誘い
「ああ、気が逸ってしまった。儂はこのグランゲルドの第三位の将軍、ビグヴィル・ラルと申す」
「はあ」
それだけで全てが通じるだろうと言わんばかりの顔で、その男はフリージアに名を告げた。だが、名乗られたところで、フリージアはそんな間の抜けた声を返すだけだ。
間の抜けた彼女の反応に、ビグヴィルと名乗った男は眉間に深いしわを刻む。そして、怪訝な面持ちで背後のオルディンを肩越しに振り返った。
「何もお伝えしていないのか?」
唸るような声での問いに、オルディンは無言で肩を竦めて返す。一人蚊帳の外に置かれたフリージアは、ただ交互に二人を見やるだけだ。
そんな彼女の前でビグヴィルは立ち上がり、再びフリージアに向き直ると困惑した眼差しを彼女に注いだ。
「何からお話ししたら、いいものか……てっきり、全てご承知と思っていたのだが……」
「全部って、何を? 『将軍様』なんかがあたしに何の用?」
うさん臭そうな目で睨み付けるフリージアに、ビグヴィルは困り顔で苦笑いを浮かべる。そしてその苦笑を消すと、改まった口調で切り出した。
「その……貴女も、その『将軍』でいらっしゃるのだ。貴女は、この国の第一位将軍、ゲルダ・ロウグの娘御であり、名門ロウグ家を継ぐ唯一のお方だ」
彼の簡潔かつ明瞭な台詞にフリージアは一瞬目を丸くする。と、次の瞬間、盛大に噴き出した。ケラケラと笑って、目元ににじんだ涙を指先で拭いながらオルディンを振り返る。
そういうことかと、フリージアもようやく合点がいった。
「ちょっと、オル、手が込んでるなぁ。村の中にいたっけ、この人? 鎧は何? 村の祭りかなんかの為の衣装?」
「ジア」
「もう、あたしが引っかかるわけないだろ、こんなの。将軍なんてちょっと話がでか過ぎるよ」
「ジア、聞けって」
「オルも何のつもりなんだよ。こんな悪戯企んで」
「フリージア。そのおっさんの言っていることは、事実だ」
オルディンの低い声でのその台詞に、フリージアの笑顔がピシリと固まる。
「お前は、この国で一番偉い将軍の一人娘だ」
彼の顔も口調もいたって真面目だ。というより、そもそも、今まで彼がふざけたことなど、一度もない。
表情を消して口を閉ざしたフリージアに、ビグヴィルが咳払いを一つして、言う。
「どうも、初めからお話ししなければならないようですな。その男からは何もお聞きでないのか?」
「何なんだよ、最初からって!」
フリージアは気まずそうなビグヴィルではなく、素知らぬ顔で彼女たちを眺めているオルディンを睨み付けた。
親は自分が幼い頃に死んだのだと、フリージアは思っていた。オルディンとの間に血のつながりがないことは外見で明らかだったから、孤児になったフリージアをオルディンがたまたま見つけて拾ってくれたのだとずっと信じていたし、彼も彼女のその認識を否定したことがなかったのだ。
フリージアは唇を噛んで俯く。
しばらくモヤモヤと自分の中の葛藤と戦っていた彼女だったが、グッと顔を上げるとオルディンに向けて非難の声をあげた。
「全部、話せよ!」
彼女の険しい眼差しにも、オルディンは普段と変わらぬ口調で淡々と答える。まるで、いつもの会話を交わしているかのように。
「お前が三歳の時、お前の母親から連れて行くように頼まれたんだよ。お前を殺そうとしている奴がいたんでな。それからもたまにあっちから文はあったが、返せとは言ってこなかったから、お前が母親と会うことはないだろうと、言わずにおいた」
オルディンのその口から語られたのは、フリージアには、どう受け取っても冗談としか思えない内容だった。だが、彼には全幅の信頼を置いている。だから、嘘や戯言だと笑い飛ばすことができなかった。
