決断
一日おいて気持ちを入れ替え、オルディンを除く前日と同じ面々は会議室に集まっていた。
スキルナとミミルはいつもと変わらぬ様子でいるが、フレイは心持ち表情が硬く、ビグヴィルも気まずそうにしている。サーガは真っ直ぐ前を向き、父親には一瞥もくれなかった。
「では、ロウグ将軍。エルフィアとお会いになって、いかがでしたかな?」
息苦しさを覚える空気の中で、ミミルがそう切り出す。
「ええっと……エルフィアの長の返事は、『王様の好きにしてくれ』の一点張りだった。どういう決断でも受け入れるからって」
「つまり、収穫なしということですな」
「う……まあ、そうなんだけど……」
ミミルにキッパリと断言され、フリージアは口ごもる。が、また目を上げて彼を見た。
「あ、でも、ラタからも伝えてもらったよね。後で紹介するけど、エルフィアの若い子を一人連れて帰ったんだ。ソルっていうの。エルフィアとの新しいつながりになると思うんだ」
「それはまたおいおい。まずは目下の問題であるニダベリルとのことをどうするか決めなければ」
フリージアの言葉はサラリと流し、ミミルはフレイに視線を注いだ。
「王よ。この件については随分と議論を重ねてまいりました。そろそろお考えをうかがいたく存じます」
そう告げ、彼は静かに腰を下ろす。
フレイは皆の眼差しが向けられる中、瞑目している。その唇は引き結ばれたままだった。
沈黙が続いても、誰一人身じろぎ一つしない。短くはない時間が過ぎていく。
やがてフレイはゆっくりと目蓋を上げた。そして一同をグルリと見渡し、声を発する。
「ニダベリルに再三送っている親書には、一度も返事がない。条件を緩める気はないという意思表示なのだろう」
それは、普段の柔和なフレイとは全く違う、芯の通った声だった。フリージアは息を詰めて彼の言葉に耳を澄ませる。
「ザイン将軍」
名を呼ばれ、スキルナは微かに身じろぎした。フレイは彼を見つめる。
「そなたが国を想う心は――国を戦いの渦中に置きたくないという想いは、よく解かる」
「……ありがとうございます」
王の言葉にスキルナは目を伏せ、答える。フレイは再び口を閉じ、そして、続けた。
「余も、戦いは望まぬ。ニダベリルの要求するものが作物だけであれば、いくらでも援助しよう。だが、エルフィアを差し出すことはできぬ。一度受け入れたからには、余は彼らに責任がある。エルフィアもまた、この国の『民』ぞ。『民』を護るのが『国』の務め。民の命を預かる者として正しい選択とは言えぬのかもしれないが、それでも、余は、数の大小で選択できぬのだ。一握りのエルフィアを護る為に軍を動かす必要があるというのなら、余はそれも辞さぬ。ロウグ将軍、ラル将軍、ザイン将軍」
立ち上がったフレイは、フリージア、ビグヴィル、スキルナを順々に見据えた。
「ニダベリル軍が我がグランゲルドに一歩でも足を踏み入れることがあれば、直ちにこれを撃退するように」
凛とした声が、会議室に響く。
「は!」
「御意!」
もとより戦に賛成だったビグヴィルだけでなく、スキルナも短く、だがはっきりとフレイの下知に応じた。薄氷が張ったようなその場の空気に、フリージアは一瞬ブルリと身体を震わせる。
フレイは、戦うことに決めた。
道はもう一方向にしか進めなくなったのだ。
「フリージア殿」
不意に名前を呼ばれ、フリージアはいつの間にか俯いていた顔をハッと上げる。声の方に目をやれば、そこにはビグヴィルの目があった。彼は微かに微笑んで、頷く。
「大丈夫。貴女はお独りではない。我々もおるのですから」
「ビグヴィル将軍……うん、そうだね」
完全に、ではないが、強張っていたフリージアの肩の力が少しだけ抜けていく。笑ってみせると、ビグヴィルの笑みも深くなった。
「さて、それでは儂は黒鉄軍の者どもに話してくるとしますか。いや、すでに心構えは万端ですがな」
そう言って豪快に笑うと、彼は真っ先に会議室を出て行った。その一つ向こうの席で、スキルナも立ち上がる。父親の動きに、サーガは眉一つ動かさない。
いつも朗らかな彼女のそんな様子に、フリージアは唇を噛んだ。
一番の『被害者』はロウグ家の者、ゲルダとフリージアである。しかし、そんなふうに父親を拒絶しているサーガの様を見ていると、フリージアは何だか胸が苦しくなってくる。それほどまでにゲルダのことを慕っていたのだろうが、できることなら、また笑顔を交わす二人に戻って欲しいと思った。
ため息をつきつつ、フリージアは戸口に向けて歩き出そうとしたスキルナを呼び止める。
「スキルナ将軍!」
昨日の告白から、まだ一度も会話をしていない。どんな顔をしたらいいのだろうかと少々硬くなってしまったフリージアとは対称に、スキルナは全く普段通りの彼だった。
「いかがされました?」
振り返った彼は、穏やかな声でそう訊いてくる。それは、フリージア達がマナヘルムへ旅立つ前となんら変わりのない様子だ。
