り締め、そして自分の頭の中にあることを告げようと口を開く。
「あの、――」
続いた彼女の願いに、三人は黙って耳を傾けた。
*
バイダルと剣を合わせていたオルディンの視界の隅に、訓練場にひょこりと姿を現したフリージアが入り込む。大勢の兵士がいる中で、彼女はすぐにオルディンの姿を見つけたようだ。視線が合い、フリージアが小さく手を挙げる。
「バイダル、ここまでだ」
打ちかかってきた彼の剣を捻じ伏せながら、オルディンは言った。
「ああ……」
バイダルもフリージアに気付いたようで、オルディンの剣にかかっていた力がフッと抜ける。互いに剣を収め、彼女の方へと足を向けた。
「あ、オル、バイダル、話し合いは終わったよ。考えてても何だか埒が明かないから、後はもう行動あるのみ、かな。予定通り、三日後に出るよ」
「準備は整っている」
答えたのはバイダルだ。フリージアは彼に頷くと、続ける。
「ニダベリル軍が進撃を開始したっていう連絡が来たのは四日前でしょ? ロキスが言うにはグランゲルドとの国境まで辿り着くのに三十日はかかるって。投石器がある分だけ、歩兵以下の速さになっちゃうんだってさ」
「まあ、そうだろうな。あれが倒れたら元に戻すのは一苦労だろう。どうしても歩みは慎重にならざるを得んからな」
オルディンはさもありなんと肩を竦めた。ニダベリルは強固かもしれないが、鈍重だ。そこは付け入る余地がある。
「あたしたちの方がずっと早く国境まで行けるよね。その分、色々有利になると思うんだ」
「何を考えてるんだ?」
オルディンが眉をひそめて見下ろすと、フリージアはニコリと笑った。
「ちょこちょことね。正面切ってぶつかったら絶対勝ち目がないでしょ? 牙狼とか大爪熊とか、普通にやったら仕留められないのと同じに」
「ニダベリルは獣よりは頭があるだろうけどな」
「まあね。だから、実際はやってみないとどう転ぶかわからないんだけどさ。……こういうのってまずいかな、バイダル?」
少々心許なげな眼差しを向けられ、バイダルはかぶりを振った。
「いや、ゲルダも大差はなかった――切り替えと決断は速かったがな」
「切り替えと決断……」
「ああ。そして、行動に迷いがなかった」
バイダルの隻眼が、ヒタとフリージアに向けられている。そこにある光は彼女の中を見通すように鋭い。
フリージアの最大の『弱点』は、迷いがあるところだろう。状況によっては、大を救うために小を切り捨てなければならない時が出てくるかもしれない。あるいは、どうしても救いきれない命も目の当たりにする筈だ。それを乗り切れるかどうかが、彼女にとって一番の山になるに違いない。
元来、巣から落ちた雛一羽に大騒ぎする少女なのだ。
自分の号令一つで傷付き、命を落とすものが出る。
そういう状況でフリージアがどうなるのか――それもまた、その時にならなければわからないのだ。
「オル、何ぼんやりしてるの? 帰るよ?」
フリージアの声で、オルディンは我に返る。
「ああ……」
反応の鈍いオルに気付かぬ様子で、フリージアは歩き出す。そして、唇を尖らせて呟いた。
「今日はもう一つ、大仕事があるんだよね」
それが何を指しているのか、オルディンには判っている。手こずることだろうと、こっそり笑みを漏らした。
「ちょっと……笑ってる場合じゃないんだからね? すんなり聞いてくれるといいんだけどなぁ……」
「そりゃ、無理な話だろ」
「他人事だと思って。いざとなったら、縛り付けてでも置いてかなくちゃ」
フリージアはそう言って、自分自身に気合を入れるように両手を握り締める。
話題はエイルのことだった。今度の戦いにエイルは連れて行かない。
ソルの方は、「エルフィアの問題でもあるのだから」という彼女の意見ももっともなので、フリージアもやむなく連れて行くことに同意した。元々、ソルがマナヘルムを出てきたのは様々なものを見聞きする為だったし、その考えを拒むことができるフリージアではない。何しろ、彼女自身の行動の根っこに、同じものがあるのだから。
