来訪者
宿として借りている納屋の扉を開けて入ってきたフリージアは、グルリと中を見回し、オルディンに目を留めるなり、言った。
「ねえ、スレイプを貸してくれないかな」
乏しくなりつつあった旅の物品を仕入れに行っていた彼女は、干し肉やら硬く焼しめたパンやらが入っている袋をどさりと下ろす。
「何だ、突然」
手入れをしていた剣の曇りをもう一度確かめてから鞘にしまい、オルディンはフリージアに胡乱な眼差しを向けた。ちょっと空の散歩を楽しみたいからなど、可愛らしい理由ではないことは明らかだ。
小さく首をかしげたフリージアが、続ける。
「あのさ、このパン焼いてくれるように頼んだ子、いただろ? ほら、三軒向こうの家の子。ネルっていうんだけどさ」
フリージアに言われて、オルディンは記憶をたどる。確か、彼女よりも二つか三つほど年上の娘だ。気立てが良さそうだったという印象は残っているが、顔だちまでは覚えていない。
「彼女が何か?」
「うん。そのネルのお父さんがさ、腰痛持ちなんだって。でも、痛み止めの薬草が切れちゃってるんだ」
「だから?」
「スレイプなら、薬草が生えてる山頂まで、ひとッ飛びだろ? ちょっと行って、採ってこようかなって」
「何で」
「何でって、痛いのって、イヤじゃないか」
「何でお前が行くんだよ。そのうち、行商人が来るだろう?」
「そんなの、いつ来るかなんて判らないよ。それを待たせるのか? 今、痛いのに?」
フリージアは、目に非難の色を漲らせてオルディンを睨んでいた。
オルディンはフリージアのことを大方理解しているつもりなのだが、時々、どうしても解からないことが出てくる。今のような彼女の言動も、その一つだった。
ネルは、別に長年の友達でもなんでもない。フリージアとオルディンは三日前にこの村に到着したばかりで、たまたま、保存のきくパンを焼いてくれるように頼んだというだけの相手だ。そんな相手の父親が腰痛持ちだろうが頭痛持ちだろうが、どうでもいいことではないかと、オルディンは思う。だが、フリージアにとっては、それは解消すべき問題事項なのだ。
オルディンは半ば呆れながら、彼女を見やる。
拳を握って仁王立ちになっているフリージアは、彼が反論しようものなら徹底抗戦する構えのようだ。いや、あるいは、こっそり夜中にでも抜け出すかもしれない。
今は晩夏で、獣たちが冬眠準備に入るには、まだ間がある。ここいら辺には先日の牙狼のような凶暴なものはいなそうだし、そもそも、スレイプを連れていけば、たいていの獣は近寄ってはこないだろう――並みの警戒心を持つ獣は、飛竜の気配が漂うだけでも逃げ出す筈だ。
それに何より、今日訪れる予定の『客』から、まずはフリージアがいない状態で話を聞きたいと彼は思っていたところだった。
短い間にオルディンはそんなことを考え、そして、頷く。
「まあ、いい。気を付けて行ってこい」
フリージアが置いた荷物に手を伸ばしながらそう答えたオルディンに、彼女は逆にきょとんと目を丸くした。
「……いいの?」
「ああ」
「独りで?」
「無謀なことはするなよ。ほら、竜笛だ」
言いながら、彼が無造作に笛を放る。それを受け止めて、フリージアは一瞬怪訝そうに眉をひそめた。彼女としては、オルディンもついてくると言い出すと思っていたのだろう。
「何か、調子悪い?」
「いや、別に」
「でも……――まあ、いいや。じゃ、行ってくる」
下手につついたら、「やっぱりダメ」と言われるかもしれない。
そんな警戒が透けて見える。
フリージアは手にした笛を背中に隠すように後ろに回すと、ジリジリと後ずさる。そして、クルリと身を翻して駆け出した。
オルディンは彼女の背中が見えなくなるまで見送る。相変らず華奢だけれども、それは子どもから大人に変わりつつある背中だった。
旅を始めたばかりの頃は、オルディンにとって、フリージアはただの厄介者だった。自分では何もできないくせにこまっしゃくれて、何かと彼に云々した。ハッと気付くと彼の背よりも高い木に登っていたり、自分の図体よりも大きな野良犬に喧嘩を売っていたりしたこともあった。
その行動の理由は、枝の上に下りられなくなっている仔猫を見つけたから、だとか、野良犬に襲われそうになっている子どもがいたから、だとかなのだ。生まれ持った性格で看過できないのかもしれないが、その状況を見つけた時のオルディンの心中も多少は察して行動してくれと、何度思ったことか。
さすがに昔ほど無鉄砲ではなくなったが、それでも、先日の牙狼の件のように、忘れた頃にしでかしてくれる。