強張った舌で、かろうじて一言だけ、返す。
「それだけ?」
「ああ」
申し訳なさそうな素振りなど微塵も見せずに平然と返してくるオルディンに、フリージアは低い声で問うた。
「何で、今まで言わなかったんだ?」
「お前が訊かなかったから」
「言ってよ!」
オルディンと二人きりで暮らして、十年以上になる。今さら親のことを言われても、何も思わない――筈だ。
その筈なのに、フリージアは胸の中に立ち込める感覚を持て余す。
「お前の母親は、お前が戻ることを望んでいなかった。だったら、何も知らない方がいいだろう」
「望んで、いなかった……?」
「言っただろう? お前を殺そうとしている奴がいた、と。元々俺は、そいつに送り込まれた刺客だった」
「はぁ? 何それ、もっと訳が解かんないよ」
「お前を殺しに行ったら、お前の母親に返り討ちに遭った。そのまま、彼女からお前を託されたんだよ。自分の手元に置いておいたら護りきれないからってな」
その告白をしているオルディンの心の底からイヤそうな顔は、作り話をしているとは思えない。母親という人の為人が、聞けば聞くほどフリージアには解からなくなる。
「母さんって、どんな人なの?」
思わず呟いたフリージアに、それまで黙っていたビグヴィルが口を開いた。
「とても素晴らしいお方です。王を想い、国を想い、民を想う。比類なき武の腕をお持ちでしたが、それに驕らず、力無き者も軽んじることのない、慈愛の心もお持ちでした」
フリージアの母親なのだから、ビグヴィルから見たら、娘と言っていいほどの年の筈だ。にも拘らず、母親のことを口にする彼の眼差しには崇拝の色が溢れている。
全く記憶に残っていない『母親』が見ず知らずの人間にこんなふうに褒められているのを聞くのは、フリージアには何だか奇妙な感じがした。と、ふと、些細なことに気が付く――些細だが、引っかかることに。
「何で、過去形なの?」
彼女のその台詞に、ビグヴィルがハッと息を呑んだ。眉間にしわを寄せて口ごもる彼に代わって答えたのは、オルディンだった。
「死んだんだろ?」
「!」
無造作に言い放ったオルディンを、ビグヴィルは射殺しそうな目で睨み付けた。その様が、オルディンの推測を何よりも雄弁に裏付けている。
武骨な軍人のそんな気遣いに、フリージアは思わず小さく笑いを漏らした。たった今、存在を知ったばかりの『母親』が生きていようが死んでいようが、彼女にはどうでもいいことだ。別に、何も感じたりはしない。
「いつ、死んだの? 最近?」
淡々と訊くフリージアに、ビグヴィルは気まずそうに答える。
「ほんの、十日ばかり前のことです」
十日と言えば、ちょうど、牙狼を退治していた頃だ。自分がいつもと全く変わらぬ日々を送っていた時に、母親は命を落としたのか。存在すら知らないうちに、フリージアの知らない場所で、顔すらも思い浮かべることのできない、母親が。
「そうなんだ……」
彼女がポツリと呟くと、ビグヴィルは痛ましそうに目元を歪ませる。
フリージアは少し視線を落として自分の中に何かが湧き上がってこないか、待ってみた――悲しみとか、寂しさとか、そんなものがこみあげてこないものか。
だが、何も感じない。何も。
では、母親の方はフリージアのことをどう思っていたのだろう。オルディンに文をよこしていたということは、忘れてはいなかった筈だ。
「母さんって、おじさんにはあたしのことを何て言ってた?」
フリージアの問いに、再び老将軍はグッと唇を引き結ぶ。その応えに、彼女は苦笑した。どうも、フリージアが言うことは全て彼を困らせてしまうらしい。
少し視線をさまよわせた後、彼は歯切れ悪く、言う。
