開戦
最後にこのニダベリルの大地に小雪が舞ったのは、三日ほど前のことだった。
ヴァリは灰色の雲が重く垂れ込めている空を見上げて目をすがめる。そう、相変わらず日の射さない空ではあるが、雪雲はそろそろニダベリルの上から去りつつあるのだ。
厳しい冬が明け、根雪が融ければ春が来る。生命の輝きに満ちたものではないけれど、それでも一応は春だ。
重い装備を保持するニダベリル軍は、雪の深い冬の間は動けない。春になるということは、即ちどこかの国と戦が始まるということだ。
「今度の敵はグランゲルドだよな。ヴァリ、お前、どんな国か知ってるか?」
隣を歩くベリングがそう訊いてくるのへ、ヴァリは肩を竦めて返す。
「ああ……人伝だがな。森と水が溢れる――ニダベリルとは正反対だ」
そう答えはしたが、まるで楽園のように豊かだと言われるその地を、彼は実際に目にしたことはない。滔々と流れる澄んだ川や瑞々しく溢れる緑。ニダベリルの景色を見慣れた者には、まるでおとぎ話のように聞こえる。
ヴァリは思う。
そんな所に住むことができたら、どんなにか幸せなことだろう、と。
だが、ニダベリルがかの国を手に入れたとしても、きっと、ヴァリには関係ない。『ニダベリル人』ではないヴァリがその恩恵を被ることはないのだ。
ヴァリもベリングも、ニダベリルが滅ぼした部族から連れてこられた『転向者』だった。
彼と同じような者は、この国の軍には大勢いる。親を失い――いや、もしかしたら生きているのかもしれないが――この国に連れてこられ、『兵士』という名の武器に作り上げられた子どもたちの成れの果て。
彼らの命は剣や弓や投石器と大差がない。単なる消耗品だ。むしろ、投石器の方が価値があるくらいかもしれない。
毎日毎日、訓練をし、戦をし、また訓練をする。
戦いに明け暮れる日々が好きなわけではないが、さりとて、他に行き場もないのだ。戦うことしか知らない彼らは、ニダベリル軍から離れたとしても、きっと途方に暮れるばかりだろう。
ふと、ヴァリは冬になる前に姿を消した仲間のことを思い出した。
――赤目のロキス。
彼は戦うことが好きだった。戦う場さえ与えてもらえれば、それで満足しているようだった。
強いけれども我が身を振り返らない戦い方をするロキスは、ヘルドの村に不審者が現れたあの時から姿を消してしまった。
「まあ、本望なんだろうな」
ヴァリは呟く。
最近の戦は手ごたえがない、と嘆いていた彼は、きっと不審者と戦って命を落としたのだろう。誰よりも戦いを望んでいた彼が軍から逃げ出すとは思えなかったから。
「何がだ?」
ベリングが眉をひそめてヴァリを見た。それに肩を竦めて返す。
「別に」
と、不意に響いた角笛の音。
集合の合図だ。
「始まる、か。行くぞ、ベリング」
ヴァリは小さく息をつくと、ベリングへ顎をしゃくって駆け出した。
*
アウストルは、グランゲルド王からの書を握り潰した。山ができる程に送られ続けてきたが、彼が目を通すのはこれが最後だ。
内容は、これまでと同じ。
ニダベリルからの要求を拒み、そして『歩み寄り』とやらを求めるもの。
だが、どれほどフレイが言葉を尽くそうが、アウストルには一歩たりとも譲る気はなかった。一度譲歩する姿勢を見せれば、追随するものが必ず出てくる。
「相も変わらず、甘いことばかりを抜かしおる」
その深緑の目を伏せて、アウストルは冷笑を漏らす。かつての戦で、フレイは自ら戦場に姿を見せることはなかった。己は安全な遠く離れた地にあって、配下の者を戦わせていた――年端もいかない、少女を。
きっと、かの国の王は剣を持ち上げることすらできないのだろう。そんな踏み潰されるだけの弱き存在でありながら、フレイ王は要求を重ねてくるのだ。
その姿勢には、腹立たしさすら覚える。
虫の羽音のような彼の言葉など、アウストルが聞けるわけがない。
「かの国の王は存外に頑固者ですな。その決断で民が苦しむかもしれぬというのに、敢えて茨の道を歩むとは。まあ……かつての戦いで勝利したことで、我らを甘く見ているのかもしれませぬが」
「此度はそうはいかん。あちらが戦いを選んだからには、完膚なきまでに叩き潰してくれる」
アウストルは低い声でそう宣言する。
ニダベリルは無敗の国だ。ニダベリルが強国であるからこそ、どの国も戦いを避ける。
強さ、それが即ち戦いを避ける最上の手段でもある。
アウストルは十六年をかけて恐怖をばらまき、『ニダベリル』というその名だけで相手を震え上がらせることができるように、この国を育ててきたのだ。
一度でも負けを見れば、また、他国はニダベリルに抗うようになってしまう。
だからこの戦いは、決して、負けるわけにはいかない。
「まあ、ある意味好都合かもしれん。戦いでグランゲルドを捻じ伏せれば、かの国のエルフィアを全て手に入れることができるぞ?」
アウストルの言葉に、ヴィトルが頷いた。
「確かに。どれほどなのかは把握できておりませんが、グランゲルドに集まったエルフィアの数はかなりのものにのぼることは間違いありませんからな。我が国土全てを潤すことができるやもしれませぬ」