――まあ、今回も、黙って出て行かなかっただけ、まだマシか。
オルディンはため息混じりで、胸の中でそう呟く。
身体だけではなく、中身も多少は成長してくれているのだろう。
気付けば、フリージアももう十五歳、『子ども』ではなく『娘』と言ってもいい年頃になったのだ。
こうやって、少し距離を置いて彼女を見る時があると、不意にオルディンはその成長に気付かされて奇妙な感覚に陥る。
普段傍にいると、いつまでも出会った頃の、三歳のままのフリージアから頭が切り替わらない。だが、ふとした拍子に、彼女はもう幼子ではないことに気付くのだ。
そのことに、オルディンは戸惑う。
子どもではなくなった彼女は、もう彼の庇護を必要としていないのだということを思い知らされるから。
オルディンは深く息をつく。
もうじき姿を現す『客』がもたらすものは何なのか、彼にはもう察しはついていた。先日唐突に現れ、そして消えたラタは、『彼女』からの使者だ。おそらく、最後の。
オルディンの推測が正しいとすれば、それは、彼にとっても『彼女』にとっても、フリージアには『させたくない』ことなのだが、きっと、彼女が『為さねばならない』ことでもあるのだろう。
オルディンがフリージアと旅に出てから――『彼女』にフリージアを託されてから、時々、忘れたころに『文』が届いていた。中身は、フリージアの様子を尋ねる言葉と、もう一つ「逢いたいな」という一言。だが、何度それを繰り返しても、『彼女』は決して「連れてこい」とは言わなかった。
それは、フリージアを――愛しい我が子を危険から遠ざけておきたいという、親心だった筈だ。
今さらの『迎え』は、果たして『彼女』の心からの意志なのか。
だとすれば、『彼女』が一度こうと決めたことを安易に覆すとは思えないから、よほどの事態が起きているのだろう。
オルディンには、先方から待ち合わせ場所として指示されたこの村を訪れない、という選択肢もあった。フリージアには何も知らせず、これまでと変わらぬ日々を送るという選択肢が。
しかし、最終的にどうするのかは、フリージア自身が決めることだ。オルディンが操作することではない。
彼の取る道はただ一つ、フリージアが選ぶ道だ。彼は、ただそこを歩み、彼女を護っていけばいい。それが、とうの昔から、オルディンの中でピクリとも揺るぎなく、定まっていることだった。
ふと、あの時の『彼女』の台詞を思い出す。
――『生きる理由』。
かつての彼は持っていなかったそれが、今は確かに存在している。すぐ傍に。
『彼女』の宣言は、確かに現実となっていた。
*
村を出て、村民の目が無くなるところまで足を進めたフリージアは、何とはなしに振り返る。当然、村の影すら見えはしないが、彼女は首をかしげて考え込んだ。
オルディンの様子は、明らかにおかしかった。挙動不審というわけではないが、フリージアにスレイプに乗った単独行動を許すなど、今までなかったことだ。
「少しは、あたしの成長を認めてくれたのかな」
そう、口にしてみるが、何か違う気がする。
思い返してみれば、あの牙狼を斃してから、ここ数日、オルディンは何か考えているようだった。元々それほどしゃべる男ではないが、いつにも増して口数が少なかった。
「何だろな……」
呟いてみても、何も思い当たる節はない。
「まあ、いいか」
気が向いたら、そのうちオルディンの方から話してくれるだろうと気持ちを切り替えて、フリージアは竜笛をくわえた。
鳴らない笛に息を吹き込むと、さほど間を置かずにバサリと力強い羽ばたきの音と共に頭上に陽の光を遮る巨体が現れる。その翼が起こす風に舞い上がる砂ぼこりに目を細めながら、フリージアはそれが下りてくるのを待った。
大の大人が三人は乗れそうな深い沼のような濃緑色の身体に、縦に長い瞳孔を持った金色に光る目。鉤爪のついた皮膜状の翼が前足だ。飛竜の体色は何種類かあるが、中でも緑のものは特に凶暴だとされている。
その『緑の飛竜』であるスレイプは、地面に下り立つと、クルルクルルとその図体にはそぐわない甘えた声を喉から出して、フリージアに鼻先を突き出した。
「ごめん。寂しかったよな。もうじき出発だから、また一緒にいられるよ」
鼻面を撫でてやりながら、フリージアはスレイプにそう言い聞かせる。
本来、飛竜はヒトを襲うものだ。こんなふうに甘えてくるのは異様な光景とすら言えた。