一瞬、何もなかったのではないかと錯覚しそうになる。
「えぇっと、その……」
自らの考えを言葉にし難くて、フリージアは何度か口ごもる。
その間も、スキルナは彼女を急かすことも無くジッと待っている。視線を彷徨わせたフリージアの目に、ふとフレイやミミルの姿が入ってきた。
「ちょっと、あっちの方でいいかな」
言いながら、フリージアは部屋の隅の方を指差した。別に他の者に聞かれてまずいわけでは――いや、やはり、スキルナの答え如何によってはまずいことになるのかもしれない。
スキルナを引っ張っていき、王たちと充分な距離を取れたところでフリージアは小さな声でもう一度切り出した。
「あの、スキルナ将軍はあたしの父さんのことを知ってるの?」
「お父上、ですか?」
「うん。あたしが小さい頃にも殺そうとしたんでしょ? それって、父親に問題があるからじゃないの?」
そう言って彼を見上げるフリージアの目を、スキルナはしげしげと見下ろしてくる。
「まあ、確かにそうですね。問題があると言えば、大いにあります」
「やっぱり――」
フリージアはその先まで言いそうになって、グッと口を閉じた。ここへ来て、オルディンの帰りを待っていた時にロキスが口にした台詞が現実味を帯びてよみがえってくる。
あの時は、笑い飛ばした。
だが、今は。
スキルナが年端もいかない子どもの命を奪うことも辞さなかったほどの、醜聞。
――本当に、自分の父親は……
その先を考えるのは、怖い。もしもそれが事実ならば、フリージアはここにはいられなくなるかもしれない。
固くなったフリージアの表情に、スキルナは目ざとく気付いたようだった。
「どなたからか、何かを聞かされましたか?」
「え?」
「何か、思い当たる節がおありのように見受けられますが」
「え、あ……うん……」
促されても、ロキスから聞かされた事は、そう易々と口にできる内容ではない。もしも彼の台詞が正しいのであれば、彼女が敵に回すのは――
これは、白黒つけておかねばならない問題だった。
「あのさ、あたしの父親って、もしかして、ニダベリルの王様?」
「――……はあ?」
意を決してフリージアがそう切り出した時、スキルナのその口から洩れてきたのは、彼らしくない間の抜けた声だった。
「いったい、どのような経路でそのような結論に至ったのです?」
心底から意外そうな顔で返され、フリージアは心持ち頬を赤らめる。
「だって……ニダベリルの王様も緑の目をしてるって聞いたんだ。ほら、その……『時期』も、ちょうど戦ってた時でしょ? だから……」
フリージアの言葉に、スキルナは「初めて気が付いた」という風情で頷いた。
「ああ、そう言えばそうですね。ですが、私の頭の中にその考えは全くありませんでした。もしそうであれば、命を奪おうなどとは思いません。もっと有効な使い道がありますから」
「え、じゃあ、誰なの?」
スキルナの返事で肩の荷がストンと下りると同時に、フリージアの胸中にはまた新たな疑問が浮かび上がってくる。それこそ、本当に『行きずり』の相手なのだろうか。確かに外聞は悪いが、殺されるほどのものとは思えない。
「気付いてもよさそうなものですが……」
首を捻るフリージアの耳は、ポソリと呟かれたスキルナのその台詞を捉え損ねる。
「え?」
訊き返したフリージアだったが、見上げたスキルナの青い目は、彼女を見てはいなかった。フリージアの頭上を通り越して、彼女の背後に向けられている。何だろうかと振り返ろうとしたが、続いたスキルナの問いで、引き止められた。
「ロウグ将軍は、父上のことをお知りになりたいですか?」
改めてそう尋ねられると、フリージアも答えに詰まる。
元々、半年ほど前までは『肉親』という存在など頭の片隅にもなかったのだ。その立ち位置――いや、にフリージアの中でそれ以上重要な部分をオルディンが占めているから、正直なところ、今さら父親なんて……という気持ちも少なからずあった。
「ん……知らなくてもいいって言ったら嘘になるけど、ニダベリルの王様じゃないんなら、まあいいかなっていう気もする。母さんは隠そうとしていたんだし、父さんの方からも何も言ってこないんだし……あたしのことを知らないくらい遠くにいるか、知っても名乗り出たくないかのどっちかなんだよね。それなら――」
別にいいや。
そう言おうとしたフリージアを、背後からの第三者の声が遮った――多分に焦燥を含んだ声が。
「それは違う!」
振り向いたフリージアは、目を丸くしてそこに立つ人物を見上げる。
「王様?」
フレイ自身、思わず口を挟んでしまったという風情で、声を上げたはいいが、その先へとつながる言葉は持っていなかったようだ。
「王様は何か知ってるんですか?」
フリージアの問いに、フレイはジッと彼女を見つめてきた。彼の眼差しは、元々優しく温かい。だが、今フリージアに向けられている新緑の目には、更に深い想いが滲んでいる。
――緑の、目……?