「その……ゲルダ殿は、貴女の存在をまったく匂わせておられなかったのだ。亡くなる直前、そこのオルディンにつなぎを付けるようにと、おっしゃられ……そこで初めて、『娘がいる』と。最期の最期まで、秘そうとされておられたのだ」
「ふうん」
フリージアの気のない相槌に、ビグヴィルの声に熱がこもる。
「目の色こそ違っておりますが、貴女のお顔立ちとその髪の色、ゲルダ殿と瓜二つです。間違えようがない」
フリージアの出自を疑う気持ちはないのだと、彼は言いたいのだろうか。だが、正直言って、彼女にはそんなことはどうでもいい。彼が信じていようが、疑っていようが、どうでもいいことだった。
熱く語るビグヴィルとは裏腹の冷めた気持ちで、フリージアは彼の言葉を耳に入れる。
「思えば、父君を早くに亡くし、あの方が将軍の地位に就いたのは今の貴女とそう変わらぬ年の頃であった。お飾りに過ぎないと思われたのだが、いや、我々の予想は真逆に裏切られたものだよ」
ビグヴィルはそこで一度口を閉じると、まじまじとフリージアを見つめた。
「貴女とこうして相対してみて、何故、ゲルダ殿が貴女を手放されたのかが解かった。その目の色……確かに、都には置いておけなかっただろう」
「目?」
フリージアはその鮮やかな新緑の目を瞬かせる。確かに、茶系の目や髪の色が殆どなこの国において、彼女の赤毛や緑の目は珍しい。加えて、オルディンも黒髪黒目で決してグランゲルドによくいる色の組み合わせだとは言えなかったから、てっきり、二人揃って他の国から流れてきたのだと思っていたのだ。だが、ビグヴィルの様子を見る限り、彼はこの目の色に思い当たる節があるらしい。
首をかしげた彼女を通り越して、その先にあるものを見る眼差しとなったビグヴィルは、どこか上の空で続けた。
「……もしかしたら、貴女をお連れしない方が良いのかもしれない」
ぽつりとこぼした彼は、次の瞬間、ハッと我に返ったように口をつぐむ。
ビグヴィルが口を閉ざし、フリージアも言葉が見つからず、その場には沈黙が下りた。
と、それまで静観していたオルディンがつまらなそうな声音で割って入る。
「なぁ、そいつには母親を餌にしても無駄だぜ? もっと、納得できるようなことを出さねぇと動きはしないさ。こいつが必要な理由は、後継ぎがいないからってだけのことじゃないだろ?」
ぞんざいなオルディンの言い方に、ビグヴィルは一瞬眉を険しくしたが、彼の物言いに目くじらを立てている場合ではないことを思い出したのか、小さく咳払いをした。そして、気を取り直したように声を改めて続ける。
「ロウグ家は第一位の将軍家だが、確かに、後継者がいないのも平素であれば大きな問題ではない。他の将軍家で子どもが生まれれば、その子を養子として継がせればいい」
「じゃあ、別にあたしなんかいらないじゃん」
このグランゲルドは平和そのものの国だ。そもそも、軍隊自体がいらないのではないかと思われるくらいに。見つめてくるフリージアを前に、ビグヴィルは数呼吸分置いた後、渋面で重々しく告げた。
「宣戦布告を、されたのだ」
「宣戦布告?」
瞬きしながらフリージアがおうむ返しをすると、ビグヴィルは深く頷いた。
「ニダベリルはご存じだろう?」
「北にある国だよね」
「その通り。北で我がグランゲルドと接する強大な国で、その武力で次々と周辺の小国や部族を呑み込んでいっておる。以前より、我が国のことも虎視眈々と狙っていたのだが、ついにその牙を我らに対して剥く気になったようだ」
「そこに、何であたしが絡んでくるの? 『将軍』なら、おじさんがいるじゃないか」
こんな小娘引っ張り出さなくても、と言わんばかりのフリージアの口調に、彼はかぶりを振る。