確かに、飛竜を飼い慣らして馬のように操っている部族もある。今フリージアの手の中にある竜属だけに聞こえる音色を出すこの竜笛は、その昔、オルディンがそういった部族から譲り受けた物らしい。
しかし、そうは言ってもそれはごく少数の者の話だ。
おそらく、十人中九人の人間は竜属を恐怖の対象にしているだろうから、うっかり人前に姿を見せればえらい騒ぎになってしまう。野宿の時はいいのだが、今回のように村に滞在する時はこうやって空に放ち、必要に応じて竜笛を用いて呼び寄せているのだ。
「でも、まだもうちょっと我慢しててよ? 出発はもう少し先なんだ。今は、乗せてってもらいたいところがあるから、呼んだだけなんだ」
フリージアの言葉に、明らかにスレイプがうなだれる。
「ごめんって。でも、ホントに、もうじき村を出るから。ほら、乗せてよ」
苦笑混じりの彼女の要求に、スレイプがフウと鼻から息をこぼしながら片方の翼を下げた。その背にフリージアはよじ登る。
「ありがと。行きたいのは、あの山頂なんだ。薬草を採りに行きたいんだよ」
スレイプは彼女が指さす方へ鼻先を向けると、クワァと一声上げた。そして、巨大な翼を一つ打ち振るって空へと舞い上がる。
力強いスレイプの羽ばたき一つで、速度はグングン増していく。
いつもは後ろにオルディンがいていい風除けになってくれるのだが、今日はもろに風圧を受ける。のけぞりそうになったフリージアは、腕と腹に力を込めて身を屈めた。風をはらんだ服が、忙しなく肌を打つ。
フリージアは、飛ぶことが好きだ。
前も後ろも、右も左も、上も下も、どこも空間が広がっていて、全てから解放されていることを実感できる。
これ以上の『自由』はない。
幼い頃から気ままな生活をしてきた為か、あるいは持って生まれた性質なのか、彼女は縛られることが大嫌いだった。実を言えば、民家の軒を借りるより、野宿の方が好きであったりもする。星を見ながら眠れるのは気分がいいし、スレイプとも離れずにいられる。そちらの方が、ずっといい。
そんなふうに空の旅をフリージアが楽しんでいると、地上を行けば三日はかかる距離を、スレイプはあっという間に縮めてくれた。フリージアの身体が冷え切らぬうちに山頂に辿り着き、彼女は飛竜の背から跳び降りる。
「さあて、と」
痛みを抑える薬草は、高地に繁殖するから厄介なだけで、探すことは簡単だった。標高が高いだけに植物自体が少なく、軽く見渡しただけで群生している緑が目に入る。
「ちょっと余分に採っていってやろ。あっても、邪魔にはならないよね」
肩から提げていた袋の口を開き、中に薬草を詰め込んでいく。あっという間に袋はいっぱいになった。
「もういいかな」
確認するように呟いて、せっかく採ったのに家に帰ったら無くなっていた、という羽目にならないように、フリージアはしっかりと袋を閉じた。
「スレイプ、帰るよ。またお願いね」
頬を撫でながらそう声をかけると、再び馬上ならぬ竜上の人となる。
往路と同様、復路も空の旅を堪能し、村の近くでスレイプと別れたフリージアは借りている納屋へと急いだ。
「ただいま!」
勢いよく扉を開け、中に駆け込む。
と。
中にいた者の視線が、同時に彼女に注がれる。それは、身に馴染んだものだけではなかった。
「……あれ?」
フリージアを見ているのは、オルディンと、そしてもう一人。彼女の父、いや、祖父と言ってもいいほどの年頃の男だ。
褐色の髪に同じ色の口髭、いかにも高価そうな装飾が施された鎧に身を包んだその男は、「おお……」と声を漏らすと、フリージアを食い入るように見つめながら、意識せぬまま、という風情で一歩を踏み出した。
「誰?」
思わずフリージアはオルディンにそう訊いた。礼儀もへったくれもない彼女のその言いように彼は肩を竦めて返す。
感無量の面持ちで唇を震わせていたその男は、フリージアのその声で我に返ったように瞬きをいくつかすると、真っ直ぐに彼女の前に歩み寄ってきた。
長身のオルディンほど大きくはないが、小柄な彼女よりは頭一つ分は高い。横幅はがっしりとしていて、日常的に身体を鍛えているのが見て取れた。
つまりは、お飾りではない、本物の軍人だ。
そんな男が、何を思ったのかその場に片膝を突く。
フリージアには、何が何だか、さっぱり解からない。薬草が詰まった袋を手に提げたまま立ちすくみ、目の高さが下になった男を見下ろした。
困惑に満ちた彼女の眼差しを真っ直ぐに見返しながら、男が言う。
「お迎えに上がりました」
と。
「はぁ?」
フリージアは、そんな声と共に、一人泰然としているオルディンに視線を移した。