フリージアの頭の中で何かがカチリと音を立てる。だが、あまりに不遜な考えに、慌ててそれを打ち消した。絶対に、それは有り得ない、と。
「王様……?」
あまりに真っ直ぐに見つめられて、フリージアは少々居心地が悪くなってくる。足を踏みかえた彼女に、フレイが口を開いた。
「もう少し落ち着いた頃に、ゆっくりと話をしたかったのだが」
そう言ったフレイの向こうには、ミミルもサーガもいる。フレイの言葉を聞き続けていたら頑丈な鎖に囚われてしまうような気がしてならない。走って逃げ出したいのに、フリージアは指先一つ動かせずに、立ちすくむ。
「フリージア」
ロウグ将軍という肩書ではなく、名前を呼ばれた。
「そなたは余の娘だ」
「ウソ」
反射のようにそう返したフリージアに、フレイが苦笑する。
「嘘ではない。確かにゲルダからはっきりと伝えられたわけではないが、間違いない。余は……一度だけ、ゲルダと夜を共に過ごしたことがあった。その時にそなたが……」
「だって、サーガ様が――」
「わたくしが嫁いだのは七年前の事でしてよ?」
サックリと、サーガが言った。まるで気にしていないように。だが、自分が嫁いでくる前とはいえ、夫に子どもがいたなどという事態は嬉しいことではない筈だ。
「でも、イヤでしょ?」
「あら……」
おずおずと問うたフリージアに、サーガは小さく笑みを漏らす。
「ゲルダ様もフレイ様も、どちらもわたくしの愛しい方ですわ。そのお二方の間にお生まれになった貴女を、どうして疎めましょう。それに貴女を一目見た時から、わたくしには判っておりましたわ――判らないわけがございません」
笑顔でそう断言されても、フリージアはどんな顔をしたらいいのか判らない。この『夫婦』は、彼女がこれまで見てきた『夫と妻』とはかなり違う気がする。
「ゲルダは……先の戦が終わった後、しばらくは北の守りを固めたいと言って北方にあるロウグ家の領地に引きこもった。今思えば、そなたを身ごもっていたからだったのだな」
そう呟いたフレイの様子がどこか寂しげなのは、最期までゲルダが沈黙を守った為か。
「ゲルダはそなたが余の胤だという証左は何一つ残してはくれなかった。だが、余は確信している――そなたは間違いなく、余の娘だということを」
フワリと伸ばした手で、フレイがフリージアの頬に触れる。思わず身を竦ませた彼女に、フレイは微かに苦い笑いを浮かべて手を下ろした。
「そなたからしてみれば、このような頼りのない男が父親では、物足りないのかもしれぬな」
「え、えぇっと、そうじゃなくて……」
フリージアが反応してしまったのは、彼に触れられたのが嫌だったからではない。ただ、戸惑ったからだ。十年以上『身内』はオルディンだけだと思っていたのに、突然父親だと名乗られ――しかもそれが雲の上の人だと思っていた王だとは、すんなり受け入れられる方がおかしいのではなかろうか。
何とか言い繕おうとしたフリージアだが、混乱した頭ではうまい言葉が出てこない。こんな時にオルディンがいてくれたら、ただ傍にその存在を感じるだけで、もう少し頭を巡らせることができるのに。
困りきっているフリージアに、サーガがフフと笑いを漏らした。そしてたしなめるような口調で言う。
「フレイ様ったら、そんなふうにおっしゃって、意地のお悪いこと。フリージアが困ってしまいますわ」
「いや、そのようなつもりでは……」
「少し、時間をあげてくださいな。親子の抱擁は、もう少し先延ばしでしてよ?」
サーガはそう言うが、フリージアにはどれだけ時間を貰ってもフレイに抱きつくことなどできるようになるとは思えなかった。そんな彼女の考えが伝わったかのように、サーガは優しく微笑んだ。
「言ったでしょう? 貴女はわたくしの娘も同然、と。フレイ様の娘なら、わたくしの娘でもあってよ」