「ゲルダ殿は、別格だったのだ。ただ、家名だけの問題ではない。あの方は、その存在そのものが重要なのだ。桁違いの力を持つ軍事大国と戦うには、欠くことのできない、旗印なのだよ」
「……おじさん、言ってて情けなくならない?」
「娘ほどの年ごろの女性にすがって、か? そんな卑小な自尊心などどうでもよくなるほどの方だったのだ、ゲルダ殿は」
そうして彼は再びひざまずく。
「色は違えど、貴女のその目に宿る光はゲルダ殿とまるで同じ。指揮をしろとは申しませぬ。ただ、皆の前に立ち、その笑みで彼らを鼓舞していただきたいのだ」
フリージアの手を両手で捧げ持ち、ジッと彼女の目を見上げてくる。
「ゲルダ殿の死で、兵たちは浮足立っておる。士気が落ちれば、ただでさえ厳しい戦いが、更に不利になってしまうのだ。ニダベリルは容赦のない国。隷属することになれば、我らは人として扱われまい」
頭の上から見下ろされるのよりも、こうやって、すがる眼差しで見上げられる方が、嫌だった。
フリージアは彼の手の中から自分の手を引き抜くと、無意識のうちに一歩後ずさる。その開いた距離が、何よりも彼女の胸中を表わしている。
彼女のそんな反応に、ビグヴィルは苦い笑いを浮かべると立ち上がった。
「急に何もかも聞かされ、混乱されておられるだろう。今日のところは引き揚げて、明日、返事を伺いに参るとしよう」
そう宣言し、ビグヴィルは目を細めてフリージアをジッと見つめる。
今まで誰にも向けられたことのないその眼差しは、妙に居心地が悪いものだった。彼は一歩も動いていないのに、何だか追い詰められているような気持ちになる。
――まだ、何か言うのだろうか。
身構えるフリージアにふと口元を緩ませると、ビグヴィルは納屋の扉に手をかけ、マントの裾を翻して去って行った。
老将軍が姿を消しても、フリージアは身じろぎもせずに立ち尽くしたままだ。オルディンはそんな彼女にチラリと目を走らせると、声一つかけることもせずに、ビグヴィルの訪問で中断されていた荷造りを再開する。
元々、明日にはここを出発するつもりだったのだ。行き先がどこになるにしろ、荷物はまとめておかねばならない。
そうは思ったが、フリージアの胸の中にはムラムラと怒りが湧いてくる。
フリージアは、つかつかと彼女に背を向けて身を屈めているオルディンに歩み寄った。そして、片足を上げてその背を蹴る――思い切り。
「いてッ!」
つんのめったオルディンが肩越しに振り返って睨み付けてきたが、フリージアはもう一度蹴り飛ばしてから、ドサッと彼の背中にのしかかった。
「あたしに黙ってること、他にはもうないよね?」
「……多分な。俺が知っていることは、それほど多くない」
「なら、いいけどさ」
それきり黙り込んだフリージアを、オルディンはズルリと引きずりおろす。そうして彼女を前に立たせると、自分は膝を床についたままで問いかける。
「で、どうするんだ? 行くのか?」
あんなやり取りの後だというのに、オルディンの口調は全くいつもと変わらない。次は北と南、どちらに行くのかと訊いているだけのようだ。
そんな彼に、フリージアもまた、いつものように即答する。
「逃げよう」
オルディンの片眉が微かに持ち上がったのを見て、フリージアは唇を尖らせた。
「だってさ、あたしが『将軍』だとか、変だろ? 有り得ないよ」
「まあ、そりゃそうだがな」
「でしょ? だから、さっさと逃げよう。あのおじさんの様子じゃ、そう簡単には諦めてくれそうもないし」
言うなりオルディンの手から袋を取って、荷物をさっさと詰めていく。
「夜中に出発しちゃおうよ。だいたい、こんな素人にあんな話持ってくる方がおかしいんだって」
ブツブツとこぼすフリージアは、自分の背を追うオルディンの視線には気付いていなかった。