だが、エイルのこととなるとそうはいかないようである。フリージアはエイルの事を守ると心に決めていた。危険な戦場に連れて行くわけにはいかないと、フリージアは固く決めているようだ。
問題は、エイルがそれを聞き入れるかどうかだが――答えは推して知るべし。
エイルを説得することが、フリージアにとって出発前の一番の大仕事になるのかもしれない。
やがて屋敷に着くと、真っ先に出迎えたのはいつもと同じようにエイルだ。
「おかえり」
「ただいま」
一心に見上げてくるエイルの頭をフリージアが撫でてやると、それだけで喜びを露わにする。これを説得するのはさぞかし骨が折れるだろう。オルディンは「頑張れよ」と胸の中で無責任に呟いた。
「えぇっとね、エイル。今日は大事な話があるんだ」
「?」
真面目な顔でエイルの両肩に手を置いたフリージアに、エルヴンの子どもは首をかしげる。その灰銀色の目をしっかりと覗き込んで彼女は続けた。
「戦いが始まるのは知ってるよね?」
フリージアの問いに返されたのは無言の頷き。
「それにエイルは連れて行けないんだ」
「イヤだ」
短くかつ断固とした拒否。
フリージアは一瞬グッと息を呑み、続ける。
「嫌って言ってもダメ」
「何で?」
「危ないから」
「ソルは?」
「ソルは……連れて行く」
「じゃあ、エイルも行く」
「ダメ」
「何で?」
「何でって……危ないから」
グルリと回って、やり取りは振出しに戻った。
フリージアは天を仰いで何やら考えている。そしてまたエイルに目を戻すと、ゆっくりと言い聞かせるように話し始めた。
「あのね、戦いになると、たくさん怪我人が出るんだ。そんな時にエイルが傍にいたら、あたしは絶対頼っちゃう」
「それでもいいよ」
「ダメ。前にも言ったでしょう? エイルの命はエイルのものなんだって。戦場で皆の傷を治してたら、あっという間に使い果たしちゃう。そんなの、あたしは嫌だ。それに、戦場で皆が怪我をしたとしたら、その責任はあたしにあるんだよ。エイルじゃない。エイルに背負わせるものは、全然ないんだ」
キッパリと、フリージアはそう言い切った。
その口調に、オルディンは胸を突かれる。フリージアの中では、着実に覚悟が固まりつつあるのだ。確かに、まだ、揺らぎは感じられる。だが、自分が負うべきものは、負わなければならないものは、ちゃんと見えてきているのだ。
不意に、オルディンは不安を覚える。多分、不安に近いものを。
発作的に彼女の腕を掴んで引き寄せたくなったのを、オルディンは拳をきつく握りこんで堪える。目蓋を閉じた彼の耳に届いたのは、妥協を許さぬフリージアの声だ。
頑なに視線を逸らせようとしているエイルの目を覗き込みながら、フリージアが繰り返す。
「とにかく、エイルは連れてかない。決定。ちゃんと帰ってくるから、おとなしく待っててよ」
フリージアの言葉に、エイルはきつく唇を引き結んでいる。傍から見ていても、エイルのその様子は、納得しているとは到底思えなかった。
何故か一瞬エイルのその様が自分自身と重なったような気がして、そんなバカなとオルディンは頭を振る。
エイルはフリージアに守られる者であり、オルディンはフリージアを守る者なのだ――その立場は正反対の筈。か弱いエイルとフリージアの盾になるべきオルディンが同じであってはならない。
だが、ビグヴィルが二人の前に姿を現してから、フリージアはゆっくりと、だが着実に変わりつつあった。
守られていた者から、守る者へと。
フリージアには、何があっても傷付くことのない強さを手に入れて欲しい。彼女が傷付き、打ちのめされる姿は見たくない。
それはオルディンの中にある偽らざる気持ちだ。だから、フリージアのその変化は、諸手を上げて歓迎すべきことだし、実際に歓迎している。
だが、そんな自分の中に潜む小さなしこりの存在を、オルディンは確かに感じていた。