そのうち、「お母様と呼んでね」と言い出しかねない。彼女から逃れる気持ちで、フレイに向き直る。
「王様、その……」
「『父』とは呼んでもらえぬのか……」
項垂れたフレイに、先ほど開戦宣言をした時の威厳はない。
まるで自分が彼を苛めてしまったような気分になって、フリージアは視線をまたさまよわせた。そして、今、一番正しい言葉を口にしてくれそうな人物――ミミルに行き当たる。
目が合うと、ミミルは一つ頷いた。そして、おもむろにとんでもない台詞を口にする。
「そうですな、このままお世継ぎに恵まれなければ、ロウグ将軍を娘として公表するのも良いかもしれません」
「待って、待ってよ、宰相! あたしにそんなの無理だってば!」
フリージアは首と両手を振りながら大きな声で全力で拒否する。と、再び、更に沈んだフレイの声が耳に届いた。
「それほどまでに、余の娘であることが――」
さながら地の底に沈み込んでいくような声音である。
「あ、違う、違います、そうじゃなくて!」
フリージアはこれまた慌てて否定した。無理なのは、彼の娘になることではない。深呼吸を一つして、息を整えてから再びフレイの正面に立った。
「王様のことは大好きです――父さんとしてかどうかは、ちょっと判らないんですけど、でも、尊敬しているし、傍にいて気持ちいいです」
「ならば……」
「あたしには『王様』なんて無理です」
「――」
フリージアは、何か言い掛けて口を閉ざしたフレイの両手を取る。その目を真っ直ぐに覗き込みながら、言った。
「『王様』は、王様がやってください。あたしは、王様の手足になって、動きます。王様も、この国の人も、守りますから」
そう宣言して、フリージアは笑ってみせる。その笑顔に、フレイは眩しそうに、そして少し悲しそうに目を細めた。
「ゲルダも、そうやって笑っていた。余は、ふがいない。護るべきは余である筈だというのに」
自嘲の響きを含んでこぼされた彼の台詞に、フリージアはいくつか瞬きをする。
「王様って、それでいいんじゃないですか?」
「え?」
「そこにいるだけでいいっていうか。それに、母さんも、王様を支えにしてたんじゃないのかなぁ」
「余が――支え?」
「そう。王様はこの国の支えでしょ? その王様を、この国の支えの王様を護るんだっていう気持ちが、母さんを支えてたんじゃないかなって思います。だって、何もなくて強い人なんて、そうそういない筈だもの。あたしも、王様を見てると、何だか『よし、やるぞ!』っていう気分になります。多分、みんなが色んな形で支え合っていて、その真ん中にいるのが王様なんです」
そう言ってニコッと笑ってみせる。
「余が、支え……そうか……」
小さく呟いたフレイは顔を上げ、柔和な笑みを浮かべた。
「もしもそうであるのなら、とても嬉しく思う」
「絶対、そうです」
断言したフリージアに、再びフレイが手を伸ばす。大きく温かな両手で頬を包まれ真っ直ぐに覗き込まれても、もう戸惑いはなかった。
「ゲルダがそなたを残してくれて、本当に、良かった」
「あたしも、母さんがあたしを産んでくれて良かったって思ってます」
そう告げて、フリージアは満面の笑みを返す。
これから先、目の前に延びていくのは楽な道ではないだろうけれど、それは今の彼女の中にある、嘘偽りのない気持ちだった。他の誰でもない、ゲルダが彼女の母親だったから、今のフリージアがある。色々な人に会い、色々なことを経て、今のフリージアになったのだ。
それは、母がゲルダで、父がフレイでなければ、有り得なかったことだった。
今の自分が好きだから、この自分を作ってくれた全てのものを、守りたい。
この先どんなことが待ち構えていようとも、それらを守る為に全力を尽くすのだと、気持ちを新たにしたフリージアだった。