宰相の台詞と共にアウストルの脳裏によみがえるのは、かつて目にしたグランゲルドの豊かな大地だ。どこも緑が溢れ、同じ地上だとは思えない美しさだった。
――もしもこの国をあのようにできるのであれば。
アウストルは、どんな労苦も犠牲も厭わないだろう。
「ヴィトル。イアンとフィアルを呼べ。兵を集めろ」
「は」
ヴィトルは深く一礼し、アウストルの執務室を出て行く。
シンと静まり返った部屋に一人残されたアウストルは、自らの呼吸に耳を澄ましているかのように腕を組み、瞑目した。
緩やかな川のように流れゆく静寂。
やがて再び目を開き、アウストルは立ち上がる。
彼が向かった先には、ヴィトルの他、イアンとフィアルも到着していた。
「王、皆揃っております」
ヴィトルの言葉に黙って頷きを返すと、アウストルは露台の端へと歩み出た。
眼下に居並ぶのは、千五百あまりの兵士たち。これに徴募兵を加えれば、総勢三千名にも及ぶ。彼らは一糸乱れず整列し、微かな衣擦れの音も立てず、真っ直ぐに露台の上に立つアウストルに視線を注いでいる。
ニダベリル軍の兵士は入れ替わりが激しく、十六――じきに十七年が経とうとしているあの戦いの事を知っている者は、少ない。だが、皆無ではないのだ。一握りの者が囁く言葉は、ジワリと浸透していく。
――グランゲルドは、かつてニダベリルに勝利したことがある国だ、と。
それ故か、兵たちの顔にはいつもと違う色が浮かんでいる。
彼らをグルリと睥睨し、アウストルは口を開いた。
「皆の者、再び戦いの時だ! 出立は七日後、敵はグランゲルド! 此度の戦は、我が国に莫大な恩恵をもたらすだろう。目前にあるものは勝利のみ!」
腹の底へと響き渡る王の声は、兵の戦意を掻き立てる。言葉は多くなくていい。ただ、その眼差し、その声だけで、彼らを鼓舞するのだ。
一瞬遅れて、兵士の咆哮が応える。地を揺らすその轟きは、アウストルの片手一つでピタリと止んだ。
「兵士は国の為に在る。国の為に斃れた者の屍は、たとえ彼方の地で朽ち果てようとも祖国の土になる。命を惜しむな! 貴様らの本分を果たせ!」
再びの、地を揺るがす喊声。
一気に沸き立った彼らの熱気を、肌で感じる。アウストルが勝利を確信していれば、兵士もまた、それを信じるのだ。
アウストルは両手を天に突き上げ気炎を吐く兵士たちをグルリと見渡す。個々の彼らは知らない。だが、それは、彼が誇る『ニダベリル軍』だった。
轟くその声を背に受けながら、アウストルは身を翻した。
「投石器の数は、いかほどに? 何基運ばせましょう?」
その後を追ったヴィトルが問い掛ける。イアン、フィアルも遅れて続いた。
「四、だ」
「は? 四基、と?」
投石器は重く、交代要員を入れれば運搬だけでも一基毎に三十人は必要だ。進軍も遅くなる。ヴィトルが眉をひそめるのも尤もだった。
そんな彼に、アウストルは頷きを返す。
「ああ」
異議を唱えたのはイアンだった。
「ですが……ざっと数えても我が国の兵は三千、かの国は千。兵士たちだけでも遥かに優位に立っておりますぞ?」
ニダベリル軍はイアンが率いるグイ大隊とフィアルが率いるダウ大隊とに分かれている。どちらも騎兵、歩兵、弓兵、重装歩兵から成る混成部隊だが、その将の気性の差で、グイ大隊が前線に立つことが殆どであった。そして、多くの場合、彼の隊だけでけりが着く。
自軍の力に絶対の自信を持つイアンは、投石器に対してあまりいい気持ちを抱いていない。
アウストルはそんな彼に肩を竦めて返した。
「奴らは俺達の進攻を食い止めればいいだけだ。あちらから打って出ることはしない代わりに、頑丈な防衛線を築いてくるだろうよ。戦が長引けば、あちらの方が有利。投石器が前線に着き次第、木端微塵に叩き潰してくれるわ」
イアンはまだ何か言いたそうにしていたが、結局はその口を閉ざした。代わりに、二人のやり取りを傍で聞いていたヴィトルが相槌を入れる。
「ではそのように」
足早に去って行く宰相を見やりながら、アウストルは拳を固めた。
元々、ニダベリル軍の強みは緻密な作戦ではなく、圧倒的な武力とそれをためらいなく使う王の勇猛さだ。兵士一人一人がこの強国の駒であることに誇りを抱き、大群は王の元で一本の太い槍となる。
グランゲルド軍は策を弄してくるだろうが、所詮、両軍の力の差の前では歯が立つまい。
アウストルはこの十六年をかけて作り上げてきたニダベリルの力を信じていた。何人たりとも、彼らの行進を止めることなどできはしない、と。
「ぬるい平穏に浸かりきった奴らになど、我が軍は負けはせん」
――そう、二度と。
アウストルは奥歯を噛み締め、そう断言する。彼はこの国の王であり、この国を護り、支える者なのだ。
支えは、常に強固であらねばならない。
ほんの一瞬、脳裏をよぎった深紅の影に、アウストルは握った拳に力を込める。
アレは、過去のものだ。
何故、あの面影がいつまでも彼の中に残ったままなのか、アウストル自身にも判らない。敗れた悔しさなのか、それとも――
アウストルは頭の中にあるものを消し去るように、正面を見据えて言い放つ。
「勝利は、この手の中にある」
その心中は解からぬままに、力強い王の言葉に、控える将軍二人は深く頭を下げた。




